のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

● 「よみがえりのイエスと歩む」 聖書箇所 ルカの福音書24章13~32節

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序論
 先週は中標津教会で礼拝の奉仕をさせていただきました。まずは、中標津教会の皆さんが、白石教会のみなさんへ宜しくと仰っていましたのでお伝えします。パウロの手紙によくある挨拶と同じように、同じ主を信じる群れとして、場所は離れていても祈りあい、励ましあっていける。これが主の教会の素晴らしいところです。
 主の教会は主イエスの十字架によって罪が贖われた人たちの集まりです。それは白石教会も中標津教会もそうです。ですから、私は中標津教会の聖餐式の司式もさせていただきながら、イエス様の十字架の恵みをともに味わってまいりました。これからもともに主の十字架の恵みを宣べ伝える仲間、同じ主にある家族として、交わっていきたいと思わされました。
 イエス様の十字架は神と私たちを和解させ、人間同士の隔たりをも取り除く神の知恵です。先週の礼拝、そして受難週として、その十字架に向かわれる主イエス、そして十字架に架かられて、私たちの罪を負って死なれた、その主のお姿を見てきたのではないでしょうか。私たちは絶えず、主の十字架の恵みに帰り続けることが大切です。
 そして今日はイースター(復活祭)です。キリスト教会では、クリスマスよりも早く主の復活を特別に覚えるという行事が生まれました。3~4世紀にはもう既にキリストの復活を記念していたということがわかっています。
 それは、私たちクリスチャンにとって十字架と復活が教えの中心であり、そこに神様の救いが表されているということです。イエス様が罪を犯さずに神様に従いとおしただけでも素晴らしいことですが、もしそこで終わっていたら、それこそ、その生き方に学びましょうという、エジソンとかガンジーなど、他の偉人と同じレベルになってしまいます。しかし、イエス様の救いはたんに良い人になりましょうではありません。むしろ、私は自分の力で良い人になれないので、その罪を負って死なれたイエス様を信じ、更には死からよみがえられたイエス様からいただく聖霊の助けによって、イエス様のように造り変えていただく歩み。これが聖書が指し示す救いです。
 だから私たちの歩みは聖霊を通して、日々イエス様と一緒の歩みを味わうことができるのです。皆さんはいつもイエス様と一緒に歩んでいるでしょうか。クリスチャンの信仰生活は、言い換えると「よみがえられたイエス様とともに歩む」といえるでしょう。
 今日のイースター礼拝は、そのイエス様との歩みを念頭にみことばに聞いていきたいと思います。

 

1.目はさえぎられ(13~24)
 今日の出来事はイエス様が復活された週の初めの日のことです。13節には「ちょうどその日」と書かれています。
 ここに二人の弟子が登場します。その名前は18節で一人だけ紹介されています。クレオパという名前です。この弟子たちはエマオという村に向かっていました。ではどこから出てきたのか。それはエルサレムからです。
 二人は、これまでエルサレムで起った出来事について話し合っていました。それが第一にイエス様が逮捕され、十字架に架けられて殺されたということ。第二には、この24:1~12までの出来事。つまりイエス様の復活のことです。
 いわゆる今の私たちクリスチャンにとって、教えの中心的事柄を話し合っているわけです。15節を見ると「話し合ったり、論じ合っていた」と書いてあります。具体的にどんな内容だったのかはわかりませんが、彼らがもとの生活に戻ろうとしていたと考えることは決して読み込み過ぎとは言えないでしょう。それはエルサレムを離れてエマオに行く途中であったと書いてあるからです。彼らは失望して弟子集団から離れ地元に帰る途中だったと見ることができます。
 ですから、会話の内容も、「まさか先生が逮捕されて処刑されるとは」とか「墓が空っぽでイエス様の遺体が見当たらない」という後ろ向きな内容だったと思われます。復活したとは信じていないのです。
 そういう彼らの歩みに何とイエス様が合流します。15節
「 話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。」
 イエス様が「彼らと共に道を歩いておられた」。これが、今日の主題です。復活のイエス様とともに歩くこと。イエス様が彼らの後ろから知らないうちに近づいて追いついたのか、今まで姿が見えなかったのに、急に現われたのかはわかりません。
 とにかくイエス様が弟子たちの前にというか横に来てくださったのです。この弟子たちは12使徒ではありませんが、イエス様と一緒にいたことがあったはずですから、顔を見てないということはないはずです。しかし、彼らには一緒に歩いている人がイエス様だとはわかりませんでした。
 その理由は何でしょうか。16節
「しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。」
 二人の目はさえぎられていたと書いてあります。これはびっくりです。しかし何かにさえぎられていると、目の前にイエス様がいてもわからないということがあるのです。
 これは実はよくあることです。何か違うことで頭がいっぱいになって真実がわからなくなることってあると思います。また見る角度とか、見るときの姿勢で見え方が変わってしまうために見えなくなることはあります。
 よく眼鏡がないと騒ぐ人の頭に眼鏡がのっかっていることってあります。探し物をしていて、いくら捜しても見つからなかったのに、次の朝、捜したはずの場所から見つかることってよくあります。
 イエス様も、いつも私たちと一緒にいるのに、私たちの方が見失ってしまい、寂しい気持ちになったり、神様から見捨てられたような気持ちになることがないでしょうか。そのとき、決してイエス様はあなたを見捨ててないし、裏切ることもありません。かえって、私たちの方が霊的な盲目になっている。しかし、そういう私たちと一緒に歩みをともにしてくださるお方。それがイエス様であることを覚えたいと思うのです。
 イエス様に信頼する者は決して失望することがない。まさに、イエス様はどんなときでも一緒にいてくださるために、新しいからだで復活され、天に昇って聖霊を送ってくださった。その聖霊がともにある歩みこそ復活のイエスとともに歩む生き方なのです。そうしなければ、同時に500人どころか全世界のクリスチャンと一緒にいることができません。復活したからこそ、全てのクリスチャンとともに同時にまた時代を越えて歩むことができるのです。
 さて、彼らの目は何によってさえぎられていたのでしょうか。それは、彼らの信仰告白から窺い知ることができます。
 ともに歩かれたイエス様は彼らに質問します。17節
「歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか。」
 そして19節「どんな事ですか」
 まさにイエス様らしい質問です。「何をしてほしいのか」とか「よくなりたいか」という言葉を覚えておられるでしょうか。イエス様がわからないわけではない。しかし、私たちの口から出ることばを聞こうとするイエス様。この姿は天地創造のときの園を歩き回られる主と同じです。アダムとエバが罪を犯したとき、神様は「あなたはどこにいるのか」と捜してくださいました。それは、わからなくて捜しているのではありません。私たちが自分の口で告白することばを待っているのです。人の子は失われた人を捜して救うために来たのですとイエス様は言われました。あえて捜すと言われるイエス様。どこにいるかわかっていても、私たちの自発的な告白を待っておられるお姿なのです。そして、これはあのペテロに対して「あなたがたはわたしをだれだといいますか」とも通じる質問です。
 それはイエスというお方をどう答えるか。ペテロは「あなたは生ける神の子キリストです」と答えました。
今日の箇所では、イエスは何をされたお方なのかという質問でもあります。あなたにとって、イエスの十字架と復活は何のことですか。どんな事ですかと、私たちも問われているということです。あなたは答えられますか。
 この二人の弟子たちはどう答えたでしょうか。
 19~24節
「ナザレ人イエスのことです。この方は、神とすべての民の前で、行ないにもことばにも力のある預言者でした。それなのに、私たちの祭司長や指導者たちは、この方を引き渡して、死刑に定め、十字架につけたのです。しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。事実、そればかりでなく、その事があってから三日目になりますが、また仲間の女たちが私たちを驚かせました。その女たちは朝早く墓に行ってみましたが、イエスのからだが見当たらないので、戻って来ました。そして御使いたちの幻を見たが、御使いたちがイエスは生きておられると告げた、と言うのです。それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、はたして女たちの言ったとおりで、イエスさまは見当たらなかった、というのです。」
 まず彼らはイエス様をメシアであると思っていたことがわかります。それは、「この方は、神とすべての民の前で、行ないにもことばにも力のある預言者でした」という告白。そして「この方こそイスラエルを贖ってくださる」という告白です。この言葉は明らかにイエスをメシアだと認めていたことを表すものです。しかし、その告白は過去形で締めくくられます。
21節「と望みをかけていました」
 つまり彼らにとって期待していたメシアはすでに過去のものとなっていたということです。しかも、そのメシア像があくまで政治的な王としてのメシアであって、自分たちの罪とか汚れ、律法を守れない者としての貧しさについては何も触れていません。あくまでローマ帝国から独立してイスラエルを再建する。それだけの望みでしかなかったということです。
 これはイエス様を信じていたのではなく、その生き方に憧れてついていこうとしただけの弟子の姿です。でも自分の価値基準に満たなかったから、もう過去の人。弟子集団からも離れてエマオに帰る。そういう彼らだったのです。
 ここに私たちの弱さを見ることができます。私たちはもちろんイエス様に望みをおきます。それは正しいことです。しかし、自分の価値観や経験だけでイエス様を計り、自分の良し悪しで神の計画をさばくことは間違いです。彼らは、自分の知識や経験だけでエルサレムで起こった出来事を話し合い、論じ合いました。しかし、それでは神様の御心はわかりません。イエス様がどんな方か。その十字架と復活がどういうことなのか正しく説明できないのです。それは信仰の告白がきちんとできないということです。そんな彼らにイエス様は何と仰っているでしょうか。

 

2.目が開かれ
25~26節
「するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。」
 ここでイエス様は彼らに「愚か者」と大胆に発言しています。そして、十字架刑前に何度も予告していた十字架と復活のことを振り返ります。恐らくこの二人の弟子たちも12使徒といっしょにその言葉を聞いていたからでしょう。
 しかし、彼らの理解は自分の知識、自分の経験、自分の価値観の域を出ていませんでした。だから、イエス様はあえて強い言葉で彼らを叱っているのです。しかし、ただ叱るだけでなく、どうやったら正しくイエス様のことを告白できるか。どうやったら十字架と復活の事件を説明できるかを教えてくださいました。27節
「それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。」
 イエス様は神様ですから、神の御子として直接教えてくださっても良かったはずですが、あえて聖書によってご自分のことを説き明かされたのです。ここが今日の箇所でとても大切なところです。
 イエス様はこれまでの宣教の旅のように、直接的な発言で十分ご自分について教えることはできたはずです。しかし、わざわざ聖書を使用してご自分のことを話されました。それはどうしてでしょうか。
 それは、イエス様が復活されたあとの弟子たちの集団、つまり教会は、肉体をもったイエス様からみことばを聴くのではありません。イエス様の弟子によって聖書を通してみことばを聴くことが、新約時代の弟子集団のあり方なのです。そして、このあと聖霊が降臨されて、私たち主の弟子が聖霊に導かれて聖書からイエスご自身を語り、告白し、宣べ伝えるという新しい宣教が始まるのです。
 そして彼らはイエス様とは知らずに、聖書を学びつつ、家に入り食事をします。イエス様は先へ行きそうな様子だったけど、あえて引き止めたと書いてあります。28~29節
「彼らは目的の村に近づいたが、イエスはまだ先へ行きそうなご様子であった。それで、彼らが、『いっしょにお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから。』と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中にはいられた。」
 二人の弟子たちにしたら、見ず知らずの人と旅の途中で出会い、その人の素振りでむっとし、また「愚かな人たち」と言われても、なぜか、ここで別れようとはしないで家に招き入れています。
 この場面を見ると、イエス様のあの言葉を思い出します。マタイ25:40
「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」
 彼らは、この方をイエス様とは知らずに旅人としてもてなしました。そのくらい、彼らの心は既に燃えていたのです。最初は暗い顔つきだった彼らが、このように旅人をもてなし、受け入れ、愛する行動ができたのは、まさしく聖書のことばを聞いて心が燃やされていたからなのです。ジャンプして32節を先に読みます。
「そこでふたりは話し合った。『道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。』」
 彼らはイエス様から聖書のことば、しかも旧約聖書からイエス様についての説き明かしを聴いて、心が燃やされていたのです。ここに、旧約聖書の読み方の一例を見ることができます。
 このときの聖書ということばは直接的には旧約聖書のことです。その旧約聖書を読むときにはどのように読むべきか。第一には、書かれたとおり、書いた人の意図を汲み取って文脈で読むことが大切です。しかし旧約聖書はキリスト論的に読むことが許されているということをここから知ることができます。そうすることで、旧約聖書で難しいところも、そこにイエス・キリストがどのように表されているかという視点で読むならば、視野が広がって、なるほどと受け取れるところが出てきます。旧約聖書を読んでいてもここにもあそこにも既にイエス様を思わせる箇所がたくさんある。その心は燃えてくるのです。
 そして、極めつけは30~31節です。
「彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。」
 イエス様は先を急いでいるふうでありながら、弟子たちの言うとおりに家に入られました。弟子たちも11キロの道を歩いて来たのでお腹がぺこぺこでした。そこで食事のために席に着くと、お客さんがパンを取って祝福して裂いたのです。すると「あれ?」そのとき初めて目の前にいるお客さんがイエス様だということがわかったのです。聖書は言います。「彼らの目が開かれた」と。
 彼らはずっといっしょに歩いていた人が誰かまったくわかりませんでした。それは彼らの目がさえぎられていたからでした。しかし、今、目の前におられるお方こそ、道々聖書を通して話していたイエス様ご本人だったのです。さえぎられていた彼らの目はどうして開かれたのでしょうか。


結論
 今日の箇所は、あえてそのことを私たちにも教えるためにイエス様がこの弟子たちとともに歩まれたことを記しているのです。
 彼らの目が開かれたのは何によるものなのでしょうか。それは大きく二つあります。
 一つは、まず聖書を通しての説き明かしです。それはしかも、聖書からイエス様についてのメッセージでした。それは確かに、彼らの心は聖書を説明されている間中、熱く燃やされていたのです。それはすでにイエス様が一緒におられる体験がそこから始まっていたことを示しています。そして、第二には、パンを裂くことです。これは誰もが主の晩餐をイメージします。この弟子たちが最後の晩餐の席にいたとは思えませんが、ここでこの聖書箇所が言っていることは、新約の新しい礼拝のあり方を指し示しているということではないでしょうか。
 このあと、ペンテコステ後に教会は誕生しますが、彼らの礼拝は使徒たちの教えをかたく守り、つまり聖書を学び、パンを裂くというスタイルでした。この礼拝は今もなお教会の礼拝スタイルとして受け継がれています。
 私が説教のあとに聖餐式を行うのは、この場面からの適用です。
 それは形式だけの問題ではありません。よみがえりの主とともに歩むということが今、現実に、ここにもあるということを証ししているのです。復活のイエス様は今から2000年前で終わったお方ではありません。今も尚生きて、全世界の主にある兄弟姉妹、主にある教会とともに歩むために、このかたちを通して臨在しているということです。
 私たちが礼拝で聖書からメッセージを聴き、聖餐式をするのは、礼拝と言う形式を守るためではありません。今も生きて私たちとともに歩まれる主イエスご自身にしっかりお会いし、霊の目が開かれて、心燃やされて生かされるためなのです。
 今日、私たちも聖書を通して主にお会いし、心を燃やされようではありませんか。初代教会では毎日が礼拝でした。毎日聖書を読み、パンを裂きました。今は毎週聖書からメッセージを聞きます。聖餐式は便宜上白石教会では2ヶ月に1回ですが繰り返し、その恵みに与ります。本来的には聖書と聖餐はセットです。どちらもイエス様を味わうために欠かせない。そのために、多くの教会では聖餐卓を礼拝堂内の真ん中とか講壇の近くに設けてきました。
それは聖書からの説教とともに、パン裂きを行わない日でも意識的に、主の聖餐を覚えて目が開かれてよみがえりの主とお会いすることを願ってきたということです。そこに私は立って、今回聖餐卓を希望しました。それは礼拝堂として格好がつくからという理由ではありません。それは、目が開かれてイエス様と出会うためです。
エス様はこの弟子たちに問われたように、あえて、あなたの信仰はなんですか。イエス様の十字架と復活はあなたとどんな関係ですか。どんな事ですかと私たちにも問われています。私たちもこの主日礼拝を通して、目が開かれて、今も生きておられるイエス様とともに歩んでいきたいと思います。

 

祈り 恵み深い天の父なる神様。
今日もみことばを与えてくださって感謝いたします。二人の弟子は聖書とパン裂きを通して霊の目が開かれました。そして復活されたイエス様と出会うことができました。私たちもイエス様と日々ともに歩みたいと願っています。どうか、この礼拝の中心におられる主が聖書を通して、またパンを裂くことによってご自身を明らかにしてください。私たちは今日、このイースター礼拝を通して益々、主の復活の希望に満たされて歩むものとならせてください。
 どんな苦しみの中にある方をもあなたのよみがえりの喜びと希望で溢れさせてください。今日、礼拝に来られなかった愛する方々をもどうか顧みてください。主の御名によって。