のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

● 「主は、御声に聞き従うことを喜ばれる」サムエル記 第一 15章17~35節

f:id:kinokunizaka66:20190509064415j:image

サムエル記 第一 15章17~35節

"17 サムエルは言った。「あなたは、自分の目には小さい者であっても、イスラエルの諸部族のかしらではありませんか。主があなたに油を注ぎ、イスラエルの王とされたのです。
18 主はあなたに使命を与えて言われました。『行って、罪人アマレク人を聖絶せよ。彼らを絶滅させるまで戦え。』
19 なぜ、あなたは主の御声に聞き従わず、分捕り物に飛びかかり、主の目に悪であることを行ったのですか。」
20 サウルはサムエルに答えた。「私は、主の御声に聞き従い、主が私に授けられた使命の道を進みました。私はアマレク人の王アガグを連れて来て、アマレク人たちは聖絶しました。
21 兵たちは、ギルガルであなたの神、主にいけにえを献げるために、聖絶の物の中の最上のものとして、分捕り物の中から羊と牛を取ったのです。」
22 サムエルは言った。「主は、全焼のささげ物やいけにえを、主の御声に聞き従うことほどに喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。
23 従わないことは占いの罪、高慢は偶像礼拝の悪。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」
24 サウルはサムエルに言った。「私は罪を犯しました。兵たちを恐れて、彼らの声に聞き従い、主の命令と、あなたのことばに背いたからです。
25 どうか今、私の罪を見逃してください。そして、私が主を礼拝することができるように、一緒に帰ってください。」
26 サムエルはサウルに言った。「私はあなたと一緒に帰りません。あなたは主のことばを退け、主があなたをイスラエルの王位から退けられたからです。」
27 サムエルが引き返して行こうとしたとき、サウルが彼の上着の裾をつかんだので、上着は裂けた。
28 サムエルは彼に言った。「主は、今日、あなたからイスラエル王国を引き裂いて、これをあなたよりすぐれた隣人に与えられました。
29 実に、イスラエルの栄光である方は、偽ることもなく、悔やむこともない。この方は人間ではないので、悔やむことがない。」
30 サウルは言った。「私は罪を犯しました。しかし、どうか今は、私の民の長老とイスラエルとの前で私を立ててください。どうか一緒に帰ってください。私はあなたの神、主を礼拝します。」
31 サムエルはサウルについて帰り、サウルは主を礼拝した。
32 サムエルは言った。「アマレクの王アガグを、私のところに連れて来なさい。」アガグは、喜び勇んで彼のもとに来た。アガグは「きっと、死の苦しみが去るだろう」と思ったのであった。
33 サムエルは言った。「おまえの剣が、女たちから子を奪ったように、おまえの母も、女たちのうちで子を奪われた者となる。」こうしてサムエルは、ギルガルにおいて主の前で、アガグをずたずたに切った。
34 サムエルはラマへ行き、サウルはサウルのギブアにある自分の家へ上って行った。
35 サムエルは死ぬ日まで、再びサウルを見ることはなかった。しかしサムエルはサウルのことで悲しんだ。主も、サウルをイスラエルの王としたことを悔やまれた。"

 
神のことばに従うことが何よりも大切なことは、旧約時代も現代も変わりません。

  神の憐れみによってイスラエルの最も小さな部族であったベニヤミン族から、イスラエル王国で初めての王が選ばれました。それがサウルでした。

  彼は当初より自分が王になることに対して、とても謙遜に受け入れていましたが、王に任ぜられ、他の国と同じように人々の上に立つ者として歩むうちに、その意識は、やはり他の国の王と同じように、自分の支配力や権力という王座にどっかりと座り、自分で意識しないうちに、どんどん主のことばを軽んじるようになってしまいました。

  かつて、イスラエルの民は、他の国の国民と同じように王を立てるようにサムエルに求めました。サムエルは真の王である主にではなく、目に見える人間を王とすることに反対をしながらも、その求めに応じてサウルに油を注いだのです。

  その彼らのことば通り、今サウルは、他国の王と何も変わらなくなってしまったのです。

  今日の聖書箇所で、中心的なことばは22節でしょう。

「主は、全焼のささげ物やいけにえを、主の御声に聞き従うことほどに喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」

  サウルの罪を指摘するサムエルに対して、サウルは自分の口で、主の御声に聞き従ったと言い放ちました。彼の王としてのプライドは、以前ようなへりくだった信仰者としての姿を蝕んでいたのです。彼はいけにえをささげた、その行為を自分で正しいことをしたと思っていました。しかし、主が求めておられることは、ただ御声に聴き従うことだったのです。

  それは、表面的に儀式を行うことではありません。心から主を愛することです。

  罪深く、ちっぽけな自分を選び召してくださった主の恵みに感謝して、その主を愛することが何よりの礼拝でした。

  それなのにサウルは、王としての自分の面目を保つことに終始し、主の御心を損ねたのです。

  このサウルの姿は、私たちクリスチャンの姿でもあります。

  罪の中に埋もれていた私たちを、主は憐れんでくださり、選び、主のものとしてくださいました。

  それなのに、何とかたちばかりの礼拝で自己満足をしていることか。私は悔い改めて言います。

  毎週、主の日に礼拝することは正しいことです。しかし、その心は本当に主を愛しているだろうか。主を愛する心で、本当に礼拝をささげているでしょうか。また、罪を表面的な宗教行為によって覆い隠して、さも信仰深くあるかのように振舞っていないでしょうか。

  主日礼拝だけではありません。日々の黙想の時間も心を注いで主に叫び、主のことばに耳を傾けているでしょうか。かたちだけの日課になっていないでしょうか。普段の信仰の歩みに神への祈り心はあるでしょうか。祈りは信仰生活において霊的な呼吸であると言われます。その呼吸を私たちは本当にしているでしょうか。

 主はかたちだけのいけにえを喜ばれるでしょうか。主が喜ばれるのは、砕かれた悔いた心です。主はそれを決して蔑まれません。その心は、霊的な呼吸である祈りによって主と繋がっている中に培われるのです。

  今日、もう一度、私の心、あなたの心を点検しましょう。あなたの罪のためにいのちを捨ててくださったイエス様の恵みに立ち返りましょう。

  そこから、もう一度悔い改めさせていただき、へりくだって主を愛する者として御声に耳を傾けてまいりましょう。