のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

● 「殺してはならない」 聖書箇所 マタイの福音書5章21~26節

 

f:id:kinokunizaka66:20190317222801j:image

序論
 先週はイエス様が聖書を成就するために来られたことを見てきました。その中でも、律法の一点一画も廃れず成就するというくらい、完全に実行するイエス様を見てきました。だから、信じる私たちが、そのイエス様の義をいただいて天の御国に入れるのです。
 しかし、天の御国に入る者とされながらも、この罪の世で生きていかなければならないのも事実です。そこで、この世を歩む上で最も大切なこと。つまり、この世と言う人間社会でどう生きることがまず大切なのかをイエス様は語られます。それが「殺してはならない」「殺すな」です。

 

1.「殺すな」
 殺してはならないという法律は、世界どの国においてもあると思います。それは殺人罪を犯すなというルールです。しかし聖書の律法は、ただ単に殺人を犯してはいけませんという話ではありません。ハイデルベルグ信仰問答という信仰告白のための問答書があります。それにはモーセ十戒の第六戒についてこう書かれています。
その問105「第六戒で、神は何を望んでおられますか。」答え「わたしが、思いにより、言葉や態度により、ましてや行為によって、わたしの隣人を、自分自らまたは他人を通して、そしったり、憎んだり、侮辱したり、殺してはならないこと。かえってあらゆる復讐心を捨て去ること。さらに、自分自身を傷つけたり、自ら危険を冒すべきでないということです。そういうわけで、権威者もまた、殺人を防ぐために剣を帯びているのです」
この信仰問答は今日のイエス様の教えに基づいて、十戒の「殺してはならない」を解釈しています。それは行いだけでなく、思いとか言葉による侮辱や憎しみも含んでいるということです。しかし、イエス様の時代の律法学者やパリサイ人たちをはじめ、ユダヤ人たちは殺さなきゃ良いんでしょという問題に変えてしまっていました。つまり神の律法がこの世の法律と同じレベルにされていたと言えます。
そういう常識に変えてしまっていた彼らにイエス様は言われます。
「昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。 」
「昔の人に言われた」というのは、「昔からそう言われてきたことを聞いてますね」という意味で良いと思います。それで何を聞いてきたかと言うと、「人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない」ということです。これはもちろん、モーセ十戒の第六戒にある「殺してはならない」のことを言っているでしょう。モーセ十戒では「人を打って死なせた者は、必ず殺されなければならない」と罰則として自分のいのちを差し出すことが求められています。そのくらい、人のいのちは尊いことを自覚しなければならないのです。それは、人間は神のかたちに創造されたからです。
 近年、人間が多く殺されたという場合に、どういうことで殺されているのが一番多いかご存知でしょうか。最近もニュージーランドで50人近い人が銃の乱射によって殺されました。日本でも地下鉄サリン事件で多くの人がいのちを奪われました。しかし、これ以上に多いのが人工中絶による胎児の殺された数です。正確な数字はわかりませんが、毎年約18万人の胎児が殺されています。その次に自殺です。昨年だけでも20598人の人が自分でいのちを絶っています。最近でも高校生の女の子がいじめが原因で踏み切りに飛び込んで亡くなったという事件や、小学生の女の子二人が自殺したというニュースをテレビで観ました。これはあくまで発覚している人数ですからもっといるかも知れません。それと合わせて、虐待による暴行事件、殺人事件が相次いでいます。本当に痛ましい出来事が毎日起こっています。人が人を殺す。亡き者にしてしまうことの恐ろしさを、私たちは毎日、聞いたり観たりしているわけです。
 しかし、イエス様が言われる「殺してはならない」とは、その実行犯だけに関わる話ではないのです。当然、この世の法律は心の状態を罪に問うことはできません。しかし、神の律法は私たちの内側をも問題にしているのです。それが22節です。
「しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。 」
 ここでイエス様は、「兄弟に向かって腹を立てる者~能無しと言うような者~ばか者と言うような者」と三段階で、それぞれが人を殺すことに匹敵することを教えておられます。
 腹を立てるとは怒ることです。怒ることがさばきを受けることになる。ここでのさばきを受けることになるとは法廷に出るという意味があります。つまり人に対してイラついたら殺人罪として逮捕されて罪が問われるというのです。だったら私は毎日逮捕されて毎日裁判です。皆さんはいかがでしょうか。でも私たちがすぐにイライラすることをイエス様はご存知なので、あえてそこにメスを入れているのです。つまり、人殺しのニュースを見て他人事にするなということです。その罪の根っこはみんな持っているじゃないか。そういうことです。
  そうなると、イラっとすることもしてはいけないんだと思ってしまいます。しかし、イラッとするのが私たちです。じゃあ、どうするのかとなります。そうなら、その都度、その怒りをもち抱えたままではいけません。そのときは全部神様に訴え、吐き出します。あの詩篇の中の祈りのようにです。人に怒りを覚えたら、まず神様に訴えましょう。そうでないとその怒りが増幅されてしまい、愛や信頼が失われ、死ねば良いという気持ちになるからです。それは相手にいなくなれと思うこともあるし、自分にもいなくなりたいと思わせます。だからパウロも「4:26 怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい」と言っています。
  人間が腹を立てることは基本的には自己中心から来るものがほとんどですが、神のかたちが残っているので、正義感はあります。その正義感で怒ったとしても、早めに治めなければならないとパウロは言っているのです。そうしないと悪魔に支配されるチャンスを与えることになります。イエス様はまさにそのことを問題にしています。
  イエス様は「殺す」という罪は相手に対して腹を立てるところから始まる。だからまだ裁判にかけられているうちにそれを解決しなさいということです。だから、次の能無しと言うような者、その次のばか者と言うような者と、追うごとに、そのさばきの度合いが酷くなってきています。最高議会に引き渡されるとは、今で言う最高裁判所における最終的な裁判のことです。その次の燃えるゲヘナとは、直接的には、エルサレムの南側城壁の外にあるヒノムの谷のゴミ捨て場のことです。そこには石打や十字架刑で死んだ人たちの死体も捨てられている汚れた場所です。それが燃えているというので地獄の火に焼かれることを意味しています。だから早いうちに解決する努力が必要で、早いうちに対処すれば、実際に相手のいのちを奪うようなことにはならない。そのことを教えてくださっています。
  だから相手に対して「能無し」と言ったり、「ばか者」と言うことも、人を殺すことの出発点になることを押さえる必要があります。
能無しという意味はこのあとのばか者とは区別されています。それはこの能無しという方が、相手の知能を低く蔑む表現で、ばか者と訳されている元々の意味が、反逆する者とか反社会的な者という意味があります。前回学んだ、地の塩のところで、塩気をなくすという言葉は直訳的には塩が馬鹿になることをお話しました。この馬鹿者という方はまさに塩気がなくなるという言葉と同じ意味の根っこを持っています。反逆者、反社会的だから、この世には必要がない。役に立たない。それがこのばか者に込められている意味です。

  昔、広島で3歳になる男の子が知能指数69だと言われ、そのお母さんはショックでその子を殺すという事件があったそうです。それは一般的な数値である100前後ではなかったからです。また、いじめでよくあることは、特別、暴力がなくても、死ねとか、臭いとか、そういう言葉によって追い詰められて自殺するケースです。いずれも、ピストルやナイフがなくても口先だけで相手のいのちを奪うのです。お前は頭がからっぽだとか、死ねという言葉だけで人は死ぬのです。現実にそう言ったけど相手が死んでいないからと言って、自分は人を殺していないと言うことはできないのです。
  ここに、イエス様の言われる律法の本質があります。人はうわべを見るが主は心を見られるお方です。その一言で、いやそう思っている時点で、私たちは人のいのちを奪っているのです。

 

2.早く仲良くなりなさい
  そこで、イエス様は「だからこうしなさい」と言われます。23~24節。
「23 だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、 24 供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。」
 面白い場面設定です。神様を礼拝しようとしているときに、誰かから恨まれていることを思い出したら、礼拝をストップしてまず仲直りの方を優先しなさいというのです。
 まず、恨まれている方が、その問題の解決を優先せよということです。恨んでいる人にではないところが面白いです。これはどうしてでしょうか。恐らく、恨んでいる人は既に腹を立てて怒り続けています。だから、今、まだ冷静なあなたが手を差し伸べなさいということでしょう。既にあなたを殺している人のために、あなたは努力を惜しむなということです。いや、勝手に怒ってるんだから知らん顔したいのはわかります。しかし、イエス様の解決方法は、単なるその場がうまくいけば良いという一時的な、刹那的な対処療法ではなく、根本的な治療を目指して努力せよということなのです。
 頭痛のときに飲む鎮痛解熱剤は対処療法です。それは頭痛がなぜ起こっているかということを解決するものではありません。とりあえず痛みを鎮めるだけです。しかし根本治療と言うのは、ある意味外科手術です。悪いところを取り除くのです。対処療法は楽で簡単です。しかし、また同じ痛みが続きす。でも根本治療は手間がかかりますが悪い部分を見つけ、同じ病気で苦しまないように確実に治療して、予防までするでしょう。
 イエス様の教えはその根本治療を目指すのです。だから25節。
「あなたを告訴する者とは、あなたが彼といっしょに途中にある間に早く仲良くなりなさい。そうでないと、告訴する者は、あなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡して、あなたはついに牢に入れられることになります。 」
 見てください。ここでは告訴する者が出てきます。それは問題を放っておくと、恨みから告訴に移り、裁判官の前に連れて行かれ、判決をくだされて牢に入れられるのです。そうです。事態は益々深刻な状態に陥るのです。この状態と先ほどの腹を立てる者がゲヘナに投げ込まれることと並行しています。どちらも、放っておくと悪化することを言っています。
 だから、イエス様はこの25節で、「早く」と仰っているのです。しかも何を早くするかというと、仲直りは当たり前で、何と「早く仲良くなりなさい」ということです。
 いつも早いうちに努力して問題解決をはかり、さらに敵だと思っていた人と仲良くなること。このイエス様の教えを心がけていれば、牢屋に入れられてしまうようなこともない。そして燃えるゲヘナに投げ込まれることもないということです。
 自分だけが生き残るために相手を殺すのではなく、相手を生かし自分も生きるのです。まず相手のいのちを大切にするならば、私たちのいのちも残るのです。
 しかし、かろうじて関係の修復はできても、仲良くなることは至難の業です。目指すことはできます。しかし、仲良しになることは、ハードルが高すぎます。しかし、これがイエス様の「殺してはならない」という律法の本質であり、これこそ律法の成就なのです。書いてあることを書いてあるように、字面だけで守っていますというのは、問題の本質が見えていないということです。大切なのは、相手のいのちはもちろん、その人格、その存在、そのすべてにおいて神のかたちに造られた尊い存在として尊敬しているか。ここが問われているのです。
 その存在にすぐに腹を立てていないか。能無しと思っていないか。ばか者と言っていないか。信仰者として、主に罪が赦されて神の子とされている私たちですが、この世を生きる上でまず問われているのは、あなたの隣人をあなた自身のように愛していますかということなのです。
 
3.人を生かすために
 このことが先週もお話した、律法で神様が私たちに求めている第一のこととセットです。それは、あなたの神である主を愛しなさいということです。
 J.I.パッカーという神学者がいます。そのパッカー先生は、私たちの救いの目的をこう言っています。
「イエスを信じる者は罪と死から救われている。それでは救われた者は何のために救われたのか。それは現在も永遠においても父、子、聖霊なる神と隣人とを愛して生きるためである。神に対する愛の源は、私たちを救ってくださった神の愛を知ることである。」
 私たちが救われた目的は何ですか。天国に入ってお気楽に過ごすことでしょうか。単に世の悩みから解放されてのほほんと自由になるためでしょうか。それはある意味あっていますが、イエス様が求めておられる教えから言うと足りません。
 それはイエス様の教えは「殺すな」とは敵と仲直りするだけなら中途半端なのです。もう一歩進んで、仲良くなる。これが救われた私たちにイエス様が求めておられることです。
 つまりは、今日の説教題は「殺してはならない」ですが、イエス様の弟子は、また天国の市民となった私たちは、そのままでは足りません。「殺してはならない」という律法は「生かしなさい」なのです。命を奪うなでは足りません。いのちを与えなさいなのです。それは、最終的には私たちも生きます。生かされます。新しいいのちに生かされます。しかし、相手のいのちを生かすということは、必然的に自分のいのちを差し出す必要が出てきます。そのとき、相手を生かすことはすなわち自分に死ぬことだというところに行き着くのです。
 では、まずどうやって実践できるでしょう。自分に死ぬってなんでしょう。自殺することでしょうか。そうではありません。それは、今週のみことばにあるように、「神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように」という神の恵みに立つことです。私自身から愛は出てきませんが、私たちが神様からいただいたキリストの十字架の犠牲、そこから流れるキリストの血潮、キリストの愛を受け取るなら、その愛によって、あなたの敵をも愛せるようになるのです。これが実践における大前提です。その次に大切なのは何でしょうか。大げさな行動をすることではありません。パウロはこのエペソ4章29節でこう言っています。
「悪い言葉を、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい」
 同じ意味のことを話すにしても、少し表現を工夫するだけで相手を生かす言葉に変わります。すぐに腹を立てて、相手を「能無し」「ばか者」と言う前に、その人がダメージを受けることばではなく、徳を養うのに役立つ言葉を話し、話すだけでなく恵みを与えなさいと言うのです。クリスチャンの業は、こうやっていれば良いんでしょということでなく、さらに祝福を与え、恵みを与えるところまで与え続けるのです。それは、「やらなきゃいけない」というものではなく、それを「喜んでできること」としてイエス様は教えているのです。
 それが優しい心で互いに親切にし合う教会、互いに赦し合う教会、クリスチャンの姿です。
 だからこそ、繰り返しますが、神がイエス・キリストにおいて、どんな犠牲を払って罪を赦してくださったのか。その主の痛みを、その天の父の痛みを覚えるこの受難節。その愛にいつも立ち返りたいです。その愛をいつも新鮮に受け取りたいです。そして、そこからまず私たちの口に上ってくる言葉に愛を乗せたいと思います。


 終わりにご一緒にエペソ4章25~32節を交読してお祈りしましょう。

4:25 ですから、あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。私たちはからだの一部分として互いにそれぞれのものだからです。
4:26 怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。
4:27 悪魔に機会を与えないようにしなさい。
4:28 盗みをしている者は、もう盗んではいけません。かえって、困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい。
4:29 悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。
4:30 神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。
4:31 無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。
4:32 お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。


祈り 殺してはならない。かつてシナイ山モーセがあなたからいただいた戒めです。そこには、殺人罪だけでなく、人を蔑み、侮辱し、イラつく心も問題にしていたことを教えてくださり感謝します。イエス様は、早く仲良くなれと仰います。かたちだけの礼拝よりも、私たちの内側を点検しなさいと言われます。どうか父よ。あなたが御子イエスの十字架を通して与えてくださった愛をどんどん注いでください。私たちがどんな人をも愛し、優しい心にされて、赦し合っていけるように導いてください。特に人と関わるときに、相応しいことばをお与えください。関わる方々、一人ひとりの人格が建て上げられ、あなたの恵みを与えることができるように、私たちをきよめてください。人を殺す者ではなく生かす者としてつくり変えてください。主の御名によって。