日本メノナイト 白石キリスト教会

聖書からのメッセージをお届けします。

● 「だから、こう祈りなさい」 聖書箇所 マタイの福音書6章7~10節

 

序論
 祈りは信仰生活を支える霊的な呼吸です。それで今朝は、イエス様が教えてくださった「主の祈り」に聞いていこうと思います。主の祈りと言っても、イエス様ご自身がこのように祈っていたと言うよりは、弟子である私たちがどのように祈るのかということを教えている祈りです。
 前回は先に5節と6節を読んでいました。それは、6節までが信仰生活における姿勢、態度について言われていたからです。「祈るときには」と5~6節で繰り返されていますが、そこでは信仰の態度がまず問われていたからです。
 人に見せるため、人に褒められるための信仰生活ではなく、天のお父様に喜んでいただける姿こそ大事だということです。その生き方が祈りなのだということをまず押さえることが大切だということを学びました。
 今日は、祈りの実践についてです。日々の生き方そのものが神様と繋がっている「祈り」なのですが、時間を取り分けて、聖別して祈ることも大切です。それが奥まった部屋で祈る祈りであり、神様との親密な時間なのです。
 そこで質問です。皆さんの祈りはどんな祈りでしょうか。皆さんにとって祈りとは何でしょうか。お願いの時間でしょうか。宗教儀式でしょうか。義務でしょうか。それとも信仰生活そのものでしょうか。今日は、主の祈りの前半部分までを通して、イエス様が教えてくださった祈りについて聞いていきたいと思います。

 

1.祈りとは、神との交わりである
 7節を読みます。
「また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。」
 ここからイエス様のお話が、祈りの姿勢や態度から内容に入っていきます。それが同じことばを繰り返すなということです。ここに「異邦人のように」と言われています。これまでイエス様はユダヤ人の間違いを中心に語られてきました。律法を知っているはずのユダヤ人がまず間違っているよと言うことです。ここでは異邦人についても触れています。言葉数が多いと聞かれると思っているとです。
 これは神様の前にユダヤ人も異邦人もどちらも足りない者であり、どちらも心を貧しくしなければ幸いでないということです。異邦人の祈りの特徴として、同じことばの繰り返しがあったようです。日本で言うなら、念仏やお題目を唱えるというようなものでしょうか。
 このような同じ言葉の繰り返しは、どういうときに行うでしょう。8節でイエス様は「あなたがたがお願いする先に」と言われていますから、彼らの祈りは「お願い」であることがわかります。お祈り=お願いだということです。
 皆さんはいかがでしょうか。お祈りはお願いとイコールでしょうか。私たちは祈りの中でお願いはしないでしょうか。当然します。そのとき、同じことを何度も祈ることはないでしょうか。病気や怪我が治ってほしいと何度も祈ります。それは間違いでしょうか。
 先週、アッシジのフランチェスコの話をしました。フランチェスコの祈りを知りたいと思った人が、フランチェスコの部屋の戸の外で聞いていたら、その祈りが初めから終わりまで「主よ、主よ・・・・」だったというお話です。
 この「主よ」と繰り返していたフランチェスコの祈りは、イエス様が仰っている異邦人の祈りになってしまうのでしょうか。同じ言葉を繰り返しているという点ではそのとおりです。みなさんはどう思いますか。
 そうではありません。ここで異邦人の祈りと言われているのは、祈る対象に対して願い事をかなえてくれる便利なものとして、機械的に祈ることについて注意しているのです。だから、フランチェスコの祈りは「主よ」と繰り返していても、その言葉の裏側には父なる神に対する愛と信頼があって、多くの賛美と感謝と告白、そして願いがあるのです。
ただし、その「主よ」という祈りを聞いた人が、それが良い祈りなのか真似しよう言って、機械的にまねするだけならば、その祈りはここでいう異邦人の祈りと同じです。問題はきちんと祈るべきお方を捉えているか。そのお方に信頼し、何よりもその愛と憐れみに気がついているのか。そこが問われます。この時の弟子たちで言えば、ユダヤ人として、神様に選ばれている恵みに感謝しているか。今の私たちでいうなら、クリスチャンとして選ばれている恵みに感謝しているかということです。
 神様を役に立つしもべにするなら、それは異邦人の祈りだということです。お願いするだけの存在。困ったときだけの神頼みは、まさに多くの人がしている祈願であり、たんなる宗教活動、宗教儀式です。それは天のお父様を、ドラえもんと同じレベルに引き下ろすことと同じです。ほしいものを言えば出してくれる。神様をそんな便利な道具にしてしまう。だからイエス様は言われます。8節。
「だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。」
 だからまねをしてはいけないと言われます。それは、あなたがたの父なる神は、あなたがお願いする先に、もう必要を知っているからです。だから、くどくどと、しつこく、ごり押し的に祈願するのはいけないのです。
 もし、ここで神様が知っているなら祈らなくても良いのではと思う人がいるとしたら、それはまだ神様があなたの天のお父様であるということがわかっていないということです。神様との親しい関係、神様があなたのお父さんであると認めているなら、そう考えることができないからです。
 もし、私が自分の父親に、私の思いが知られているからという理由で口を利かなくなることってあるでしょうか。むしろお父さんに対して、自分の思いを知ってもらえていることで安心するのではないでしょうか。
 私は子どもの頃、私のほしいおもちゃを親が知っていることはわかっていても、あえて、そのほしいおもちゃが載っているチラシを親が見えるようにしておいて置きました。もちろん、すぐに買ってくれないこともわかっていてやっているのです。それは、明らかに親に甘えているということでしょう。
 その豊かな親子の関係を天のお父様は求めているし、イエス様も、ご自分と神様のその関係に招いているのです。

 

2.祈りで、まず必要なことは
 それでイエス様は仰います。
「だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。』」
 イエス様の「だから」はとても大切です。私たち弟子の祝福を願って、「だから」彼らの真似をしないで、「こう祈りなさい」とはっきり言われます。
「天にいます私たちの父よ」と。
 これまでイエス様は何度も「あなたがたの父は」と繰り返してきました。そして、だからこう祈りなさいと言われました。天にいます私たちの父よ。お父さんと呼んでいいよと、イエス様が言ってくださった。これはなんという恵みでしょうか。この呼びかけの言葉は、山上の説教の中でも革命的です。心の貧しい者が幸いだという言葉も素晴らしい革命的なことばでしたが、神様に「私たちの父よ」と呼びかけて祈りなさいという主のことばは、天地創造のときから見ても、天地がひっくり返るほどの革命的なのです。
 聖書で神様は、初め神「エロヒーム」と呼ばれていました。そのあと「神である主」と呼ばれました。出エジプト記では「わたしはあるというものである」と名乗られて、そこからヤハウェというお名前だけれども、みだりに唱えてはならないと言われ、それからはずっと主(アドナーイ)と呼ばれてきました。
 しかし、神の御子イエス様が来られてから、その御子イエス様の口から、「天にいます私たちの父よ」と呼びかけなさいと教えられているのです。今、私たちは、これまで選びの民イスラエルにも明らかにしてこなかった三位一体の神を、私たちに示し、その完璧な愛の交わりの中に私たちをも入れてくださる。
 こんな祝福はエデンの園にもなかった恵みです。この事実に私たちは心を打たれます。あのエデンの園も素晴らしかった。神様ご自身が、非常に良かったと仰って最高の関係にアダムとエバを置いてくださった、それ以上の祝福に今、もう既に私たちは置かれているのです。それくらい、この呼びかけは祝福なのです。天の神様を私たちの父、または私の父と呼んでも良いのです。
 でも、なぜ、いきなり神様の存在がぐっと近づいたのでしょうか。旧約の時代までは、幕屋や神殿をつくって、そこに様々な動物の犠牲があって、神様に近づくのが大変でした。ダビデの家来であるウザと言う人は、倒れそうになった神の箱を手で押さえただけで打たれて死にました。そのくらい聖なるお方なのに、どうして、ここにきて天のお父様と呼び、愛の関係を示しているのでしょうか。
 それは、真の神の御子イエス様が、私たちの代わりに天のお父様に捨てられることで、それが許されたからです。この山上の説教だけでなく、十字架に至るまで、イエス様に罪を赦された人たちは皆、このあとの十字架の贖いがあって、先行して赦されているのです。その赦しは、あのイエス様の十字架上の祈りに表されています。
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか)
 ここでイエス様は、詩篇を引用していますが、それは真心からの叫びでもありました。天のお父様を「父よ」と呼びかけずに、「わが神」と罪人の祈りとして、私たちが祈るべきことばをもって、天のお父様から切り離されたのです。その犠牲があって、今、私たちは天の父よと呼び、その愛の中で赦され生かされているのです。
 その天のお父様が私たちのお父さんであるならば、祈りはもっと視野が広げられます。その自由な、愛の中にさらにイエス様は天のお父様のご性質に私たちを招いておられます。
「御名があがめられますように」文語では「御名をあがめさせたまえ」です。
これは、神様を賛美していることは確かなのですが、このあがめられますようにという言葉は、もっと深い神様のご性質を表現していることばです。日本語では「あがめられますように」ですが、もとの言葉は「聖なるものとされるように」という意味があります。5:16でも「あがめる」という言葉がありますが、もとの言葉であるギリシャ語では違う単語が使われています。5章の方は栄光とか賛美という意味のことばで、当然あがめるでも良いです。しかし、ここで使われている言葉は「聖なる」とか「きよい」という意味の言葉です。そのきよさをわからせるために、5章で律法を正しく理解するように教えられたとも言えます。父が完全であるようにあなたがたも完全であれとはそういうことでしょう。
冒頭の「天にいます」とあるのは「地にいる肉の父」とは全く別もの、地上の父親と混同しないお方であることを意味しています。聖なるお方とは、世とは分離されたお方と言う意味です。この世の父親がいるから比喩で天のお父様と言っているのではないのです。初めから天の父なる神と子なる主キリストがおられて、その天の父の雛形として人の父を定めたのです。だから見る方向が逆です。神様の方から人間の父親がどうかを見るべきです。人間の父親から神様を知ろうとしてはいけません。そのくらい比べられないお方としてリスペクトすること。それが「あがめさせたまえ=聖なるものとされますように」という言葉にかかっているのです。
 やはり意味としては「聖なるもの」とした方が良いと思います。神様が聖なる方であり、その聖を子である私たちが告白する。しかも、あなたは「聖です」清いお方ですという言い方ではなく、聖なるものとされますよういにという言い方です。これは、神様が私たちの告白によって聖であるのではなく、神ご自身によってご自分によって聖であるからこそ、益々、そうでありますように願い、一切の主権、ご支配がこのお方にあり、絶対であることの告白なのです。あなた以外に神はありませんという告白です。
 そのように完璧な愛ときよさであるお方が私たちの父であるなら、この罪の世にこそ、その支配があるように願わされるのです。そこには私の思いや、私のちっぽけな願いを超えた、完全な神様の支配こそ最善であり最高であることを認めざるを得ません。10節。
「御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。」
 ここで言われる御国が来ますようにとは、大きく三つの意味で考えることができます。一つは、この世が滅びて新しい神の王国が来るようにという願いです。この地上は罪と汚れで満ちていて、悪がはびこって不幸なことがたくさんです。そうであるなら、神様の国が早く来て、信じる全ての人の救いが完成することを願う気持ちはわかります。しかし、それだけではありません。二つ目は彼岸的天国を願う意味もあるでしょう。つまり、早く死んで天国に行きたいという願いです。その気持ちもわかります。しかし、そういう思いで、この世を歩むことは果たして幸せでしょうか。確かに将来、死んだとしても御国は約束されています。でも、今、私たちは、この世に生を受けて、神様の御心によって生かされているのです。しかも、まだ救われていない人たちが大勢いる中、先に救われて、今、ここに置かれているのです。それは何故でしょう。
 それは、三つ目です。この罪の世界において神の支配があるように願うことも私たちの役目だということです。新しい神の国は、あの世の話だけではなく、現実のこの罪の世界にも証しされる必要があるのです。御国とは神の王国。神の支配という意味があります。その神の支配、神の主権が、悲しみが悲しみで覆い尽くされそうな、この世にもあるように願うときに、その悲しみが悲しみで終わらない、絶望から希望に、闇から光に、死からいのちに変えられる神の支配が現実に起こることを意味しています。

 

結論
 そのために、天から遣わされ、この地に置かれている。それが私たち、主の教会です。天に国籍を持つものたちの集まりですが、同時にこの世において神の国を証しするコミュニティなのです。この教会である私たちは、常に神様の御心を願います。それは神の御心よりも優れた心、思いは誰ももっていないからです。その御心が行われるのは天の御国では当たり前です。天にはサタンの支配がないし罪も死もありません。それが、地においても行われるように、この地にも天国の恵みが広げられることを願うのです。それは神の国、神の支配が何よりも素晴らしい祝福だからです。
 今、この地上は神様を忘れた人間中心の価値観で、どんどん生き難くなってきています。原発事故も戦争も、交通事故も不幸な出来事です。また、身近にある病気や人間関係もなかなかうまくいかない時代になっています。人々の愛は冷えて、個人主義が蔓延し、キリスト教会にも神の支配よりも人間の支配が優先されるようなことが起きています。
 このような目標を失った時代にこそ、私たちは天の父に日々繋がり続ける必要があるのです。そのために、あらためて御子イエス様が、わが神わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですかと叫ばれた祈りを聞きたいと思うのです。
 そのようにして、ご自分が天の父から切り離されて、私たちが味わうべき苦しみを通ってくださった。その主のゆえに、今「天のお父様」と呼びかけ、その愛に委ねて生きられる恵みを覚えたいのです。
 この祈りはただではない。御子イエス様のいのちが代価として支払われた。そこにあらわされた恵みに日々感謝しつつ、今週も天のお父様に繋がっていきたいと思います。

 

祈り

天のお父様。あなたを私たちの本当のお父さんとして呼ぶことが許されている恵みを感謝します。しかも、そのきよさに与らせてくださって、その唯一絶対のご支配のうちに匿ってくださり感謝します。そのために、イエス様が捨てられたことを感謝します。その犠牲の上に今の祝福があることを感謝します。どうか、日々、主のゆえに天のお父様との愛に招かれていることを信じ、その愛に満たされて歩むことができるように聖霊によって助けてください。御国が来ますように。御心が天で行われるように地でも行われますように。