のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

●心が折れるとき: サムエル記 第一 27章

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1,ダビデは心の中で言った。「私はいつか、今にサウルの手によって滅ぼされるだろう。ペリシテ人の地に逃れるよりほかに道はない。そうすれば、サウルは、イスラエルの全領土内で私を捜すのをあきらめ、こうして私は彼の手から逃れられる。」
2,ダビデは、一緒にいた六百人の者を連れて、ガテの王マオクの子アキシュのところへ渡って行った。
3,ダビデとその部下たちは、それぞれ自分の家族とともに、ガテでアキシュのもとに住んだ。ダビデも、その二人の妻、イズレエル人アヒノアムと、ナバルの妻であったカルメル人アビガイルと一緒であった。
4,ダビデがガテへ逃げたことが、サウルに知らされると、サウルは二度と彼を追おうとはしなかった。
5,ダビデはアキシュに言った。「もし、私があなたのご好意を得ているなら、地方の町の一つの場所を私に下さい。そこに住みます。どうして、このしもべが王国の都に、あなたと一緒に住めるでしょう。」
6,その日、アキシュはツィクラグをダビデに与えた。それゆえ、ツィクラグは今日まで、ユダの王たちに属している。
7,ダビデペリシテ人の地に住んでいた日数は一年四か月であった。
8,ダビデは部下とともに上って行って、ゲシュル人、ゲゼル人、アマレク人を襲った。彼らは昔から、シュルの方、エジプトの地に及ぶ地域に住んでいた。
9,ダビデはこれらの地方を討つと、男も女も生かしてはおかず、羊、牛、ろば、らくだ、また衣服などを奪って、アキシュのところに帰って来た。
10,アキシュが「今日は、どこを襲ったのか」と尋ねると、ダビデはいつも、ユダのネゲブとか、エラフメエル人のネゲブとか、ケニ人のネゲブとか答えていた。
11,ダビデは男も女も生かしておかず、ガテに一人も連れて来なかった。「彼らが『ダビデはこういうことをした』と言って、私たちのことを告げるといけない」と思ったからである。ダビデペリシテ人の地に住んでいる間、いつも、このようなやり方をした。
12,アキシュはダビデを信用して、こう思っていた。「彼は自分の同胞イスラエル人に、とても憎まれるようなことをしている。彼はいつまでも私のしもべでいるだろう。」

 

 私たち信仰者も心が折れるときがあります。長く緊張が続き、これまで堅く立っていた信仰は何処へやら、まさかという選択をしてしまうものです。

  サウルの手から逃げ続けてきたダビデも決して完璧な信仰者ではありませんでした。彼は「心の中で言った」とあります。その声は、心の中で誰に対して言ったのでしょうか。

  私たちも、心の中で話をして、心の中で納得させることがあります。これは仕方のないことだ。私のせいではない。この状況が私をそうさせているなどと、自己弁護のような、言い訳のようなことを自分に言い聞かせてしまう。その時、私の心はどこへ向かっているでしょう。それは、魔が差したように、心は主から離れているのです。

  ダビデも本来なら、主に叫び、主に訴えるべきでした。いや、いつもなら、そうしていたはずです。

 

"彼は言った。わが力なる主よ。私はあなたを慕います。
主はわが巌わが砦わが救い主身を避けるわが岩わが神。わが盾わが救いの角わがやぐら。
ほめたたえられる方。この主を呼び求めると私は敵から救われる。
死の綱は私を取り巻き滅びの激流は私をおびえさせた。
よみの綱は私を取り囲み死の罠は私に立ち向かった。
私は苦しみの中で主を呼び求めわが神に叫び求めた。主はその宮で私の声を聞かれ御前への叫びは御耳に届いた。"
詩篇 18篇1~6節


  ダビデにとって、「主はわが巌わが砦わが救い主身を避けるわが岩わが神。わが盾わが救いの角わがやぐら」でした。その主への篤い信仰を主は喜ばれていました。しかし、長い恐怖、なかなか終わらない緊張は、信仰者の心を折らさせ、思いもよらない選択をさせてしまうのです。

  ダビデは以前にも気が触れた者を装ってガテの王アキシュのもとに行き、敵の中に隠れようとしたことがありました。今回もまたアキシュのもとに行きました。しかも、今度は気がふれた者ではなく、イスラエルに敵対する者を装って、自分の身を守るために、関係のない者たち男も女も皆殺しにするという恐ろしいことを選び実行したのでした。

  このダビデの行動をあなたはどのように評価するでしょう。主に油を注がれた、次期イスラエル王なので、この選択は許されるものでしょうか。生き残るための緊急避難的措置としてやむを得ないのでしょうか。

  それは違います。それは、先ほどの詩篇18篇にもありますが、どんな困難な時も「ほめたたえられる方。この主を呼び求めると私は敵から救われる」と信じて、主に心を向けることがダビデに必要なことでした。しかし、ダビデは主に呼び求めることをせずに、自分の策略によって、自分の方法で身を守ることを選んだのです。これは主のみことばに聞くよりも、自分の心の声に従ったということです。

  かつてサムエルがサウルに言った言葉を思い出します。

 

"サムエルは言った。「主は、全焼のささげ物やいけにえを、主の御声に聞き従うことほどに喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。
従わないことは占いの罪、高慢は偶像礼拝の悪。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」"
サムエル記 第一 15章22~23節


  大切なのは主の御声に聞き従うことです。自分の心の声は主の御声ではありません。

  私たちも、心が折れることがあります。長い緊張感の中で、張り詰めた糸が切れるように、まさかの展開に自分を追い込むことがあります。私たちも、心の中で話をして、心の中で納得させることがあります。これは仕方のないことだ。私のせいではない。この状況が私をそうさせているなどと、自己弁護のような、言い訳のようなことを自分に言い聞かせてしまう。その時、私の心はどこへ向かっているでしょう。それは、魔が差したように、心は主から離れているのです。    

  しかし、その時こそ、主に立ち返りたいものです。その時こそ、主の御声に耳を傾けていきたいものです。ダビデは、孤独でした。彼の置かれている空間はいつも荒野であり、暗闇でした。私たちもそのような状況に置かれることがあります。しかし、私たちには現在、聖書が与えられており、聖書を通して主の御声に耳を傾けることができるのです。その時こそ、自分の心の中で言うのではなく、主ご自身に対して、その思いをそのまま聞いていただき、主のみことばを待とうではありませんか。

  その時こそ主は、あなたの心の声を主に向けることを願っておられるからです。

  今日は土曜日です。明日の主の日の備え日として、ぜひ、あなたの心の声を自分にではなく、主に語りかけて見ませんか。あなたの心の声を主に聞いていただきませんか。

  主は必ずあなたの心の声を聞き届けてくださり、ダビデ詩篇で告白したように、「私は苦しみの中で主を呼び求めわが神に叫び求めた。主はその宮で私の声を聞かれ御前への叫びは御耳に届いた」と確信することができるからです。

 

  あなたの今日の歩みに主イエスの恵み、神の愛、聖霊の交わりが豊かにありますように、お祈りします。