●サムエル記第一2章25〜26節
"人が人に対して罪を犯すなら、神がその仲裁をしてくださる。だが、主に対して人が罪を犯すなら、だれがその人のために仲裁に立つだろうか。」しかし、彼らは父の言うことを聞こうとしなかった。彼らを殺すことが主のみこころだったからである。
一方、少年サムエルは、主にも人にもいつくしまれ、ますます成長した。"
祭司エリの息子たちは、「よこしまな者たちで、主を知らなかった」(Ⅰサムエル2:12)と言われています。別訳では「ならず者」と言われています。しかし、いずれも「主を知らない者」であったことが明らかです。別訳では「主を知ろうとしなかった者たち」だったとあります。
主を知るとは、たんに知識や認識において思うこととは違います。この「知る」という言葉は、もともと「手」という言葉と繋がっており、触れること。つまり、触って体験して「知る」というふうに、体験が伴う認識だということです。
聖書では、この言葉を夫婦関係においてたびたび用いられています。(創世記4:1)
ですから、このところは、エリの息子たちは、主を体験しなかった、主を体験しようとしなかったと読むことができます。
それで、彼らは祭司でありながら、ささげものを貪り、祭司としての務めを疎かにしたどころか、主の礼拝を汚していたのです。
そこで、父親のエリが25節の言葉を告げました。
人間に対する罪なら神が仲裁をしてくれるが、主に対する罪のためには、その仲裁に誰が立てるだろうかという、この言葉。
この言葉には、一つの真理が隠されています。それは、まさに神の前における罪のために誰が立つのかということです。
旧約時代は、その罪のために動物が犠牲になりました。しかし、その動物の犠牲はあるものの雛形であり、実体ではありませんでした。
この25節の直後に26節で、少年サムエルについての記述があります。
「一方、少年サムエルは、主にも人にもいつくしまれ、ますます成長した。」
このあと、このサムエルが成長して、この混沌とした礼拝だけでなく、イスラエルを建て直します。最後の士師として、最初の預言者として、イスラエルをさばき、このサムエルを通して、イスラエル王国を治める王が任命されていきます。
ここに、イエス・キリストの予型があります。
イエスもこの少年サムエルのようでした。
"イエスは神と人とにいつくしまれ、知恵が増し加わり、背たけも伸びていった。" ルカの福音書 2章52節
このイエスもまた、イスラエル王国。つまり神の御国を建てるために来られたお方です。ですから、この少年サムエルも少年イエスも、神様の大きな計画のために働くために、主にも人にもいつくしまれる歩みが大切だったのです。
その歩みは、神の計画のためにいのちを捨てるという歩みであったからです。それを十字架への道と呼ぶことができます。イエスは神と人間を隔てている罪を取り除くために、その罪をご自分の身に負って死んでくださいました。それによって信じる私たちを御許に召してくださったのです。
だから、そのイエスの歩みは、イエスを信じる者たちの歩みでもあります。使徒パウロはこう言いました。
"私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されています。それはまた、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において現れるためです。"
コリント人への手紙 第二 4章11節
私たちは、地上の命は地上の命としてあって、誕生で始まって死で終わるのであり、終わりの日に復活して新しい命に生きることになると考えます。使徒パウロの語り方は違います。
たしかに私たちは病み、傷つき、老い衰え、ついには朽ちていきます。しかし、「私たちの『内なる人』は日々新たにされていきます」(Ⅱコリント4:16)。私たちはバプテスマ(洗礼)によって主イエスと結ばれ、すでに主イエスの命を生き始めています。私たちはこの世からのものを一つ一つ捨てていきます。絶えず死に渡されています。そのただ中で、主イエスの命は私たちの死ぬべき肉体にすでに現れています。
私たちも主を知らない者、知ろうとしない者でなく、主を益々知り、主にも人にもいくつしまれる歩みの中で、更に主イエスの道を進んでまいりたいと思います。主の十字架の贖いの恵みを覚えながら。
【祈り】
エドワード・ブーヴェリー・ピュージー(英国教会司教1800〜1882)
主イエスよ
あなたの十字架の愛のゆえに
どのような十字架のもとにあっても
喜びにあふれた者とならせてください。
あなたの愛を妨げるものをすべて
私から取り除いてください。
あなたをもっと深く愛することができますように。
あなたの愛で私を溶かしてください。
私のすべてが愛になり
私の存在のすべてをもってあなたを愛せますように。
【参考文献】
小泉健『十字架への道』日本キリスト教団出版局,2019年