のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

● 「迫害の中で神を証しする」マタイの福音書 10章16~23節

"いいですか。わたしは狼の中に羊を送り出すようにして、あなたがたを遣わします。ですから、蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい。
人々には用心しなさい。彼らはあなたがたを地方法院に引き渡し、会堂でむち打ちます。
また、あなたがたは、わたしのために総督たちや王たちの前に連れて行かれ、彼らと異邦人に証しをすることになります。
人々があなたがたを引き渡したとき、何をどう話そうかと心配しなくてもよいのです。話すことは、そのとき与えられるからです。
話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話される、あなたがたの父の御霊です。
兄弟は兄弟を、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に逆らって立ち、死に至らせます。
また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。
一つの町で人々があなたがたを迫害するなら、別の町へ逃げなさい。まことに、あなたがたに言います。人の子が来るときまでに、あなたがたがイスラエルの町々を巡り終えることは、決してありません。"

  イエス様を信じる者は、イエス様の弟子と呼ばれます。その弟子をイエス様が危険な場所に遣わすと言われています。

「狼の中に羊を送り出すようにして」と、あくまで送り出しているのはイエス様ご自身です。

 

  私たちは、怖いことや危険なことは嫌です。いじめられることや悪く言われることも嫌です。しかし、イエス様はあえて、その中に私たちを送り出すのです。それには理由があります。

 「 人々には用心しなさい。彼らはあなたがたを地方法院に引き渡し、会堂でむち打ちます。
また、あなたがたは、わたしのために総督たちや王たちの前に連れて行かれ、彼らと異邦人に証しをすることになります。」

  ここに、あなたがたは、わたしのため、すなわちイエス様のために、この世の支配者、権力のある者、さばく立場の人間の前に連れて行かれて、そこで「証しをする」と言われています。その道は決して楽ではないことはわかります。それはいのちの危険にさらされることだからです。

 

「兄弟は兄弟を、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に逆らって立ち、死に至らせます。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれます。」
と書いてあるとおりです。

  しかし臆することはありません。イエス様はきちんと、その迫害に対してどのようにすべきかを教えてくださっています。

  まず、「ですから、蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい」と言われていることです。ここには、鳩のような素直さは当然ですが、あの蛇のような賢さを身に付けることの大切さが教えられています。蛇はエデンの園で人間にまんまと罪を犯させた張本人です。しかし、それは悪魔の手先となったからであって、もともとの蛇の特性としてはどの被造物の中でも賢かったことは確かでした。その賢さのために、私たちは日々努力することが必要です。

  よくクリスチャンの中でも、大事なのは信仰で知識ではないと言われます。確かに信仰はまず大事なものです。しかし、イエス様は迫害に備え、証しをするためにも聖書を学び、みことばを蓄えることの大切さ。また、そのみことばを適切に用いるための努力を否定してはいません。むしろ、そのような賢さを身につけるために、その学びの大切さを教えているのです。

  蛇は確かに、みことばを逆に人間を惑わすために用いました。しかし、それはみことばを知っていたから、そう用いることができたのです。その部分は悪魔とは切り離して学ぶべきところではないでしょうか。

  そのみことばを蓄えて適切に用いることは、あとで生かされます。

 

「人々があなたがたを引き渡したとき、何をどう話そうかと心配しなくてもよいのです。話すことは、そのとき与えられるからです。話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話される、あなたがたの父の御霊です。」

 そのとき、その賢さと素直さが御霊によって用いられて適切に、大胆に語る者とされるのです。

 

  神学校で学ぶことは、ここにその価値を見出せます。もちろん、一人で教会の礼拝や学びの中でも身につけることは出来るかもしれません。しかし、集中的に専門的に、また実践的に身につけるためには、神学校の訓練と学びは有効です。

 

  そこでの学びが、これからの、このイエス様の弟子としての役割に十分に生かされるからです。それは、一生続く弟子の道だからです。それは「まことに、あなたがたに言います。人の子が来るときまでに、あなたがたがイスラエルの町々を巡り終えることは、決してありません」と言われているように、長く険しい道であることが明らかだからです。その険しさに耐えるためにも、蛇のように賢く鳩のように素直な弟子としての整えられることが必要なのです。

  そのイエス様の弟子の歩み、神の民とされた生き方に起こる様々な出来事に耐え忍ぶ者は救われるとあります。これは、その険しさに耐えることが救いの条件なのではありません。救いは神様からの一方的な恵みですので、イエス様を信じる信仰によって与えられます。しかし、その信仰は口先だけで終わることがありません。神様は信じる私たちに聖霊を与えて、ことを行わせてくださり、最終的には御国に至らせてくださるということです。

   信仰と行いは本来セットです。だから、そのように御霊の働きによって実現されるのです。

  

 今日のみことばは、特にこの言葉を覚えて励まされて参ろうではありませんか。

 

"話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話される、あなたがたの父の御霊です。
兄弟は兄弟を、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に逆らって立ち、死に至らせます。
また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。"
マタイの福音書 10章20~22節

  私たちに適切なことを話させてくださり行わせてくださるのは、私たちの父の御霊だということ。そして、その御霊とともに最後まで耐え忍びつつ、主の弟子として生きる者は、確かな救いの喜びを味わうことができるということです。

 

  今日も与えられた場所で、蛇のように賢く鳩のように素直な信仰者として、みことばをいただき、主の働きに備えて参りましょう。