のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

● 「天に宝をたくわえる」 マタイの福音書6章16~23節

序論
  この6章は私たち信仰を持った人の信仰生活について教えているということを押さえて、これまで聞いてきました。主の弟子になった者は、このように生きるべきですよということを見てきました。それで前回は、祈りについて学びました。イエス様は「主の祈り」を通して、祈りの大切さと、どのように祈るのかということを教えてくださいました。
 だから、天のお父様に対する祈りによって、私たち信仰者は整えられて、施しなどの良い行いができるようにされていくということです。しかし、神様と繋がっていなければ、その行い、その信仰生活、また祈りでさえもお芝居に成り下がる。良い人の振りになってしまう。それは偽善者だということでした。
 だから、人に見せるため、また良い評価を期待する信仰生活ではなく、ただ神様に感謝し、神様を愛する。特に、罪を赦された私たちであることを絶えず覚えていきましょうというメッセージを聞いてきました。
 それで、今日の箇所です。ここには「断食するときには」と言われています。これまで「施しをするとき」、「祈るとき」と私たちにとって大切な行動の実践が取り上げられていました。その信仰生活にとって次に取り上げられたのが「断食」です。
みなさんにとって「断食」は身近なことでしょうか。私たちの信仰生活で「断食」ってポピュラーなことでしょうか。ここに来て「断食」。しかし、ここでイエス様が本当に仰りたいことは18節です。このみことばは4節、6節でも言われていたことです。つまり今日の箇所は、6章1節から言われてきたことの強調であることを、まず受け止めたいと思います。ここでイエス様が言いたいことは「断食」をしなさいということではなくて、既に言われてきたように、信仰を見せびらかすなということです。
 それで断食をするときにも、それを誰かに言ったり、また言わないまでも、いかにも断食しましたという顔つきで、自分を誇るな。自分に光を当てるなということです。
 そのことをまたここでもイエス様は言いたいのだということをきちんと念頭に置きたいと思います。
 その上で当時の信仰者にとっては当たり前のことであっても、現代の私たちには身近でないこともありますので、今日は、まず断食について整理して、私たちの信仰の姿勢、あり方について、みことばに聞いていきたいと思います。

 

1. 断食への信仰の姿勢
16節。
「 断食するときには、偽善者たちのようにやつれた顔つきをしてはいけません。彼らは、断食していることが人に見えるようにと、その顔をやつすのです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。 」
 断食は、もしかしたら現代社会では時代錯誤のように映っているかも知れません。しかし、聖書は頻繁に断食を述べています。世界のキリスト教会も幾世紀にも渡って熱心に実践してきた歴史があります。イエス様の時代でも毎週二回断食する習慣がありました。ところがその実践も衰退していきました。それは宗教儀式として形骸化し、本来の意味を履き違えたところにその原因を見ることができます。
 聖書では一貫して、断食は「霊的・信仰的な目的のために食物を控えること」を意味しています。有名な事としては、悪魔の誘惑を受けられるイエス様が荒野で40日40夜断食したことが挙げられます。イエス様は、その断食後、みことばによってサタンに勝利しました。そのように聖書全体を見渡しても、断食は個人的にも集団的にも、神様との関係の中でもたれていたことがわかります。特に集団による断食は、直面した課題に対して一つの心で結束し、共に問題に立ち向かう人々が集まる、力強く尊いものです。エステル記でも、ユダヤ人の集団が一致した祈りと断食によって、表面的だけでなく本質的な神の業を体験できました。
 では、聖書はすべての信仰者に断食を義務付けているでしょうか。イエス様は施しや祈りをその教えの中から除外していないように断食も除外してはいません。しかし、断食をすべきだとも言っておられません。それを適切に行う相応しいときがあるということを示しています。イエス様は花婿のたとえで語られました。「花婿が奪い取られる、そのとき、彼らは断食することになる」それについて、アーサー・ウォーリスという神学者はこのように結論づけています。
「その日とは、主の十字架の死と復活の三日間だけでなく、まさに現代の教会の時代である」とです。このことから断食は命令ではなく、私たちキリスト者に期待されていることだとわかります。
ここで断食の目的に注目しなければなりませんが、注意すべきは断食によって神をコントロールしようとすることです。お百度参りのように、「これだけ苦しんだのだから願いを聞いて」ということです。
  だから断食は主を礼拝する生活の中で霊的訓練として意識付けすることが大切です。スポルジョンもウェスレーもその重要性を強調しています。また極端に禁欲でもありません。断食によって露わにされていく自己を知り、そこから、研ぎ澄まされてキリストに向かわされるのです。
  その断食を今行おうとするなら、ある程度、学びと訓練が必要です。まずは、24時間継続の短時間の部分断食を行ってみる。その日の昼から翌日の昼までやってみる。何れにしても、断食の実行は、聖書に根拠があることを忘れてはなりません。それは、断食には断食でしか経験できない霊的な領域における数々の発見と成長をもたらすからです。
 だから、断食は今でも行なうことをイエス様は期待しておられるかも知れません。アーサー・ウォーリスの解釈が正しければ、今、この教会の時代こそ断食をもって主の再臨を待つことが求められているのかも知れません。
 しかし、先程も言いましたが、注意点があります。それは、この断食は確かに他の人には見せるべきでないし、自分が断食したことを教えるべきではありませんが、それ以上に神様にすら見せるためのものではないこともわきまえるべきだと言えます。それは、自分がこんなにお腹をすかしてまで頑張っているという神様へのアピールは、相応しい断食とは言えないからです。むしろ断食を通して、自分自身に向き合わされる。自分の惨めさに向き合わされ、弱さの中に働かれる主に心が注がれていく。そこにこそ断食の意味があるのではないでしょうか。断食によって露わにされていく己を知り、そこから、研ぎ澄まされてキリストに向かわされるのです。
 だから、ここでイエス様が教えているのは、断食する人の心がどこに向いているか。何に価値を持っているかということなのです。その心が神様に向いているなら、その信仰を神様は隠れたところでご覧になっておられて、その歩みを祝福されるのです。17~18節
「しかし、あなたが断食するときには、自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい。 それは、断食していることが、人には見られないで、隠れた所におられるあなたの父に見られるためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が報いてくださいます。 」

 

2. 天に宝をたくわえる生き方
 だからこそ、地上ではなく天に宝をたくわえなさいとイエス様は言われているのです。
19~21節
「 自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。 自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。 」
 その心がどこを向いているか。私たちの心は必ず、そのとき関心のあるもの、注目しているものに向けられます。その心は、そのとき大切にしているもので支配されるからです。
 人に注目されたい。皆によくやったねとか、すごい信仰だねと言われることに傾いている人は、宝物を地上にたくわえる人だとイエス様は言われます。それは、天におられるお父様ではなく、地上にいる人の方を向いているからです。それはこの世が宝物と同じだということです。神様のおられる神の国よりも、罪の世を拠り所にしているということです。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるとイエス様は仰います。このお言葉は非常に重いことばです。それは、私たちを罪の縄目から解放してくださったお方を軽んじて、この世と言う罪の中で尚も自分の栄光を求め、自分が王様になろうとしているからです。
 イエス様がこの6章に入って、信仰者の生き方を教える中で、どうして、ここまで、同じ内容で語り続けているのでしょう。主の祈りがあって、お祈りが大切だと教えられたところで、また16節からは、偽善者になるな。いい人ぶるな。自分の経験を誇るなです。
 これは未信者ではなく、すでに信じて神の民になった者。別な言い方をするとキリストの弟子に向けられていることばです。そのくらい、主の弟子とされた者たちは、自分の信仰を誇ることがもっとも陥りやすい罪であることを、イエス様は指摘しています。
 皮肉な話です。イエス様のゆえに罪を赦されて神の子どもとされたにも関わらず、どうして更に誇ることがあるでしょう。
 この山上の説教を聞いていた、このユダヤ人の弟子たちであれば、まだ分かります。ユダヤ人という選びの民としてのプライドがあることがわかるからです。しかし、私たち異邦人は、整えられたオリーブの木に接木された野生の木です。しかも、その中でも他の異邦人よりもただ神様の憐れみのゆえに先に救われたに過ぎない者です。そうであるのに、何と自分を誇ることの多い者でしょう。何と自分に光が当たることを求めやすい者でしょう。
 しかも、私たちが自分の功績を認めてほしいとか、自分がここまで忠実に主に従ってきたということを自分で言いたくなってくる。そのとき、私たちが求めている自分への栄光は、もはや主の栄光ではありません。私たちは自分では輝けないから、主の栄光によって輝けるはずなのに、間違った光を求めてしまうのです。その光は本当の光ではありません。それは、かつてエデンの園で蛇が言った「神のようになれる」という滅びへの道からもたらされる闇の力です。その闇を光と勘違いして、自分を照らす。それは神の子どもの道ではありません。サタンの道です。そのことをイエス様はこう言われています。22~23節
「からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、 もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。」
 私たちのからだを家に見立てると、あかりを取り入れる場所。窓は何でしょうか。それは目です。鼻の穴や毛穴からも少しは光が入っているかも知れませんが、光を取り込んで、それを認識できるのは目だけです。そして、目から入った光は水晶体を通り、眼底にある網膜に当たって、そこで入って来た光の濃淡で映像を電気信号に変えて脳に送り、「見えた」となります。つまり、目から入った情報が脳に刺激を与えて、心もからだも支配します。
 昔、学校で好きな子ができると、その子を見ているだけで頭だけでなく、心もいっぱいになりました。それは肉眼と心が繋がっているということです。肉眼と心の目はセットです。私たちがいつも何に着目し、何に関心を持つかで、私たちの心もからだも支配されるのです。
 だから、自分が報われたい。頑張ったのだから、みんなに気付いてほしい。称賛してほしいと、心の目を自分に向けるならば、いつもその肉眼も見えるものすべてが、自分への評価に繋がるように期待してしまいます。あの人の目も心も自分に向いて欲しい。その言葉も自分の功績を語ってほしい。
 しかし、イエス様は、その目は健全ではないと言われます。目が健全なら、全身に主の栄光が満ちて、その人は祝されます。しかし、その目が不健全ならば、全身が暗くなる。つまり、それは闇を見ているからです。でも、そのとき、私たちは闇とは気付かないで、まんまとその心もからだもサタンの支配に委ねているのです。
 だから、イエス様は言われます。自分の宝は天にたくわえなさいと。あなたの宝のあるところにあなたの心がある。だから、いつも、私たちの目が、そして心がどこを向いているか点検が必要です。
 私たちを赦し、神の子どもとしてくださったイエス様を見ているか。イエス様を見るとは、神様を見ると同じことです。イエス様は言われました。「わたしを見た者は父をも見たのです」と。

 

結論
 あなたは今、何に注目していますか。何を大切にしていますか。今日、イエス様は言われます。自分の宝を天にたくわえよと。私たちがもし、密かに神の業を行うならば、それは神に喜ばれることです。人が評価しなくても隠れたところで見ておられる神様が全てご存知です。それでいいじゃないですか。もし、人に知られたとしても、誇る必要はありません。「なすべきことをしたまでです」と答えれば良いのです。すべては神から出たことであり、自分ではありません。ただ、この小さき者を神様が用いてくださる。こんな役立たずの者が神様の御国のために使っていただける。そのことだけで感謝が溢れてきます。
 あの十字架上で、イエス様といっしょにかけられた強盗のうち、一人がイエス様を最後まで罵っていました。しかし、もう一人の強盗は、そういう罵る仲間の強盗をたしなめてから、イエス様にこう言いました。
「イエスさま。あなたの御位にお着きになるときには、私を思い出してください」
 彼の目には何が映っていたでしょうか。それは、罪人のために罵られ、傷だらけになって「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです」と執り成すイエス様でした。彼の目から入ってきたのは、その神の栄光でした。強盗の心もからだも主に満たされたのです。だからイエス様はこう仰います。
「今日、あなたはわたしとともにパラダイスにいます」
 この強盗は主のために何も良いことはできませんでした。今、そのまま死のうとしています。どう見ても最悪の死に方です。しかし彼の心は主に満たされていました。それは主の十字架をそのまま受け入れたからです。そのままの主を肉眼で、心の目で見たからです。そうです。この瞬間、イエス様ご自身がこの強盗の宝物になったのです。
この強盗は、罪の苦しみの中でイエス様に注目し、ただ思い出していただくだけで良いという素晴らしい信仰者として、2000年間、聖書に記され、光が当てられ、私たち信仰者の模範とされているのです。これが神の祝福です。これが世の光、地の塩として用いられるということです。

  何と言う謙遜な信仰でしょう。自分が目立つのではありません。自分の業が大事なのではありません。大事なのは、主が崇められることです。私も、ただ神の国の下働きで十分です。イエス様に思い出していただけるだけで十分です。

 

祈り
恵み深い天のお父様。今日もみことばを与えてくださってありがとうございます。私たちは、自分の信仰を誇る弱さを持っています。あなたから与えられたものも自分の手柄にしてしまう者です。良い行いも、祈りも、断食も恵みなのに、これまで生かされてきた信仰の歩みも恵みなのに、自分を功績を知ってほしいという思いになります。どうかお赦しください。そのためにイエス様が何度も同じことを語られて警告されていることをありがとうございます。どうか、私たちの心の目も肉の目もきよめてください。自分の栄光ではなく、あなたの栄光を仰ぎ見るものとしてくださり、あなたの栄光で、この心もからだも満たしてください。どうか私たちの心が、本当の宝であるイエス様から離れないように今週も守っていてください。