日本メノナイト 白石キリスト教会

聖書からのメッセージをお届けします。

◎ 「だから神の国と神の義を求めなさい」 聖書箇所 マタイの福音書6章24~34節

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序論
 昔、私が仕事をしているとき、時々やりにくいなあと思うことがありました。それは親方が二人いる現場です。私は電話局の工事をしていました。普段は二人一組で、そのうち一人が先輩なのでうまくいきます。でも、ときどき、他の班で若い人が休むと、その班の班長が私の班に応援に来るのです。そうすると、当然いつもの班長には一番に従って仕事をしますが、応援で来ている人も先輩ですから、一応、その人のことも立てなければなりません。そうすると、どっちからも使われるだけで、何の応援にもならず、かえっていつもよりも能率がさがって仕事が終わらなくなってしまうのです。「船頭多くして船山に登る」と言うことわざがありますが、そういうことです。
 船のキャプテンが何人もいると、指図する人が多すぎて物事がまとまらず、目的とは違う方向に進んでしまうということです。仕事の能率が下がるくらいなら大したことではありませんが、私たちの人生だとしたら大きな問題です。
 イエス様は、今日のマタイ6章24節で「だれも、二人の主人に仕えることはできません」と言われました。それは、一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするから」です。まさにキャプテンは一人が良いということです。そして、そのキャプテンこそ神様ですということです。
 今、私たちはマタイの福音書の山上の説教の箇所からみことばを聞いています。それで、この6章に入ってからは、私たちイエス様の弟子たちの信仰の歩みについて教えているということを見てきました。そして、この6章には、常に二つのことに対してあなたはどっちなのか。そういう視点で読んでいきましょうということを最初にお話したことを覚えているでしょうか。
 それは、つまり必ず二人の主人が示されていて、あなたは弟子としてどっちですかという問いが、あったということです。
 6章1~23節までで振り返ると、人に見せるためなのか、神様を愛するためかということです。19節~20節には、それが天に宝をたくわえるのか地にたくわえるのかという問いもありました。
 いずれにしても、ずっと二人の主人が示されていたということです。そのまとめが今日のところになります。
 それで今日の主題は「だから神の国と神の義を求めなさい」です。サブタイトルをつけるなら、「へりくだって被造物から学びなさい」になると思います。

 

1.  大切なものを間違ってはならない
 イエス様はガリラヤの小高い山の上から弟子たちに、そして取り巻く群衆に語りました。
「あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」
 この言葉は、これまでの神か人間かということを別な表現で言い換えています。もちろん神は同じ神ですが、もう一方の主人が人間ではなく「富」と言われています。それは19節からの天に宝をたくわえるという、貯金の話があって、私たち人間の最も心が支配されやすいものがお金であることをイエス様がよくご存知だからです。
 富というのは、お金がたくさんある状態のことです。ですから、私たちの宝のあるところに、私たちの心もあるので、あなたが支配されているのはどっちですかということです。ここまでが23節までのまとめとなる問いです。
 みなさんは、神か富かどちらに仕えていますか。この質問、この話題を信仰をもっていない人ではなく、弟子たちにされていることがとても大切です。
 イエス様は他の箇所でこう言われました。マタイ10:16
「いいですか。わたしが、あなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなものです。」
 イエス様は弟子たち、つまりイエス様を信じている私たちをこの地上に置いていることを、狼の中に送り出しているとおっしゃっています。そうです。私たちは今、神の国の国民にされながらも、今いる場所は狼の群れの中にいる状態なのです。それは、とても危険な状態に常にさらされているということです。その危険な状態の中で、私たちはまず何を求めるべきでしょうか。25節。
「だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。」
 イエス様は言われます。こんな危険な状態にあるのに、食べたり飲んだり、着ることで頭がいっぱいになっていませんか。そのためにお金があれば何でもできると、お金が、その富が神様になっていませんか。いのちやからだが大事なことはわかっていても、それに対する備え方、価値観が間違っていますよ。と、イエス様はおっしゃっているのです。
 そこで、信仰者の模範を示します。第一の先生は空の鳥です。26節27節。
「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。」
 もちろん空の鳥も毎日食べるものを探して一日終わります。しかし、明日以降のことまで計算して生きてはいません。むしろ、毎日与えられているものだけで生きている。いや天の父が養っているというのです。そして、次の先生は野のゆりです。28~30節
「なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。」
 野のゆりは鳥のように自由に飛びまわれませんが、その命がある限り、神様によって与えられている姿のままで生きています。それもまた、神様が装ってくださっているというのです。しかも栄華をきわめたソロモン王よりも、野のゆりの方がまさっているというのです。
 この鳥も野のゆりも、彼らの存在がどれほど素晴らしいかもっともよく表しているのが、彼らの主語が「天の父」または「神」であるということです。
 私たちは自分の信仰生活を話すとき、主語は「私」でしょうか。私はこうした。ああしたという話をするでしょうか。しかし、空の鳥も野のゆりも自分では語れませんが、イエス様が代弁して言われます。天の父が養ってくださる。神が装ってくださる。これが証しです。これが信仰者の模範だとイエス様は言われるのです。
 6章に入って弟子としての歩みが教えられてきました。その結論なのに、イエス様はあえてご自分を見なさいとか、わたしに習いなさいとは言わずに、空の鳥、野のゆりから学び、わきまえなさいと言われるのです。
 それは、彼ら被造物には生きていく上で大切ないのちもからだも、神様が与えてくださるという前提ができているからです。それは本能だよと蔑むこともできます。でもそう言い切れるでしょうか。大事なことは、へりくだって、この被造物から学ぶことです。イエス様は、ずっと心の貧しい者は幸いであるという前提でここまでお語りになっています。それは、主の前に正しい自分、出来る自分ではなく、どれだけ貧しい者か、どれだけ弱い者か、どれだけ罪深い者かをまず自覚することです。どれほど、神様よりも目に見えるものに翻弄され、お金の奴隷になっていることか。神様を信じていると言いながら、どれほど自分の価値観を優先していることか。
 それが富に支配された、自分のルール優先の生き方です。つまり、それは異邦人が切に求めていることなのです。(言い換えれば、この世の価値観に支配)


2. 私たちのうちに御子がかたちづくられる
 だからこうだとイエス様は言われます。33節
「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」
 私たちの前にはいつも二つ選択肢があります。神の支配か、この罪の世の支配か。神のルールか、この世のルールか。神の国とは神の支配という意味でもあります。
 マタイの福音書では「天の御国」と使われることが多いのに、ここでは「神の国」と言われています。マタイの福音書ユダヤ人向けに書かれていると言われています。それは、主の名をみだりに唱えてはならないという律法を守るあまり、神という表現も避ける傾向があったので、マタイはそこを配慮して「天」という言葉を使っているという解釈からです。
 しかし、ここであえて「神の国」と言っているのは、この国がたんなる天国のことではなく、支配という意味合いが強いからだと言えます。天の支配だとおかしいので、神の支配を第一に求めなさいということです。
 それが後の世だけではなく、今、この現実の中に、神様の支配がありますようにという願いです。この願いは、もうすでに学んできました。主の祈りの中で。御国が来ますようにといつも祈っているのは、まさにこのことです。
 まずこの社会に、神様の支配があるように求めたいです。最近、札幌市内で2歳の子が自分のお母さんと連れ合いの男に虐待され、衰弱死するという痛ましい事件がありました。最近、多いです。他人に暴力を受けて殺されることも悲しいですが、実の親に虐待されていのちを落とす事件が続いています。これは、最近、こういう悪い親が増えたというよりも、今まで表面化しなかっただけです。最近、他人の家のことも警察は聞いてくれるようになりました。昔は民事不介入と言って、事件にならなければ警察は動きませんでした。特に家庭内のけんかとか暴力沙汰も、家庭内のこととして事件化しませんでした。最近、ようやく表に出るようになっただけです。しかし、行政もまだまだです。児童相談所と警察の間でも責任のなすり合いのようなことになっています。
 そんな社会に罪が、また悪がはびこらないように、この世の為政者たちに権威が与えられているのに、うまく機能していないというのが現状です。この他にも学校のいじめの問題も、学校と先生、また教育委員会の間でも問題があるようです。
 このようなことが毎日報道されています。いったいいつの事件がどれなのかわからなくなるほど、同じような事件が続いています。
 だから、神様の支配が、神の国がここに起こるように求めていく必要があります。そして同時に求めていくべきものがあります。それが「神の義」です。
 さきほど申し上げました。富に支配された自分ルールの生き方が私たちの周りにいつもあるということを。神様が、この世に介入しこの世に神の国を広めようとしても、人間が自分のルールでやっていたら、神の支配は進みません。かえって妨害になります。せっかく児童相談所や警察というきちんとした機関を設けて、今、虐げられて悲しんでいる人たちを救いたい、二度と悲しい事件が起きないようにしたいと思っても、この世の義には限界があります。それは、神の義ではないからです。
 人間は、今、良いことをたくさん考えて行おうとしています。それは評価できます。しかし、どうしても限界があるのです。それは、そこに神様抜きにやろうとする人間の選択があるからです。どうしてもその問題にぶつかるのです。
 天地創造でアダムとエバが善悪の知識の木の実を食べることを選んでから、人間は神の意志よりも自分の意思を優先するようになりました。ここから、いつも二人の主人があるのです。そして、どっちが良いのかわかっているのに、自分のルールを優先させて、神様のルールは宗教だと言って外すようになってきました。現代は、まさにその影響を大きく受けています。
 その影響はキリスト教会にも入ってきて、聖書よりも人間の善悪の知識が優先されていることがあります。社会で大勢が言っていることの方が聖書で神様が仰っていることよりも優先される時代になってきています。
 そのとき、益々、この6章33節のみことばが教会に響き渡るのです。
「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」
 それは、やはり私たちキリスト教会が、あらためて狼の中に置かれていることを自覚して、だからこそ、いのちに大切なもの、からだに大切なもの、つまり私たちを本当に生かすのは神ご自身であることに立ち返ることです。そして、大事なことはどうやったら神の義がこの地上に来るのか。それは、まず主の弟子である私たちが、絶えず神の義であるキリストの十字架の恵みに立ち続けることです。

 

結論
 パウロはこう言います。Ⅱコリント5:21
「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」
 神の前に、足りない者であることを認め、しかし、そのためにイエス様が私たちの代わりに罪とされて死なれた。それは、そのイエス様が持っている神の義を、神のルール、価値観を受けて、この狼の中にあって神の義となるためだと聖書は言っています。このように、神の義とされた私たちは日々、この聖書によって、益々神の義として整えられるのです。
 それは、私たちのうちに住まわれる聖霊が、主イエスを信じる者を御子イエス様と同じ姿に変えてくださるからです。聖霊が住むあなたこそ、まさしく神の国だからです。もうすでに、あなたの中に神の国、神の支配は始まっているのです。
 その神の国である私たちが集まるところ。それが教会です。その教会が神の国の支店、出張所として、この世で神の国を現す責任があります。この狼が取り巻く世界で、神の義を示す責任があります。その神の国の大使、使節として、あなたは選ばれているのです。
 神の国と神の義を第一にすることは、まずあなたが神の国になることです。あなたの全てを天の父のご支配に明け渡すことです。そのためにイエス様が最も低くなられて、まず家畜小屋に来られました。それは、罪に汚れた私たちに住んでくださって、そこを神の国にするためです。
 私たちはそのイエス様から神様の義をいただくのです。それが私たちにとって、何よりも大切なことです。いのちのため、からだのために必要なものはお金ではありません。この世の権力や地位、名誉でもありません。
 しかし、天のお父様は、私たちに必要な一切のものをよくご存知です。31節32節、34節。
「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。…だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」
 天のお父様のご支配の中にあると思うとき、不思議な安心感に包まれます。それはあの空の鳥のように、また野のゆりのように、ただ存在し、私が生きているのではない。神様が私を生かしているのだと実感できるからです。
 この被造物から学ぶ視点はとても大切です。それは、被造物自体が神の国と神の義を既に求めて存在しているからです。パウロはこう言います。
 ローマ8:19~23
「被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。 被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。」
 神の子どもたちの現われを待つ被造物。それは人間の罪によってもたらされた虚無からの解放があり、被造物全体がうめいて、その神の国の回復を、そして神の義が行なわれることを待ち望んでいるのです。だから、私たちも同じように被造物から学んで、ともに神の国が来ることを、神の義が行なわれることを願うのです。神の子どもたちの現れとは、私たちが次々に救われて神の子としていただくことです。そこには御子の犠牲によって、神の子としていただく恵みがあることを日々覚えていくことが第一に求められている視点です。だからパウロは、このあとこう言うのです。ローマ8:32
「 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」

 富、人間の知恵、人間の善悪の知識ではなく、神の国と神の義を第一に求めていきたいと思います。それは空の鳥や野の花から学ぼうとするへりくだりが求まられます。信仰の薄い者たちと言われて、そのとおりですと答えて、だから神様を第一に歩みたいのです。

 

祈り
天のお父様。あなたは真の神、私たちの父です。空の鳥を養うに、また野のゆりを美しく装うように、私たちをも愛し慈しんでくださる恵みを感謝いたします。しかし、さらにそのような被造物を通して、私たちもうめきながらあなたの子とされる恵みをいただいていることを感謝します。どうか、私たちも空の鳥や野の草花が待ち望む世界を待ち望むものとさせてください。今、この日本でも多くの不幸な出来事が起きています。どうか、そこに私たちが神の子として、あなたのご支配、あなたの義、ルールを現せるように導いてください。そこに御心が天で行われるように地でも行われますように。この地に御国が来ますようにお願いいたします。