のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

● 「福音の真理に立つ」:ガラテヤ2章11~14節


序)
  私たちの社会は、みんなが自分の意見を自由に語ってよい社会であり、みんなが良いと思ったことを決めていける社会です。それを民主主義と言います。それは独裁者が国や社会を私物化しないためにはとても良い方策だと思います。しかし、その反面、大勢が間違ってしまうと誤った方向に大勢で向ってしまう危険性も持っています。
 これはこの世の政治のことだけではなく、信仰においても言えることではないでしょうか。確かに教会でも総会を行い、そこでも基本的に多数決で決議していきます。その決定が神様の御心と信じて、決まっていくことに従うわけです。しかし、だからこそ常に少数意見にも耳を傾けること。少数意見だからこそ、丁寧に扱うことが必要になってきます。特に、教会での決議は全て、その教会の信仰の姿勢が現れます。どのように何を話し合い、決定していったかで、その教会が何を大切にしているかがわかってきます。
 今日の箇所もまさに、何が正しいのか。特に私たちの救いについて最も重要な福音に対して、パウロやペテロたちはどんな態度をとったのかが書かれています。この多数決が正しければ福音が歪められるという場面です。福音の真理が問われる場面で、ペテロはどうだったのか。パウロはどうだったのか。そして、私たちならどうしただろうか。

 

1. 人を恐れる
 もう一度、ガラテヤ人への手紙2章11節をお読みいたします。
「ところが、ケファがアンティオキアに来たとき、彼に非難すべきことがあったので、私は面と向かって抗議しました。」
ここで言われているケファは皆さんもご存知の通り使徒ペテロのことです。
使徒ペテロはキリストの弟子という立場においてはパウロの先輩です。パウロがイエス様を信じたときも、まずペテロのところに来て15日間いっしょに過ごしました(1:18)。それはパウロも、ペテロをイエス様の弟子仲間の先輩として認め、重んじていたからです。2:2、6では「おもだった人たち」という言葉を使っています。そのおもだった人たちでもリーダーであるペテロから直接、イエス様ご自身のことやその語られた言葉を聞いたり、学んだりしたと思われます。
そのペテロがアンティオキア教会に来た時の出来事です。アンティオキア教会は、使徒の働き11章によると、ステパノの殉教から起こった迫害によって生まれた教会であるということがわかります。その教会としての特徴はユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンがいっしょに集まっていたということです。バルナバパウロがその設立に関わっていました。
アンティオキア教会には黒人もいるしユダヤ人もいるし、国主ヘロデの親戚もいるようなユニークな人たちが教会のリーダーとして立てられていました。その中にエルサレム教会からペテロ先生を交えて、みんなで楽しく同じテーブルで食事をしていました。
するとそこに更にお客さんがやって来ました。12~13節をお読みします。
「ケファは、ある人たちがヤコブのところから来る前は、異邦人と一緒に食事をしていたのに、その人たちが来ると、割礼派の人々を恐れて異邦人から身を引き、離れて行ったからです。そして、ほかのユダヤ人たちも彼と一緒に本心を偽った行動をとり、バルナバまで、その偽りの行動に引き込まれてしまいました。」
それは主の兄弟ヤコブが牧会しているエルサレム教会の人たちでした。その人たちは「信じるだけでなく割礼も受けないと救われないよ」と教えている人たちでした。それは割礼を受けていない人とは、たとえその人がクリスチャンでも一緒にいることを嫌がる人でした。その人は建物には入ってきましたが、隣の部屋にいるだけで同じテーブルに着こうとしません。すると、何とペテロ先生の様子が何か変です。いつの間にか席を立ったと思ったら、なかなか戻ってきません。トイレでも行ったにしては遅すぎる。そうこうしているうちに、あの人もこの人も席を立ち、部屋から出て行き、パウロの親友のバルナバも「そーっと」席を立ち、テーブルからいなくなってしまいました。 
 おかしいと思ったパウロが隣の部屋に見に行くと、何とトイレに行ったのではなくみんな隣の部屋に移動していたのでした。
 ペテロがこの行動をとったのはどうしてでしょうか。それは割礼派の人たちを恐れたと12節に書いてあります。十二使徒であり、その中でもイエス様の一番弟子と言われたペテロ先生が何を恐れているのか。それは、人間です。人間を恐れて正しい行動を取ることができなかったのです。しかも、ペテロ先生が動けばみんな「右倣え」です。右倣えする人が増えるほど、もう反対のことはできなくなっていきます。
 赤信号みんなで渡れば怖くない。でも、これはどうでしょうか。さっきまで和気藹々としていたのに、テーブルに残された異邦人クリスチャンたちも困惑しています。あのペテロ先生が自分たちを差別した。これは割礼を受けなきゃだめなの?一瞬そんな空気になりました。大丈夫かアンティオキア教会。
 多数決なら、パウロの負け。福音の真理の負けでしょう。しかも、ペテロ先生までもが割礼派の人に合わせちゃったから。…でも大丈夫。みんなわかっているのに、間違った方に行動しただけだったから。心は福音を信じているから?
 それで本当にいいのでしょうか。心と行動がばらばらでも良いのでしょうか。心は妻を愛しているから、行動だけ浮気することは正しいのでしょうか。パウロだってユダヤ人の救いのためにはユダヤ人のようになるし、異邦人の救いのためなら異邦人のようになります。でも福音を曲げてまでそんなことをしてはならないのです。
 かつて太平洋戦争のとき、キリスト教会は生きるために伊勢神宮を参拝し、神棚を礼拝堂に設置し拝みました。そして、それに従わなかった教会や牧師、クリスチャンたちに対して敵となっていきました。全員がそうだったとは言いませんが、当時の日本基督教団に入るということは、立場として国家主義を支持する方に回ったということです。
 人が怖かった。国が怖かったという理由で福音を貫けなかった、そのもう一方で福音を貫き拷問され、投獄され獄死したクリスチャンもいました。それについて、私たちは今日の箇所と繋がっていることに気がつくはずです。
 多数決が全てであれば偶像礼拝は正しいです。多数決が正義であれば、拷問も正しいです。でも本当に正しいのは人間の多数決ではなく、神の御心です。 
 全世界の人が神に背いても自分だけ福音を語れるか。自分だけ福音に生きれるか。
恐らく、ペテロもその割礼派の人たちとのゴタゴタを恐れて、ユダヤ人とし
ての慣習の方を優先させて、異邦人から離れたのではないでしょうか。しかし、そのペテロの行動でアンテオケ教会は結果的に分裂したかたちとなりました。それは、割礼派と一緒の席にいるペテロたちユダヤ人クリスチャングループ。もう一つは、パウロと一緒の席にいる異邦人クリスチャンのグループです。
パウロが、このペテロの行動を「偽った行動(つまり偽善者)」と断言したこ
とには、きわめて厳しいものがあります。「偽善」とは、もともと役者が仮面をかぶってお芝居するという意味です。だから、ペテロは、神様を観客席に置いてお芝居をしたという、本心を偽った行動をとってしまったということです。単に人間に対してではなく、神様に対しての誤魔化しであることが大きな問題です。

 

2. 福音の真理にまっすぐに
この偽善をパウロは言い変えて14節でこう言っています。
「しかし、彼らが福音の真理についてまっすぐに歩んでいないのを見て…。」
パウロは、ほかのユダヤ人クリスチャンもペテロと同じ行動をとったのを見
てペテロに抗議しました。恐らくパウロは、だれかが先に抗議することを期待して待っていたのでしょう。しかし、他のユダヤ人クリスチャンたちも、みんながペテロ先生に右倣えしてしまったのです。特に13節の「バルナバまでも」という言葉に、パウロのガッカリ感が伝わってきます。パウロの恩人であり、同労者として信頼していたバルナバまでもが、偽った行動に巻き込まれてしまった。
ペテロのとった行動は、教会内に大変な影響を与えてしまいました。それは
当然です。ペテロは初代教会にとって大変重要な人物です。大先生です。その人の言動は多くの人の心さえも動かす力があるものです。ここでパウロはペテロに対してこう言いました。14節後半です。
「あなた自身、ユダヤ人でありながら、ユダヤ人ではなく異邦人のように生活しているのならば、どうして異邦人に、ユダヤ人のように生活することを強いるのですか。」
私は、パウロという人は、謙遜であり、相手のことをいつも配慮している信
仰者であると思います。ある箇所では、「(パウロは)手紙だと重みがあるが、実際に会ってみるとなっていない」と言われていますが、そう言われるくらい、パウロは穏やかな印象の人だと、私は思います。またエペソ人への手紙4:29で、パウロは、このように言っています。
「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。」
パウロは、この言葉通りに、いつも相手の徳を建て上げるために役立つ言
葉を選んで語ることのできる人です。ですから、ここでも「恵みを与える」ために、どうしても、強く、はっきり言わなければならなかったのです。その理由は同じ2章の5節~6節にも書いてあります。
「私たちは彼らに一時も譲歩しませんでした。それは福音の真理があなたがたの間で常に保たれるためです。そして、おもだった者と見られていた人たちからは、――彼らがどれほどの人たちであるにしても、私には問題ではありません。神は人を分け隔てなさいません。――そのおもだった人たちは、私に対して、何もつけ加えることをしませんでした。」
それは「福音の真理が保たれるため」だということです。パウロは、そのた
めには相手がペテロのような大先輩だとしても問題ではないという姿勢を貫いていました。しかも、影響力のあるペテロが偽った行動をしてしまったことには、あえて公然と抗議することが必要であるとパウロは判断したのです。
ペテロの安易な行動は、ただ混乱を生むことにとどまらず、異邦人クリスチ
ャンを虐げ、律法主義クリスチャンたちに誤解を与え、教会を分裂させ、何よりも主イエス様の完全な救いに泥を塗ることになったのです。
ペテロが若い頃、他の弟子たちと夜中に舟に乗って湖を渡っていたときに、そ
の湖の上を歩いて来られるイエス様に出会いました。そこでペテロは驚きつつも、主よ、あなたでしたら、歩いてここまで来いと命じてくださいと言って、舟を出て湖の上を歩いてイエス様の方へ向かいました。しかしペテロは途中でどうなったでしょうか。ペテロは、そこで、イエス様ではなく、風を見て怖くなり沈みかけたのです。今日の箇所でもペテロはイエス様を見ていませんでした。イエス様ではなく人を見て恐れました。ペテロもやはり同じようなしくじり繰り返してしてしまう。でも、これが私たちの姿でもあるのです。
ですから大切なことは、私たち一人一人が、福音の真理についてぶれずに、
まっすぐ歩むことだと言うことがわかります。それがパウロのすべてのクリスチャンに対する願いでした。
パウロの焦点はぶれていませんでした。その目は何を見ていたでしょうか。それは、イエス様の十字架です。次の3章1節でパウロはこう言っています。
「ああ、愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、目の前に描き出されたというのに、だれがあなたがたを惑わしたのですか。」
パウロの目が捉え続けたものは、十字架につけられた主イエス・キリストでした。それは全てのクリスチャンにはっきり示された福音の真理です。そして、これはガラテヤ人だけでなく、福音の真理から外れてしまいやすい、すべてのクリスチャンに対するパウロの叫びです。

 

結論
私たちの目はどこに注がれているでしょうか。本当に福音の真理にまっすぐ歩んでいるでしょうか。福音を純粋に信じて歩んでいるでしょうか。私たちが救われたのは、イエス様を信じたからです。もちろんその通りです。私たちは行いによらず信仰によって救われました。しかし、ただではありません。神の御子の犠牲の上に成り立っているという価値がそこにあるのです。パウロはこの手紙の冒頭から、福音のど真ん中である、自分のためにいのちを捨ててくださったイエス様を捉え続けています。1:4
「キリストは、今の悪の時代から私たちを救い出すために、私たちの罪のためにご自分を与えてくださいました。」
それが使徒パウロの視点であり、使徒パウロが願う、私たちが保つべき福音の真理なのです。
 大切なことは、福音に向かってまっすぐになること。右にも左にも反れずまっすぐにです。つまり福音の真理であるイエス・キリストの十字架の恵みに向かってまっすぐに歩んでいるかということです。
田植えをするとき、どうやったら田んぼに稲の苗をまっすぐに並べて植えることができるでしょうか。それは、視線を足元ばかり見ないでまっすぐ進む先に向けることです。そのゴールを見続けることで一直線にまっすぐな田植えが出来るのです。信仰の歩みもそうです。
今、あなたの肉眼も心の目も、どこを見ているでしょう。目の前にある出来事、問題でしょうか。それとも頼りになるあの人、あの先輩クリスチャン、あの先生でしょうか。
私達がまっすぐに歩むために見るべきものは、福音そのものであるイエス様です。私のために命を捨ててご自分を与えてくださったイエス様から目を離さずにまっすぐに歩んでいるか。そのお方との親密な関係を保っているか。それが、どんなときでもぶれない信仰の歩みなのです。
私たち人間は自分の力では自分を罪の奴隷状態から救い出すことができませ
ん。だからキリストが私たちの罪を自ら背負われて十字架上で死んでくださり、三日目によみがえられることによって、私たちを罪の呪いから解放してくださったのです。その素晴らしい知らせが福音です。私たちはこの素晴らしい知らせに、何ものをも付け加えてはならないし、付け加えることはできません。それは、ただ主の恵みによって私たちに与えられたものだからです。大工さんがきれいにカンナがけした木材に私のようなものがカンナがけしたら、その木材は台無しです。それと同じように、イエス様がご自分のいのちをかけて与えてくださった福音に手を加えてはならないのです。そして、その福音から右にも左にも逸れてはいけません。ただ自分のためであったと受け入れ続けるだけです。
新しい一週間が始まりました。今週も私たちのためにいのちを与えてくださっ
たイエス様から目を離さずに、この福音の恵みに感謝しつつ、まっすぐに歩ませていただきましょう。

 

祈り
恵み深い天のお父様。このペンテコステに、福音の真理に立つ祝福を教えて
くださりありがとうございます。私たち自身は大変弱い器です。どうか、ともにおられる聖霊が私たちを助け、慰め、イエス様の十字架の恵みから目が逸れないように、この心がぶれないように導いてください。
 この新しい一週間も、どうか私たちを、今の悪の世界から救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身をお捨てになったイエス・キリストをまっすぐ仰ぎ見る歩みをさせてください。
 私たちの救い主イエス・キリストの御名で祈ります。