日本メノナイト 白石キリスト教会

聖書からのメッセージをお届けします。

● 「決して誓ってはならない」 聖書箇所 マタイの福音書5章33~37節

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序論
 私が白石教会の牧師になって、先週で丸一年が過ぎました。一年間、神様の憐れみと、皆さんの祈りに支えられて、この一年があったことを、主にあって感謝いたします。これまでの一年間は、ハネムーン期間と言われています。結婚したての夫婦に見立てて、新婚気分で過ごす一年だということです。ですから、ここからが勝負です。新婚夫婦は、とりあえず最初のうちは、初めて一緒に暮らすということ自体に感謝し、何があっても笑顔で赦しあって過ごせます。しかし、その期間が過ぎると、新鮮味が薄れて、お互いの嫌な部分、反りが合わない部分にストレスを感じて、それが爆発するときが来るのです。こういう、ハネムーン期間が終わった夫婦がどうやって、更に愛し合って、助け合っていけるのか。そのことについて、星の王子様を書いたサン・テグジュペリはこう言っています。
「愛はお互いを見つめ合うことではなく、ともに同じ方向を見つめることである。」
 サン・テグジュペリはクリスチャンでしたので、「ともに同じ方向を見つめる」というのは、同じ主を見上げていくということです。クリスチャンでない人だって、同じ趣味を持っている夫婦はいつまでも仲が良いものです。そうであるなら、真の神を信じている私たちが、うまくいかないわけがありません。
 ただし、どちらかが相手を見たまま、または互いに見詰め合ったままだと、うまくいきません。それは、神でなく、相手を気になり出すからです。今まで可愛いと思っていた部分が醜く見えたり、楽しいと思っていた癖にイラついたりするということです。また、相手の言葉の揚げ足を取って、嫌なことを言われたとか、または親切なことばを忘れて、夫婦だからといって、大変失礼なことを言ったりしてしまうものです。そのとき、私は思い出します。あの言葉を。
「あなたは神の教えに従って、夫としての分を果し、常に妻を愛し、敬い、慰め、助けて変わることなく、その健やかなるときも、病めるときも、富めるときも、貧しきときも、いのちの日の限りあなたの妻に対して堅く節操を守ることを約束しますか。」

 ここにおられる結婚している人は、ここで「はい」と言って誓約したはずです。
 ここでようやく今日の聖書の言葉と重なってきます。イエス様は、34節で「決して誓ってはならない」と仰せになりました。しかし、私たちは誓約をして、それぞれ結婚したはずです。また、結婚だけではありません。洗礼を受けるときにも、「最善を尽くして礼拝を守り教会員としての務めを果します」と約束したはずです。それは誓ったということではないでしょうか。
 イエス様が決して誓うなと言われたのに、それで良いのでしょうか。今日は、まさにそのことをみことばに聞いていきたいと思います。

 

1. 誓いを果す気がないなら決して誓うな(誓いを軽んじてはならない)
33節。「さらにまた、昔の人々に、『偽りの誓いを立ててはならない。あなたの誓ったことを主に果せ』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。」
 これまで、この山上の教えではモーセ十戒から、私たちが持っている罪の根に対してイエス様はメスを入れてきました。ほとんどの人が、自分は守っていると思っている「人を殺さないこと」や「姦淫をしないこと」に対して、その心の状態を指摘して、罪人であることを自覚させて神に助けを求めるように語られてきました。だから、神様が遣わした救い主イエス様を信じるなら、聖霊が与えられて、きよい生き方ができるように造りかえられるのです。
 今日の箇所も基本的には同じ意味をもっています。それは、当時のユダヤ人指導者たちが、誓うということを頻繁に行っていながら、誓いを果せなくても自分たちには罪がないとしていたということです。つまり、言い逃れです。それは、本来、守れていないのに、守っていると思っていた「殺人」や「姦淫」と同じレベルに、この「誓い」もあったということです。
 当時のユダヤ人は当然、神に対して誓うことは果すべきと考えていました。たとえば、レビ記にはこう書かれています。19:2
「あなたがたは、わたしの名によって偽って誓ってはならない。そのようにして、あなたの神の名を汚してはならない。わたしは主である。」
 また伝道者の書にも、「誓ったことは果せ。誓って果さないよりは、誓わないほうがよい」伝道者の書5:4~5とあります。
しかし、彼らは、果す自信がないとか、初めから果すつもりのないことは、神に対して誓うのではなく、天に対して、また地に対して、またエルサレムに対して、仕舞いには自分の頭をさして誓っていました。そうすることで、神に対する誓いではないので、たとえ果さなくても罪に問われないように逃げ道をつくっていたのです。そもそも、主の名をみだりに唱えてはならないという戒めを厳格に守るあまり、誓いのときにも主の名を出さないことから、誓うという言葉や行為自体が空論化していました。主の名を出せないなら、主の名を汚すことにはならないので、他のものに置き換えて誓うことで守らなくても大丈夫というスタイルになってしまっていたのです。
それに対するイエス様の反論が34~36節で言われています。
「 しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。すなわち、天をさして誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。地をさして誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。エルサレムをさして誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです。あなたの頭をさして誓ってもいけません。あなたは、一本の髪の毛すら、白くも黒くもできないからです。」
 ここに出てくる天、地、エルサレム、頭は、当時のユダヤ人たちが誓いのときに、用いていたものです。主の名をみだりに唱えられないので、その代わりに何となく権威がありそうな、主の御名の代わりになりそうなものによって誓いを立てていました。そして、誓いを果せないなら、主の名によって誓ったわけではないと言い逃れを平気でしていたのです。
 この精神は、心で「ばか者」と言ってるけど実際には殺してないから罪を犯していないとか、心で情欲を抱いて人を見ているのに、実際に不倫してないから罪を犯していないというのとお何じ理屈です。
 しかし、イエス様は何を指して誓っても、それは主の名によって誓っていることになっていると仰っているのです。だから、神の名でないからといって、軽はずみに誓うなと言っているのです。
 天を指して誓えば、それは神の御座だと。地は神の足台。エルサレムは偉大な王である神の都です。頭だって、私たちのものなのに髪の毛の数すらわかっていないし、私たちの思いで色を変えることもできません。それは神の御手のうちにあることです。
 大切なことは、何でしょうか。それは本当に、絶対に誓ってはならないということでしょうか。そうであるなら、私たちの結婚式や、洗礼式での誓約は罪なのでしょうか。それとも、それは約束であって誓いという意味ではないと言い逃れるのでしょうか。
 かつて、私が所属していたブレザレン派の教会では、文字通り「誓う」という言葉を使うことはしませんでした。だから、誓約のときは、「約束します」ということをあえて意識的に言っていました。確かアナバプテストの解釈もきわめて厳格に「誓う」ことを避けてきた歴史があると聞いてます。しかし、現実的に結婚しているし、洗礼も受けているわけです。しかも幼児洗礼ではなく、きちんと信仰をもってから洗礼を受けているわけですから、そこには約束があり契約があるはずです。いや、それは誓うという言葉を使っていないから誓いではないというのでしょうか。
 ここで、イエス様は仰います。

 

2. 「はい」は「はい」(「誓う」という言葉の問題ではない~態度をはっきりさせよ)
 37節「だから、あなたがたは、『はい。』は『はい。』、『いいえ。』は『いいえ。』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。」
 イエス様が言われたのは、誓いということばの問題ではない。どんな約束、また何に対して誓ったとしても果さなければ、その責任はすべてあなたに問われるのですよということです。大切なことは、「はい」には「はい」と答え、「いいえ」ならはっきりと「いいえ」と答えなさいということです。
 誓っているのに、誓いという言葉を使ってないとか、約束だから誓っているわけではないとか、そんな言葉の遊びで責任逃れするな。「はい」と「いいえ」だけでじゅうぶんだと仰っているのです。そうでなければ、これまで多くの人たちが行ってきた誓約が無効になってしまいます。旧約時代だから誓って良かったけど、新約は駄目だというのでは意味が通じません。
 この箇所もきちんと前後の文脈で読まないと、この節だけ抜き取ってしまっては、イエス様が本来仰りたいことを汲み取ることができません。
 何よりもイエス様ご自身が、大祭司カヤパに尋問される場面で、誓っています。大祭司カヤパは「生ける神の名によってあなたに命じる。あなたは神の子キリストなのか。言いなさい。」と問います。大祭司が生ける神の名によって命じているということは、神の子キリストであると誓うのか誓わないのかという意味です。それに対してイエス様は「あなたの言ったとおりだ」とはっきりと誓ったために、大祭司はその衣を裂いて怒りを表し、イエス様を有罪としたのです。イエス様はいつも、「しかり」と答える方でした。よく使われる「まことにまことに」とは、原語では「アーメン、アーメン」です。これは「しかり」と同じ意味ですが、より強い「その通りです。本当です。」という意味です。だから、イエス様の教えは律法学者のようでなく権威ある者の教えとして聴こえました。
 律法学者たちの教えとは、まさに「はい」でもなければ「いいえ」でもない。「白でもなければ黒でもない。賛成でもなければ反対でもない」という曖昧な教え方だったからです。
 パウロもこう言っています。Ⅱコリント1:20
「このお方には「しかり」だけがあるのです。神の約束はことごとく、この方において「しかり」となりました。それで私たちは、この方によって「アーメン」と言い、神に栄光を帰するのです。」
 主イエス自らが「しかり。アーメン」と仰って、権威ある者のように教えられました。それは、私たちが約束を守れない弱い者、心の貧しい者であることを認めて、イエス様の真実アーメンの上に招かれて、このお方を信じる信仰によって、この方のいのちを受けて「しかり」アーメンと言って神に栄光を帰すようにされるためです。
 律法学者たちは正しく歩めないことを認めないで、言い逃れで神の律法を骨抜きにしていました。それがずっと「殺してはならない」、「姦淫してはならない」、そして「決して誓ってはいけません」と続いているテーマです。
 誓うという言葉がなくても、「はい」と「いいえ」それだけで十分誓っていることと同じです。良くないのは、神様に対する態度の曖昧さです。この問題は信仰の問題、救いの問題に繋がるだけに、大切なテーマなのです。
 神に従うかどうか。神様を信じてもいなければ、信じていないわけでもない。たまにどちらでもないという答えに出会います。しかし、神様の前にどちらでもないという答えは、「いいえ」と同じです。しかし、「いいえ」と言わず濁す姿勢は、終末において悪魔と一緒に裁かれるリストに入っている「臆病者」のことかも知れません。また熱くもなく冷たくもないという、神様が吐き出される信仰者の末期的な状態かも知れません。
 イエス様は、常に「しかり」でした。いつも神様への態度はアーメンであり、人々に対してもアーメンでした。真実でした。しかりでした。
 今、私たちは、この主の御名によって「アーメン」と祈り、宣言し、約束しています。結婚も、洗礼もまさに主の御名によって誓ったのです。それは罪でしょうか。そうではありません。なぜなら、軽はずみな気持ちで、言い逃れしようとして誓ってはいないからです。だれが浮気をするかも知れないから誓わずに約束という言葉を使いましたと言うでしょう。だれが途中で信仰を失うかもしれないから誓わずに約束という言葉を使いましたと言うでしょう。もし、そう言うとしたら、それはこの37節でイエス様が言われるように「悪いことです」。これは「悪い者」とも訳せる言葉です。

 

結論
 私たちが行った誓約はそれぞれ命がけなのです。その命がけは今、イエス様がご自身のいのちを賭けて私たちの罪を負ってくださったからこそ、この方の名によってアーメンと言って、主のいのちのゆえに大胆に毎日が誓いの連続の中で生かされているのです。
 私自身、牧師になって一年が経ちました。一年前にここで誓約をして、按手を受けたことは、たんなる形式ではありません。あの誓約に、あの按手にいのちが懸かっているのです。それは、私のいのちであり、妻のいのちであり、またそれを受け入れられたみなさんのいのちであります。
 しかし、それを保障するのは私たち自身のいのちをも贖ってくださった御子の十字架から流れ出る血潮であり、御子のいのちなのです。そこに言い逃れではなく、ただ神の恵みが溢れているのです。この主イエスの十字架をこれからもともに見上げていきたいと思うのです。私たちの誓いは、互いを見詰め合って達成できるものではありません。私たちそれぞれが、ともに主を愛し主に仕えるところに果されていくのです。
 いよいよ来週は棕櫚の聖日です。今日、御顔をエルサレムに向けられた主の十字架の苦しみを日々覚えつつ、言い逃れではない真実のアーメンを主にささげていこうではありませんか。

祈り 愛する父なる神様。私たちは真実でなくてもあなたはいつも真実です。私たちの不真実のためにイエス様が十字架にかかって死んでくださりありがとうございます。今、私たちはその主の十字架の贖いを信じてあなたのものとされました。真実な主のいのちによって、私たちをも主の真実の中に招き入れてくださり感謝します。どうか、日々私たちはあなたに祈り、あなたの前に約束し、誓いつつ歩むものです。そのあなたへの言葉が言い逃れではなく、真実に「はい」と「いいえ」でありますように聖霊によって導いてください。聖霊によらなければ、あなたへの誓いを果すことができない弱い私たちをどうか受け入れ、支えてください。今週もともにおられる主のゆえにきよい歩みができるように導いてください。あなたを愛し、隣人を愛します。主の御名によって。