"すると見よ、一人の人がイエスに近づいて来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをすればよいのでしょうか。」
イエスは彼に言われた。「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方はおひとりです。いのちに入りたいと思うなら戒めを守りなさい。」
彼は「どの戒めですか」と言った。そこでイエスは答えられた。「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽りの証言をしてはならない。
父と母を敬え。あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」
この青年はイエスに言った。「私はそれらすべてを守ってきました。何がまだ欠けているのでしょうか。」
イエスは彼に言われた。「完全になりたいのなら、帰って、あなたの財産を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」
青年はこのことばを聞くと、悲しみながら立ち去った。多くの財産を持っていたからである。"
ある金持ちの青年がやって来てイエス様に問いかけました。
「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをすればよいのでしょうか。」
それに対してイエス様はこう答えます。
「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方はおひとりです。いのちに入りたいと思うなら戒めを守りなさい。」
このやり取りがあったのは「子どもたちを来させなさい。わたしのところに来るのを邪魔してはいけません。天の御国はこのような者たちのものなのです。」"(マタイの福音書 19章14節)と語られたあとでした。
つまり永遠のいのちを得ることができるのは、子どものようにならなければならないということです。しかし、この青年は、どんな良いことをすれば、それを手に入れることができるのかと、これまでのイエス様のお話をひっくり返すようなことを言ったということです。
子どものようになるとは、子どものように無力であることを認めなければならなかったからです。
しかし青年は自分の力で良いことができると思っていたのです。その言葉に対してイエス様のことばも厳しくなりました。それは「良いことができる」という青年の土俵にイエス様も立って仰っているからです。
人間はそもそも、非常に良い状態で神様に創造されました。だから、そのときの状態に戻れるのなら当然永遠のいのちに与れるのです。それは神の律法をことごとく行うことと等しいのです。ところが人間は罪を犯してから、エデンの園を追い出されて、そこにケルビムを置かれて罪のままでは聖なるところへは近づけなくすらなってしまったのです。
だから、この青年の言葉には大きな高慢があったことがわかってきます。このあとの青年の話を見るとそのことがはっきりします。
それは、自分は金持ちだし、神の律法も守っている。だから神の祝福を受けるに相応しい。非の打ち所がない。イエス様もきっとそう仰るに違いない。そう認めてもらってお墨付きをいただけるに違いない。その期待をもって青年はイエス様に質問していたのです。
結局、彼は悲しんでイエス様のもとから去っていきます。それは、金持ちを捨てよという、厳しい言葉が返ってきたからでした。
イエス様は「良い方はおひとり」だと言われました。それは天の父です。この言葉の意味は、神様以外に良い方はいないということです。人間に良いものはいないということです。それでも、良いことをすれば永遠のいのちを得られると思っているのなら、その土俵にわたしもたって答えようではないか。それがイエス様のスタンスです。
そのイエス様に対して、彼は自分のどこに欠けたところがあるのかと愚かな質問によって、自分自身を追い込みました。
今日の結論は、やはり子どものようにならなければ天の御国に入れないということです。素直に罪深い自分を知り、だからこそ神様により頼むのです。赦してくださいと無力な自分を認めて、神が送ってくださった救い主を信じることが私たちに求められていることなのです。
青年は去る必要はありませんでした。その場で愚かな自分を認めてイエス様の前で悔い改めれば良かったのです。
しかし救いは終わっていません。最後の「悲しみながら」という言葉に、青年における永遠のいのちへの希望を見ることができます。彼はイエス様の言葉に憤慨して立ち去ったのではなく、悲しんだことは救いへの第一歩です。それは、真の慰めを得ることになるからです。
イエス様は言われました。
"悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。"
マタイの福音書 5章4節
この慰めとは、心の貧しい者が得る天の御国、つまり永遠のいのちであると言えるでしょう。
私たちも、今日、神の前に良いことができないことを悲しむ者でありたいと思います。無力な者であることを悲しむ者でありたいと思います。そして、主の前に戻ってその憐れみにすがり、真の慰めの道を歩みたいと思います。永遠のいのちはそこから始まるからです。