のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

● 「左の頬を向け、敵を愛する」 聖書箇所 マタイの福音書5章38~48節

"『目には目を、歯には歯を』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。
しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい。
あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着も取らせなさい。
あなたに一ミリオン行くように強いる者がいれば、一緒に二ミリオン行きなさい。
求める者には与えなさい。借りようとする者に背を向けてはいけません。
『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。
しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。
天におられるあなたがたの父の子どもになるためです。父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。
自分を愛してくれる人を愛したとしても、あなたがたに何の報いがあるでしょうか。取税人でも同じことをしているではありませんか。
また、自分の兄弟にだけあいさつしたとしても、どれだけまさったことをしたことになるでしょうか。異邦人でも同じことをしているではありませんか。
ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。"
マタイの福音書 5章38~48節

 

序論
 今日は、これまで続いていた山上の教えの一区切りになります。山上の教えは7章までありますが、これまでの律法についての考え方としての結論がここにあります。それが、今週のみことばである48節です。
「だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」
 これまで5章の中でイエス様が語られてきた教えの中心はまさにこのことばです。天の父、つまり神様が完全なのであなたがたも神の子どもとして完全であれということです。あながたは選ばれたのだから、選んでくださった神様のように完全になりなさいという命令です。
 だから、イエス様の仰っている内容のハードルはかなり高かったことを覚えているでしょうか。腹を立てたら裁判にかけられ、能無しとかばか者と言ったら死刑です。情欲をもって女性を見たらアウトです。これまで見てきたことには二つの意味があります。一つは、「あなたは律法の前につまり完全な神様のきよさの前に無力ですよ。心の貧しい者ですよ」と言うことです。二つ目は、「わたしの弟子ならばそのように生きなさい」ということです。
今日の箇所は、その結論。ゴールになります。しかも、最後43節から47節までは「愛」がテーマになっています。これは実は、これまで語られてきた律法を完全に行うことにとって、この「愛」が最も大切であることを表しています。この「愛」の実践こそ、これまで語られてきた全ての問題解決の要です。完全な愛があれば、相手に腹を立てて「ばか者」と言わないだろうし、人を見て情欲を抱かないでしょう。
ですから、48節の「天の父の完全」を「天の父の完全な愛」というふうに言い換えることもできます。「天の父の愛が完全なように、あなたがたの愛も完全でありなさい」ということです。今日は、この完全な愛とは何かという問いを持ってみことばに聞いていきましょう。

 

1. 完全な愛とは左の頬を向けていく生き方である
38~39節を読みます。
「『目には目で、歯には歯で。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」
 「目には目、歯には歯」というのは有名な言葉です。学校でも世界史で習いますが古代バビロニア帝国のハムラビ法典にある戒めです。その意味はやられたらやり返せという復讐を認める法律です。これと同じような律法が聖書にもあります。レビ記24:20~21
「骨折には骨折。目には目。歯には歯。人に傷を負わせたように人は自分もそうされなければならない。動物を打ち殺す者は償いをしなければならず、人を打ち殺す者は殺されなければならない。」
この戒めの意味は、復讐することを勧めるのとは全く逆で、余計な復讐にならないための償いのルールです。やられたらやり返せではなく、相手に間違ったことをしてしまったら、同じ痛みを自分も負い、被害者に正しい償いをしなければならないということです。
 しかし、その頃から1300年経ってイエス様の時代には、復讐を認めている律法としてその解釈が曲げられていたのでした。それでイエス様は、あなたがたはそうやって解釈していますよねと念を押した上で仰います。
「悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」
 この悪い者というのは、私たちに危害を加えようとする者のことです。そういうときに手向かってはいけないというのです。ここを読むと襲われたら襲われっぱなしで良いのか。その悪を野放しにして良いのかという思いにさせられます。
 実は、今日の箇所はきちんとここの文脈を理解しないといけません。この箇所での問題は、まず復讐をしないことを教えることでした。そして律法の正しい理解を教えることでした。だから、ここだけ切り取って他のテーマ(悪を放っておいて良いのかなど)で読もうとするなら、真実が見えなくなります。
 イエス様がまずここで言いたいことは、その次の言葉です。
「あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」
 大事なのは、この39節でいうなら「左の頬を向けなさい」です。同様に、40節、41節、42節で言うならそれぞれ「上着もやりなさい」「2ミリオン行きなさい」「断らないようにしなさい」ということです。
 これは何を言っているのか。神の国の論理は、やられたらやり返す論理ではありません。また、やられて、常に受身でぼこぼこにされっぱなしの単なる無抵抗主義とも違います。むしろ天の父の子どもとしての自由意志を行使して左頬も与えてやれという、能動的な選択をするということなのです。
 受けるよりも与える。これが天国の国民の選択です。むしろ自分を与えることで戦っているのです。パウロはイエス様が仰った言葉として「受けるよりも与える方が幸いである」と語りました。まさにそのことです。だから下着を取られたら、上着を残す権利を持っていても、そんな権利にしがみつかずに天の御国の国民、自由人としての自由意志によって上着も与えるし、2ミリオン一緒に歩くし、求められたら与え続ける。追い込まれるのではなく、差し出すのです。これがイエス様の論理です。
 そんなの無理だと思われるかも知れません。しかし、復讐を認めては争いを終わらせることはできません。早いうちにどちらかが左の頬を出さなければならないのです。その勇気が与えられているのが、イエス様を信じて救われた人です。
 それは、クリスチャンは天のお父様の子どもであるからです。全宇宙の支配者である神の子どもは神のすべてのものを受け継いでいます。大富豪の子どもも大富豪なのと同じです。だから差し出す余裕があるのです。勇気だけではありません。何よりも聖霊が与えられているので実現可能なのです。聖霊はイエス様の霊であるので、イエス様のように生きるように助けてくださいます。
 イエス様はどんなに不正な裁判をされても、左の頬どころか頭を殴られ、背中の肉が裂けるほど鞭で打たれ、十字架に架けられました。それは、正しくさばかれる方にお任せになったとペテロが言っているとおりです。むしろ左の頬を差し出すように、ご自分の全てを差し出して、相手に身を任せているのではなく、神様に全部任せたということです。そして、十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。
 そのイエス様を信じた私たちも、この主イエス様の御霊が与えられているので、必要なときに争いを終わらせるための、その力が与えられるのです。
だから、この箇所を読んで、そのまま自分の子どもに適用しないでください。
 子どもが学校でいじめられて帰って来たときに、この箇所を読んで子どもに押し付けないでください。イエス様を信じた人が自分から進んですることです。自分ができないことを子どもに押し付けるのは残酷なことです。それは律法主義です。罪を犯したなら教えるべきですが、短絡的に聖書にこう書いていあるからこうしなさいという言い方には、愛がありません。愛とは与えることです。子どものために時間も労力もいのちも与えることです。できない自分を認めて一緒に神様に向かうことです。これは子どもだけでなく、他の人に対してもそうです。聖書のことばをまず自分に適用しないで他の人に適用することは、愛のないやり方です。 
この左の頬を向けるということができるのは、キリストの十字架の愛に裏打ちされた能動的な信仰があるからです。このことは敵を愛することと繋がってきます。

 

2.完全な愛とは敵を愛する生き方である
 ここから、これまでのイエス様が言われた内容の総括になります。それは、人に腹を立てないことから始まり、復讐しない。むしろ復讐を終わらせるために、何が必要か。それが敵をも愛する愛であり、迫害者をも愛する愛なのです。
43~44節
「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」
 この43節の「自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。」という言葉は、聖書には書いていないことばです。聖書に書いてあるのはレビ記19:18
「復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である。」です。
 聖書に自分の敵を憎めという言葉はありません。これもまた、当時のユダヤ人たちの歴史の中で変化していった教えでした。隣人とは誰かということを自分で決めて、隣人は愛するけど、そうでない人は愛する対象ではなかったのです。しかし、イエス様が言われたのは、むしろあなたがすべての人の隣人となりなさいということです。よきサマリヤ人の教えはそういうことです。愛されることよりも愛することを求めよということです。
 アッシジのフランチェスコというカトリックの修道士がいました。彼の祈りとしてこのような言葉が残っています。
主よ、わたしを平和の器とならせてください。
憎しみがあるところに愛を、争いがあるところに赦しを、
分裂があるところに一致を、疑いのあるところに信仰を、
誤りがあるところに真理を、絶望があるところに希望を、
闇あるところに光を、悲しみあるところに喜びを。
ああ、主よ、慰められるよりも慰める者としてください。
理解されるよりも理解する者に、愛されるよりも愛する者に。
それは、わたしたちが、自ら与えることによって受け、
許すことによって赦され、自分のからだをささげて死ぬことによって
とこしえの命を得ることができるからです。
 フランチェスコは、受けるよりも与える生き方を求め、実践した人でした。この祈りには、そうできない自分を認め、しかし、だからこそ積極的に能動的に神に求めていく彼の信仰が見えてきます。
ただそのような生き方が45節のみことばにも通ずる内容です。
 「それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。」
ただ、ここを読むと、敵を愛せないと神様の子どもになれないのかとがっかりしてしまいます。敵を愛せるかどうかが神の子どもになる条件のように聞こえます。しかし、イエス様がここで言いたいことは、救われるためには良い行いが必要ということではなく、既に神の子どもなんだから、そのように生きようとするならばそこに神の子どもとしての完成があるということです。というのも、ここでイエス様は「わたしの父の子どもになれる」とは言わずに「あなたがたの父の子ども」と既に神様が私たちの父であると仰っておられるからです。私たちはイエス様を信じてすでに天のお父様の子どもとされたのです。だから、敵を愛そうとすること、迫害する者のために祈ることで天の父なる神様の子どもとして完成に近づいていくというプロセスを言っているのです。フランチェスコの祈りもそういう意味でしょう。
川崎家の子どもは私の言うことを一字一句守れないからと言って川﨑家から追い出されません。今度がんばろうねと言われてまた川崎家の一員として生活します。そうやって大人になっていきます。皆さんの家もそうでしょう。神の家の子どもになった私たちも、霊的な成熟を目指して生きるのです。
 その生き方は46~47節の言葉に表されています。
「自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。」
 私たちの生き方は、自分を愛してくれる人だけではなくて、敵対する人に対しても、迫害してくる人に対しても、いやそういう人だからこそ愛をもって与えていく愛を表す生き方です。
 それが成熟を目指す歩みであり、天のお父様が私たちに求めておられる完全な愛なのです。48節
「だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」

 

結論
 今日、私たちに求められているのは天の父の完全さ。更には天の父の完璧な愛です。その愛をどのように身につけ、どのように表すことができるでしょうか。
 それは、実は誰かに愛を表さなきゃと思う前に、もっと大切なことがあります。それは、隣人を愛する前にまず神様を愛するということです。イエス様はそのことをずっと私たちに伝えていることをご存知でしょうか。神様がどれほど私たちを愛し、私たちを子どもとして招いておられるか。
 イエス様は弟子たちに対して神様のことを言うとき、「あなたがたの神」とは言わずに、必ず「あなたがたの父」または「あなたの父」と仰っています。イエス様は弟子たちに神様のことを言うときに、必ず「あなたがたの父」と仰って、神様と私たちとの深い関係性を強調しているのです。この表現はマタイの福音書が最も多いです。マタイの次に多いヨハネでは10回です。マルコやルカでは1~2回なのに対してマタイでは15回使われています。
 神様はイエス様にとって父です。その豊かな愛の関係に私たちをも招き入れてくださっているのです。もう天の父は私たちのお父さんなのです。私たちは、イエス様を信じて神の民とされましたが、それは神の王国の王子、王女とされたという恵みなのです。パウロはこう言います。ガラテヤ4:4~6
「しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。」
 罪深い私たちは、イエス様の十字架によって天のお父様の子とされたがゆえに、天のお父様に憧れ、天のお父様を喜び、天のお父様を愛する者へと造り変えられているのです。
 私の子どもが小さい頃、私が朝仕事へ行くとき、あとを追ってよく泣いてくれました。そして私が仕事から帰って来ると大喜びで飛び跳ねて迎えてくれました。その子どもたちの私への姿こそ、父なる神様に対する私の姿であり、あなたの姿なのです。その愛の中にあるとき、眉間にしわを寄せて頑張って完全になろうとするのではなく、ただ天のお父様を喜び、天のお父様が一緒にいてくださることに心から感謝し溢れるのです。今年の年間聖句に何て書いているでしょうか。それは、「あふれるばかり感謝しなさい」です。これこそ、天のお父様の子どもとして完全にされる歩みです。その歩みの延長線上に、左の頬を差し出す勇気、敵をも愛する愛が培われるのです。
 先週のニュースでスリランカの教会がテロにあって多くの人が亡くなりました。また日本でも車が暴走して道を歩いていた人が犠牲となりました。私が被害者だったら、報復したくなります。しかし、そこに報復、復讐ではなく左の頬を向けることができるのは、キリストに贖われたクリスチャンです。
  では具体的に何が私たちにとっての左の頬でしょうか。敵を愛することって本当にできるのでしょうか。
 イエス様は何と言われたでしょうか。44節後半。
「迫害する者のために祈りなさい。」
 私たちは、愛しなさいと言われると大きなことをしなければと考えてしまいます。何か、相手の心が変わるような大胆なことをすべきと思います。しかし、イエス様は「祈りなさい」と仰るのです。
 私たちの左の頬を差し出すことは、敵を愛すること。では敵を愛するとは何か。それは、まずその人のために祈るところから始まるということではないでしょうか。
 その祈りは、最初は相手を呪うような思いで溢れるかもしれない。しかし、天のお父様にお話しているうちに、その心は確かに変えられていきます。
  敵を愛するために、まず愛する天の父に祈ろうではありませんか。天のお父様に繋がろうではありませんか。そのままの気持ちで。その神に向かう心を、神ご自身が造り替えてくださるのです。そこに、完全な愛への第一歩があるからです。

 

祈り

 天の父なる神様。罪深い私たちをイエス様の十字架の贖いによって、あなたの子どもしてくださり感謝します。私たちはあなたとイエス様の豊かな関係に入れられた恵みをまだ十分に味わっていません。どうか、日々、あなたにある完全な愛がまず私たちに注がれている恵みを教えてください。そのためにイエス様が呪いの十字架に架けれられたことを覚えて、あなたの完全な愛に生き、あなたの完全な愛を表すものとならせてください。
 今日、集まれなかった方々の上にもあなたの祝福がありますように。主の御名によって。