"また、宮の中で、目の見えない人たちや足の不自由な人たちがみもとに来たので、イエスは彼らを癒やされた。
ところが祭司長たちや律法学者たちは、イエスがなさったいろいろな驚くべきことを見て、また宮の中で子どもたちが「ダビデの子にホサナ」と叫んでいるのを見て腹を立て、
イエスに言った。「子どもたちが何と言っているか、聞いていますか。」イエスは言われた。「聞いています。『幼子たち、乳飲み子たちの口を通して、あなたは誉れを打ち立てられました』とあるのを、あなたがたは読んだことがないのですか。」"
以前、イエス様は子どもたちのことをご覧になってこう言われました。
マタイの福音書 18章3節
「まことに、あなたがたに言います。向きを変えて子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません。」
マタイの福音書 19章14節
「子どもたちを来させなさい。わたしのところに来るのを邪魔してはいけません。天の御国はこのような者たちのものなのです。」
イエス様は繰り返して、天の御国に相応しいのは子どもたちであると言われたのです。イエス様は、たとえ話の中では、これが天の御国だとか、天の御国はこういう人だということを話されても、目の前にいる人に対して、天の御国はこのような者たちのものだとは、子ども以外には使っていません。
それは、子どもこそ「心の貧しい者」の代表だからです。イエス様は天の御国はどのような人たちのものだと仰っているでしょうか。
"「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。"マタイの福音書 5章3節
"義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。"マタイの福音書 5章10節
つまり子どもたちは、さらに義のために迫害されている者でもあるということです。
事実、祭司長たちや律法学者たちは、子どもたちが素直に叫んでいることばを聞いて腹を立てました。それは、子どもたちの証言に腹を立てたということであり、その証言を迫害したということです。
どうしてナザレのイエスが「ダビデの子」つまりメシアなのか。更にホサナと神を賛美することばをつけるとは何事かということでしょう。またホサナという意味は「救ってください」という意味がありますので、まさにイエスに救い主として救ってくださいと懇願している告白でもあるということです。
それはイエス様がこの世に来てくださった理由であり、使命でもあることです。その事実を子どもたちの口から語られた。ここに、天の御国に相応しい者たちを主が用いてくださって、頭の固い、うなじのこわい大人たちへの警告ともなっていることと見ることができるのではないでしょうか。
大人は子どものことを簡単に蔑みます。そして、自分のことを高いところにいつも置いています。大人は自分の物差しを捨てられず、簡単に人をさばいていることすら自分でわかっていないくらい、凝り固まっています。
それで神様は子どもを用いられて、その大切な真理を語らせてくださいました。それも宮の中でです。
人々が神を覚え、神に礼拝を献げるその場所で、祭司長をはじめ律法学者たち、神への礼拝を導く側にいる者たちが神の御心を正しく証することばを否定したのです。
そのことにイエス様は聖書のことばをもって、子どもたちこそ教師であると告げられたのでした。
「『幼子たち、乳飲み子たちの口を通して、あなたは誉れを打ち立てられました』とあるのを、あなたがたは読んだことがないのですか。」
今日のみことばから学ばせられることは、やはり幼子たち、乳飲み子たちに倣って、その口から出ることば、そのあり方を吟味せよということではないでしょうか。
神に用いられる天の御国にふさわしいものとは誰か。
それは、より小さくより貧しく、より砕かれた存在。しかも主をほめたたえることで非難され迫害を受けるその者たちです。
今日の黙想は、私たちがどれほど高ぶりやすい者であるかを悔い改めること。そして、子どもたちのことばに耳を傾け、その存在に学ぶ謙遜を思い巡らし、身につけていきたいと思います。