日本メノナイト 白石キリスト教会

聖書からのメッセージをお届けします。

●主は必ず彼を打たれる:サムエル記第一26章

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1,ジフ人がギブアにいるサウルのところに来て言った。「ダビデはエシモンの東にあるハキラの丘に隠れているのではないでしょうか。」
2,サウルは立って、三千人のイスラエルの精鋭とともに、ジフの荒野へ下って行った。ジフの荒野でダビデを捜すためであった。
3,サウルは、エシモンの東にあるハキラの丘で、道の傍らに陣を敷いた。一方、ダビデは荒野にとどまっていた。ダビデは、サウルが自分を追って荒野に来たのを見て、
4,偵察を送り、サウルが確かに来たことを知った。
5,ダビデは立って、サウルが陣を敷いている場所にやって来た。そしてダビデは、サウルと、その軍の長ネルの子アブネルが寝ている場所を見つけた。サウルは幕営の中で寝ていて、兵たちは彼の周りに宿営していた。
6,ダビデは、ヒッタイト人アヒメレクと、ヨアブの兄弟で、ツェルヤの子アビシャイに言った。「だれか、私と一緒に陣営のサウルのところへ下って行く者はいないか。」アビシャイが答えた。「私が一緒に下って参ります。」
7,ダビデとアビシャイは夜、兵たちのところに来た。見ると、サウルは幕営の中で横になって寝ていて、彼の槍が、枕もとの地面に突き刺してあった。アブネルも兵たちも、その周りに眠っていた。
8,アビシャイはダビデに言った。「神は今日、あなたの敵をあなたの手に渡されました。どうか私に、槍で一気に彼を地面に突き刺させてください。二度することはしません。」
9,ダビデはアビシャイに言った。「殺してはならない。主に油注がれた方に手を下して、だれが罰を免れるだろうか。」
10,ダビデは言った。「主は生きておられる。主は必ず彼を打たれる。時が来て死ぬか、戦いに下ったときに滅びるかだ。
11,私が主に逆らって、主に油注がれた方に手を下すなど、絶対にあり得ないことだ。さあ、今は、枕もとにある槍と水差しを取って、ここから出て行こう。」
12,ダビデはサウルの枕もとの槍と水差しを取り、二人は立ち去ったが、だれ一人としてこれを見た者も、気づいた者も、目を覚ました者もいなかった。主が彼らを深い眠りに陥れられたので、みな眠り込んでいたのである。
13,ダビデは向こう側へ渡って行き、遠く離れた山の頂上に立った。彼らの間には、大きな隔たりがあった。
14,ダビデは、兵たちとネルの子アブネルに呼びかけて言った。「アブネル、返事をしないのか。」アブネルは答えて言った。「王を呼びつけるおまえはだれだ。」
15,ダビデはアブネルに言った。「おまえは男ではないか。イスラエル中で、おまえに並ぶ者があるだろうか。おまえはなぜ、自分の主君である王を護衛していなかったのか。兵の一人が、おまえの主君である王を殺しに入り込んだのだ。
16,おまえのやったことは良くない。主に誓って言うが、おまえたちは死に値する。おまえたちの主君、主に油注がれた方を護衛していなかったのだから。今、王の枕もとにあった槍と水差しが、どこにあるか見てみよ。」
17,サウルはダビデの声と気づいて、言った。「わが子ダビデよ、これはおまえの声ではないか。」ダビデは答えた。「わが君、王様。私の声です。」
18,そして言った。「なぜ、わが君はこのしもべの後を追われるのですか。私が何をしたというのですか。私の手に、どんな悪があるというのですか。
19,わが君、王様。どうか今、しもべのことばを聞いてください。もし私に敵対するようあなたに誘いかけたのが主であれば、主がささげ物を受け入れられますように。しかし、それが人によるのであれば、その人たちが主の前でのろわれますように。彼らは今日、私を追い払って、主のゆずりの地にあずからせず、『行って、ほかの神々に仕えよ』と言っているからです。
20,どうか今、私の血が主の御顔から離れた地に流されることがありませんように。イスラエルの王が、山でしゃこを追うように、一匹の蚤を狙って出て来ておられるのですから。」
21,サウルは言った。「私が間違っていた。わが子ダビデよ、帰って来なさい。もう、おまえに害を加えない。今日、おまえが私のいのちを尊んでくれたのだから。本当に私は愚かなことをして、大変な間違いを犯した。」
22,ダビデは答えて言った。「さあ、ここに王の槍があります。これを取りに、若者の一人をよこしてください。
23,主は一人ひとりに、その人の正しさと真実に応じて報いてくださいます。主は今日、あなたを私の手に渡されましたが、私は、主に油注がれた方に、この手を下したくはありませんでした。
24,今日、私があなたのいのちを大切にしたように、主は私のいのちを大切にして、すべての苦難から私を救い出してくださいます。」
25,サウルはダビデに言った。「わが子ダビデよ、おまえに祝福があるように。おまえは多くのことをするだろうが、それはきっと成功する。」ダビデは自分の道を行き、サウルは自分のところへ帰って行った。

 

  やられたら、やり返す。目には目を、歯には歯をと私たちは考える。特に、自分に非がない場合は、相手に自分が受けた同等かそれ以上の罰があるように願う。

  ダビデも、これまでの執拗に追いかけてくるサウル王に対して、決して赦し続けていたのではありませんでした。「主は必ず彼を打たれる」と、サウルの結末にある死を期待しています。ただし、自分の手でサウルを殺すことだけは避けました。

  今日の箇所は以前にもあった場面と重なります。前回は洞窟に用を足しに来たサウルの着物の裾を切って、自らのサウルに対する潔白を証明し、サウルもその時は心を改めたかのように見えました。しかし、病的なまでにダビデへの嫉妬から来る殺意が消えることがなく、更に追っての、この場面でした。

  つまり、一度、ダビデの手にかかって死んでいてもおかしくなかったにも関わらず、サウルは命拾いをしたはずなのです。しかし、サウルのダビデへの殺意は、再びサウル自身を死へと追い込んで行ったのです。それは、このダビデの言葉から明らかです。

 

「10,ダビデは言った。『主は生きておられる。主は必ず彼を打たれる。時が来て死ぬか、戦いに下ったときに滅びるかだ。』

 

  ダビデは、「誰でもいつかは死ぬ」とは言わず「主は打たれる」と言いました。それが寿命で死ぬか戦死するかのどちらかだろうと。しかも、戦いに下ったときに「滅びるかだ」と、「死ぬ」よりも更に、そこに主の意思があって、主のさばきによる死であることを示唆しています。

  ここに、信仰者の弁えを学ぶことができます。私たち主を信ずる者は、自分で復讐することを考えてはなりません。復讐は主がなさることだと弁えることが肝心です。

  では、自分の手で復讐はしないにしても、相手に天罰が下るようにと、相手が滅びることを願い呪うことは正しいのでしょうか。

   今日の箇所では、ある意味、旧約における限界を見ることができます。確かにサウルは悪いでしょう。また、二度にも渡りダビデの手にかかって殺されてもおかしくない状況に置かれて、その死をまぬがれました。このことは、サウルへの警告であり、サウルが悔い改めるチャンスでもありました。

  しかし、ダビデには、もうそのことに対する期待よりも、主がサウルを打たれることへの期待の方が大きかったと言えます。ここに、私たちはそれは当然だと思わないでしょうか。

  しかし、もしここに主イエス様がおられたら何と答えるでしょうか。

  おそらく、神に打たれるサウルの身代わりになって、神に打たれる側に自らを置き、その犠牲によってサウルの罪を赦そうとされたでしょう。きっと、神の呪いを自ら負い、復讐よりも、報復よりも、相手への死よりも、相手を生かすために、自分は何をすべきかを考えるでしょう。

  それが、新約時代の恵みなのです。主イエス・キリストは、罪人を赦し、御国に招き入れるために、ご自分から十字架に向かわれ、私たちが受けるべき神のさばきをその身に追われました。

  その犠牲によって、私たちは生かされたのです。それは、罪の中にある私たちへの報復よりも、私たちに対するさばきよりも、救うことを望まれたからです。

  パウロはこう言っています。

 

「愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。こう書かれているからです。『復讐はわたしのもの。わたしが報復する。』主はそう言われます。
次のようにも書かれています。『もしあなたの敵が飢えているなら食べさせ、渇いているなら飲ませよ。なぜなら、こうしてあなたは彼の頭上に燃える炭火を積むことになるからだ。』
悪に負けてはいけません。むしろ、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」
ローマ人への手紙 12章19~21節

  確かに血を流す者には血による報いは理にかなったことです。しかし、私たちが願うのは敵への報復よりも、その敵が主の前に悔い改めて、主の者として生まれ変わることです。そのことを踏まえて、「主は必ず彼を打たれる」と言いたいと思います。私たちにとって、主が打つとは、彼の古い人に対するさばきであり、彼が主によって新しい人に造り変えられるようにされるということです。

  なぜ、私たちはそのように言えるのか。それは、まず私たちが主によって赦されたからです。私たちを赦すために、主イエスは十字架にかかり、そのいのちをもって私たちのための宥めの供え物になられたのです。そこに神の愛が示されたと聖書は言います。

  その神の愛と赦しをいただいた私たちだからこそ、敵をも赦すことができるのです。滅ぼされて当然の私たちが赦された。

  今日も、その恵みの中で、私たちもまた敵が主の恵みのゆえに、永遠の命をもち、神を愛する者とされるように願うものでありたいと思います。

  

"愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛がある者はみな神から生まれ、神を知っています。
愛のない者は神を知りません。神は愛だからです。
神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。
いまだかつて神を見た者はいません。私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにとどまり、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。
神が私たちに御霊を与えてくださったことによって、私たちが神のうちにとどまり、神も私たちのうちにとどまっておられることが分かります。
私たちは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、その証しをしています。
だれでも、イエスが神の御子であると告白するなら、神はその人のうちにとどまり、その人も神のうちにとどまっています。
私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。
こうして、愛が私たちにあって全うされました。ですから、私たちはさばきの日に確信を持つことができます。この世において、私たちもキリストと同じようであるからです。
愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。
私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。
神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。
神を愛する者は兄弟も愛すべきです。私たちはこの命令を神から受けています。"
ヨハネの手紙 第一 4章7~21節
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