日本メノナイト 白石キリスト教会

聖書からのメッセージをお届けします。

●黙想: 「主よ、助けてください」マタイの福音書 14章22~33節

f:id:kinokunizaka66:20190623072258j:image

"それからすぐに、イエスは弟子たちを舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸に向かわせ、その間に群衆を解散させられた。
群衆を解散させてから、イエスは祈るために一人で山に登られた。夕方になっても一人でそこにおられた。
舟はすでに陸から何スタディオンも離れていて、向かい風だったので波に悩まされていた。
夜明けが近づいたころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに来られた。
エスが湖の上を歩いておられるのを見た弟子たちは「あれは幽霊だ」と言っておびえ、恐ろしさのあまり叫んだ。
エスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。
するとペテロが答えて、「主よ。あなたでしたら、私に命じて、水の上を歩いてあなたのところに行かせてください」と言った。
エスは「来なさい」と言われた。そこでペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスの方に行った。
ところが強風を見て怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。
エスはすぐに手を伸ばし、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」
そして二人が舟に乗り込むと、風はやんだ。
舟の中にいた弟子たちは「まことに、あなたは神の子です」と言って、イエスを礼拝した。"

 私は毎日が「主よ、助けてください」の連続です。きっとイエス様も毎日「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」とおっしゃっているでしょう。しかし、その御手は、「すぐに」私をつかんでいてくださいます。

  

  信仰生活とは、主に救われて弟子とされた者が、この世のという湖の上を舟で進むことに似ています。

  イエス様はあえて私たちだけのような状況を許されます。

 

「イエスは弟子たちを舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸に向かわせ、」

とあるようにです。

  そこで弟子たちは嵐に悩まされます。聖歌に「人生の海の嵐に」という歌があります。

 「人生の海の嵐に、もまれきしこの身も、不思議なる神の手により命拾いしぬ。」

  このことに弟子たちも、事実、湖の上で悩まされていました。しかし、それはこの世においては当たり前の現実です。この世というのは、天の御国ではありませんから、いのちの危険にいつも晒されているのです。

  罪を犯しエデンの園から追放された人間は、罪によって呪われてしまった土地で汗して糧を得て、苦しんで子を産み、虚無に服した被造物の中で、常にいのちの危険に晒されて生きなければならなくなったのです。

  しかし、神はイエス・キリストを、その罪の世界に送り、私たちを救ってくださいました。それは、滅びゆくこの地から救われて、天の御国の国民とされたということです。だから、私たちの進む先には必ず御国があるのです。その約束は変わりません。

  でも同時に、この世において、先に救われた者としてなすべき業があるのも事実です。先に救われた者は、キリストの弟子として、キリストが歩まれたように歩まなければなりません。そのことをキリストの世の光、地の塩として歩むとも言います。また、キリストの香りを放って歩むとも言います。

  

"しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちをキリストによる凱旋の行列に加え、私たちを通してキリストを知る知識の香りを、いたるところで放ってくださいます。
私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神に献げられた芳しいキリストの香りなのです。"
コリント人への手紙 第二 2章14~15節


  そのときに、歩むべき道は、道とは言えない険しいものです。今日の箇所においては、まさに湖の上を歩かなければならないようなことの連続です。この世の価値観の中で、みことばを第一として歩もうとするとき、お金は儲からなくてひもじい思いをするかも知れません。周囲の人から除け者にされるかも知れません。

  しかし、そのことは主が許されてその状況があることを忘れてはいけません。イエス様は、弟子たちだけで、あえて舟に乗り込ませることを許されるからです。しかし、必ず近くにおられるのです。

  そこで、さらに歩いてここまで来いとお命じになるお方。そこで、「主よ」と叫びながら、途中まではうまく歩けているかも知れませんが、そこで自分で歩いているという自惚れが出てきて、やはり沈みかけるのです。なぜなら、自惚れは主から目を逸らさせて、周囲の危険のみが現実となって襲って来ることに誘うからです。

  大切なことは、どんなときも主イエス様から目を離さないことです。主から目が離れるとき、そこにあるのは呪われた世界の現実があるのみです。怖いのは当たり前、恐れて沈むのは当然のことです。この世は神の子らを飲み込もうと、いつもそのいのちを狙っているからです。

 

"身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。"
ペテロの手紙 第一 5章8節

  でも主に祈り叫ぶなら、主の御手は、すぐに伸ばされてあなたを助け出します。そのとき、主は必ず言われます。

 

「イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかんで言われた。『信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。』」

  その繰り返しの中で、私たちの信仰が練られていきます。だからこそ、主からのチャレンジに応えていきたいのです。それは、自分にはできるから踏み出すのではなく、自分には無理だからこそ、主から力をいただいて踏み出す一歩です。そこで経験する全てのことは、必ずあなたを成長させ、キリストが歩まれた道をあなたも歩めるようにされていくのです。

 

エスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。
するとペテロが答えて、「主よ。あなたでしたら、私に命じて、水の上を歩いてあなたのところに行かせてください」と言った。
エスは「来なさい」と言われた。そこでペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスの方に行った。

 

  今日もあなたの手をすぐにつかんでくださる主が共にあることを覚え、ただ主だけを見て歩ませていただこうではありませんか。

「いと静けき港に着き、我は今安ろう。救い主イエスの手にある身はいともやすし。」

 

"試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。"

ペテロの手紙 第一 1章7節

(引用聖句は全てペテロの手紙から)