のりさん牧師のブログ

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◎ 説教「求めなさい、捜しなさい、叩きなさい」 聖書箇所 マタイの福音書7章7~12節

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序論
 今日の7節の最初の言葉もとても有名です。「求めよ、さらば与えられん」と文語体で知られています。このことばを『故事ことわざ辞典』で意味を調べるとこう書いてありました。
●意味:与えられるのを待つのではなく、自ら積極的に努力をすれば、必ず良い結果が得られるということ。
●注釈:ひたすら神に祈れば、神は必ず正しい信仰を与えてくれるだろうということ。転じて、何事も進んで努力をする姿勢が大事だということ。
 「転じて」というのが驚きです。転じすぎて、信仰のことよりも、自分の願いごとや欲求が叶えられるためには、ただ待っていないで、積極的に努力して何かを始めていこう。それが求めることだということでしょう。神様に願うことよりも自分のやる気とか努力が大事なんだ。そうすれば必ず良い結果がついて来るというふうに解釈されています。恐らく昔であれば、真の神様を信じていなくても、目に見えない何か大きな存在は認めている人は多くいました。だから、それぞれの置かれている状況でそれぞれ畏れかしこんで生きていました。しかし、現代は神亡き時代と言われています。それをポストモダンとも言います。神とか宗教とか言っていることはもう古い。そんなもの信じて弱弱しく生きてないで、自分を信じて逞しく生きる。これが現代の基本スタンダードになっています。だから、益々教会離れが進み、そこにオウム真理教の事件などがあって、キリスト教会も同じ宗教と見なされて、敬遠されがちです。特に学校周辺でチラシを配ることなどが難しい。それが現代です。
 しかし、イエス様は、今日の箇所で、神様抜きでいいから頑張って求めれば良いことがあると教えているのでしょうか。勝手に「転じて」、意味を間違って捉えて単なる「ことわざ」にしておいて良いのでしょうか。
 今日は、「求めなさい。捜しなさい。たたきなさい」という主題ですが、「ことわざ」ではなく、聖書は何と言っているのか。つまりイエス様は何と仰っているのかをともに聞いていきたいと思います。
 
1. 求め、捜し、叩き続ける私たち
 イエス様は、この7節から8節で、神様に対する私たちの姿勢を教えています。まず今日の箇所で考えたい一つ目のポイントは、私たちは誰に求めるのかということです。
「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」
 ここに「求めなさい、捜しなさい、たたきなさい」と命じられています。これは、求め方を三段階で示して、どんどん迫るほどの熱心さの大切さを表しています。それは、「求める」という最初の言葉は、心の状態、その思いがどうかということを表しています。私たちは、叩く、つまりドアをノックする前に捜し、捜す前に求めます。
 何をするにも、まずその心が熱心でなければなりません。いくら、捜しても、いくらたたき続けても、その思いが熱心に「求める」のでなければ、それはパフォーマンスに過ぎません。それだとやはり偽善者になってしまいます。捜し続け、たたき続けて、熱心な振りをすることはいくらでもできます。そのようなかたちだけの熱心なら、決して求めているものは与えられないでしょう。かたちだけの信仰は空しいと学んできた通りです。
 もし人間がつくった宗教ならば、かたちだけでも儀式をすることに意味を持たせますが、キリスト教は人間にとって神様の方から啓示された唯一の道です。人格をお持ちの神様が、ご自分のかたちに造られた人間に、人格をもって関わり、愛の関係の中で交わることに意味があります。
 ですから、神様と言うお方を、親しく私たちの天のお父様であるとわきまえて交わる。ここで、まず求める相手が誰かという意味がはっきりするのです。
 現代の私たち人間社会は、自分を信じるということが基本になっているということを初めに言いました。自分を信じるという社会の中では、求めると言っても、自分の心の中で強く願う気持ちで、だから自分の持つ力、能力を最大限に絞り出して、良い成績を収めようとします。ホームランを40本打つ。受験に合格する。大金持ちになるとなるわけです。そのためには、寝る間も惜しんで練習、または勉強して、学校だけでなく塾にも行く。それ自体が悪いことではないでしょう。でも、それがことわざで言う「捜し、たたく」ということになるのです。それで、うまく合格すれば、私はすごいと自画自賛し、自分を褒めたくなるでしょう。そういう価値観の人間こそ、神なき現代の基本だと言えます。でも最近の新興宗教もその価値観の中にあります。オウム真理教なども自己啓発としての宗教で、自分に罪があるとか、唯一の神様との断絶状態からの救いなどと言う意味での信仰ではありません。性善説に立って、もともと良いものを持っているのだから、頑張って自己能力を引き出す。努力で良い人になれる。努力すれば願っていることは適うという独りよがり的な生き方がニューエイジ現代のキリスト教会にも入り込んでいるので注意が必要です。
 しかし、イエス様はそうは仰っておられません。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれるというのは、その求めを知っていてくださり、その捜す姿をご覧になり、あなたがノックするその音をよく聞いている天の父がおられるということです。その神様をあなたの天のお父様として、きちんと捉えているでしょうか。天にいます、私たちの父よという祈りは、主の祈りのときだけの呼びかけではありません。どんなときも、私たちが信仰者、礼拝者、主の弟子として歩むどんなときでも、誰に求めるのか。自分自身にでしょうか。そうではありません。常に天のお父様に求めるべきであることをしっかりと覚えたいと思います。

 

2. 聞いて与える天の父
次に、その神様と私たちとの関係性にあらためて気付かせるために、イエス様は9節~11節で教えてくださっています。ここでは、その親子の関係の中で何を求めるべきなのかを教えています。
「あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。」
 イエス様は、これまでも要所要所で「あなたがたの天の父が」という表現を使って繰り返されてきました。やはりここでも「あなたがたの天の父が」と言われて、私たちと神様との関係が親子であることがしっかりと身につくように言われています。この関係を無視して、求め、捜し、たたくということはできません。神様が私たちの天のお父様だから、甘えて求めて良いのです。
 だから天のお父様は、私たちが求めるべきものについて、よくご存知であり、
「良いものを与えることを知っている」お方です。同時に悪いものもよくご存知です。だから、パンを求めているのに石は与えません。魚を求めているのに、蛇は与えません。逆を言うと、私たちが間違って石を求めても石は与えず、蛇を求めていたら蛇は与えないお方でもあるということです。
 だから、私たちが間違ったものを求めていたら、それがどんなに欲しくて捜して、たたいて求めたとしても、その願いは聞かれないことを伝えています。
よく、祈ったのに願いが叶えられないということがありますが、その理由の一つには、私たちにとって相応しくなかったから、神様が別な答えを下さることがあるということです。
 ですから、ここに来ると、何でも求め続ければ願いが適うという話ではないことがわかります。ここがことわざと全く違います。ここでイエス様が言いたいことは、ごり押しで求めればどんなことも叶えられるということではなく、そもそも天のお父様の御心に添った求めるべきものがあって、そのことを求めるならば、それは必ず与えられるということなのです。
 それはやはり、この山上の説教の文脈では6章33節の「神の国と神の義を求めなさい」に繋がってきます。7節では、「神の国と神の義を」という言葉はありませんが、求め続けること、そして、そうすれば与えられるという同じ表現で、同じ単語を使って言われています。実は7節の「求めなさい」も6章33節の「求めなさい」も日本語では同じ言葉ですが、7節の方は原語では「尋ねる」とか「要求する」という意味で「求める」という言葉が使われています。しかし6章33節の「求める」は7節の「捜しなさい」と同じ言葉が用いられているのです。 
つまり6章33節は「神の国と神の義を第一に捜しなさい」でも良いのです。その捜しなさいを、今度は真ん中に置いて「求めなさい。捜しなさい。たたきなさい」と言われた。または7節の方を「尋ね求めなさい。捜し求めなさい。たたきなさい」でも良いわけです。ですから、7節ではさらに熱心に求めることを強調しているのです。なぜそのくらい強く繰り返して求めることを命じているのか。
 それは先週も言いました。私たちが常に求め続けていかなければ、間違いも過ちも起こるからです。ここで用いられている「求めなさい。捜しなさい。たたきなさい」には、すべてそれをし続けなさいという意味も含まれています。でも求め続けることをやめたときに失敗します。
神の国と神の義」はイエス様ご自身と言っても良いと思いますが、私たちは、イエス様の価値を忘れて、自分がきよい、自分が正しいという高慢に陥るときがある。それが人をさばくときであると言いました。そのとき、私たちが犬とか豚だという話を先週しました。犬や豚は宝物の価値がわかりません。私たちも価値をイエス様ではなく自分の生き方や行い、経歴に置くなら、この動物たちと同じだと。
だから犬や豚にはならず、イエス様に価値を認めて、喜んで人に伝える。でも相手がイエス様の価値のわからない人間なら伝えるなと言われる。ここにイエス様の弟子として葛藤が生まれます。ではどうすれば良いのか。
 その答えが、それでも熱心に「求めなさい。求め続けなさい」です。そこでもう一度、そこで更に求め続けることの価値がある。そして、そうするならば必ず与えられる。なぜならば、それは天のお父様の御心だからです。神の国と神の義はイエス様のうちに全てあります。
 私たちがイエス様をパンや魚のように、自分のいのちのために大切なものとして、その価値を認め、熱心に求めるなら、必ずあなたのうちに神の国が来る。あなたのうちに神の義が来る。つまり、あなた自身がキリストと同じ姿に造りかえられるということです。
天のお父様に求め続けるなら、必ず、御子イエス様と同じ姿に造りかえられるからです。パウロは、そのことは御霊の働きであると言います。
「私たちはみな、顔のおおいを取り除けられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」Ⅱコリント3:18
実は、この求め続けるという、その先には神様からのどういうギフトが待っているのか。ルカの福音書のイエス様の言葉には、求め続けることで何が与えられるのかが明らかにされています。ルカ11:9~13
「9わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。
10 だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。
11 あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。
12 卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。
13 してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」
 この求める、捜す、たたくの先には何が待っているのか。それは聖霊です。私たちの内に神の国を建て、神の義で満たし続けることのできるお方。罪深い私たちをきよい愛に溢れたイエス様のように造り替えてくださるお方である聖霊で満たしてくださる。これが天のお父様が与えようとしている究極の聖なるもの、真珠です。この聖霊の満たしを私たちは求め続ける。これが、イエス様がこんなにも求めることを強調している理由なのです。
そのことを踏まえて、イエス様はこのように仰います。

 

3. 自分を与えること~聖書~イエス 
 12節。「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。」
 この言葉も一般的にもよく知られています。私がこの言葉が「黄金律」と呼ばれているということを知ったのは、高校生の倫理社会の授業のときでした。
 自分にしてもらいたいことを他の人にもするということは、自分がしてほしくないことは、他の人にもしないということでもあります。それは別な言い方をすると、自分を愛するように他の人をも愛するということです。その完全な現われは主イエス様のうちにあるものです。常に聖霊に満たされているお方、イエス様こそ完全に神を愛し、人を愛するお方です。しかし、その完全さは、ただイエス様だけで終わるものではありません。神の国の国民であり、イエス様の弟子である私たちの内にも与えられるものなのです。それが「律法であり預言者」であるということ。これは直接的には旧約聖書のことです。翻って聖書の中心は、神を愛し人を愛することであるということです。
 黄金律は遠い先の憧れではなく、今、神を求め続ける私たちの中に与えられているものなのです。そのことを私の栄光、私の力、私の誇りではなく、神の栄光、神の力、神の誇りとするとき、聖霊によってあなたから溢れる現実です。
 神の国と神の義を求め続ける。イエス様を求め続ける。そこに聖霊が天のお父様によって満たされて、私たちがイエス様のかたちにされていく。これが求め続ける大切な意味です。
 そこでこの12節の言葉が現実のことになっていくのです。それが聖書の真理です。それが律法と預言者です。

 

結論 
 今日の結論は、この12節に真実に向かっていくために、求め続け、捜し続け、たたき続けるということです。それは、そもそもイエス様ご自身が私たちにしてくださったことでした。イエス様は「失われた人を捜して救うために来ました」と言われました。それはあなたを求め、捜し、あなたの心の戸をたたき続けてくださっていたということです。
 そのように、今度はあなたがその主を求めていく番です。
 私は、小さい頃にイエス様ってどんな方か知りたくてずっと興味を持って中学生までいました。途中、宣教師の家に英語を習いに行ったり、その家が私の親戚の叔父さんの貸家だったことを含めて、イエス様がずっと私の心の戸をノックしてくださっていたのです。高校生のときに洗礼を受けて初めてそのことに気がつきました。そして、今度は23歳のときに献身をするようにみことばが与えられて、ずっとそのために祈り、いつなのか、実際に神学校に入って伝道者になるのはいつなのか。まさに神の国とその義を求め続けていました。でもなかなか、それからが前に進めない。途中で挫折し、もうあのみことばは夢だったのか、私の思い込みだったのかと疑ったこともありました。何度も仕事を辞めたり、勤めていた会社が倒産したり、大きな事故があったり、家族が病気になったりして、私の主を求める心は段々と萎えていきました。
 ところが、今までで一番萎えていたときに、もう一度主から同じみことばが与えられて、もう死んでも良いと思う中で、あらためて主を求める心が与えられて49歳のときに、その道は開かれました。私がたたき続けてきた門が開いたのです。今思うと、それは確かに狭き門でした。でも、私にとって一番ぼろぼろなときに、主は道を示し、門を開かれる。それが主のタイミングだったということです。
 預言者エリヤは、カルメル山でバアルの預言者と勇敢に戦い勝利を収めました。しかし、そのエリヤは戦いに疲れ、イゼベルを恐れ、主よ、もう十分ですと、自分の死を願うほどに落ちぶれてしまいました。燃え尽きてしまいました。もう求める気持ちすら起きません。でもそれが現実の信仰生活ではないでしょうか。
 しかし、主はエリヤに声をかけられます。「エリヤよ。ここで何をしているのか」それは決して弱り果てているエリヤを叱る言葉ではありませんでした。やさしく、エリヤの心をノックする主の声でした。
 その主の声から、エリヤはまた預言者として立たされていきます。つまり、私たちの信仰生活は、当然、主を求め続けることが大切です。しかし、その中で挫折を経験し、もう自分からは信仰が出てこないのではないかというくらい落ちぶれることもあるのです。しかし、そういう時こそ、今度は主の方がやさしく求め、捜し、ノックしてくださる。その細きみ声を、私たちは聞いて、また主を求め、主を愛し、隣人を愛する歩みに立たせてくださるのです。
 どうか、今日、あなたも諦めないで主を求めてください。諦めないで捜してください。諦めないでたたき続けてください。必ず、その門は開かれます。そこに聖霊が注がれます。主と同じ姿に変えられていきます。もし、今、倒れているならば、今、やさしく語られている主のことばに耳を傾けてください。
そこから、またあなたの明日の一歩が始まります。信仰生活はその繰り返しの中で、確実に神の国へと向かっているからです。

 

祈り

 主よ。あなたを求めます。どうか私たちのうちに住んでください。聖霊で満たしてください。自分にしてもらいたいことを、ほかの人にもしてあげられるように造り替えてください。どうか絶えずイエス様を求め続けられるように導いてください。もし倒れたときには、主よ。どうか、多くの恐れや疲れや弱さでさえぎられている心に語ってください。心をやさしくノックしてください。あなたこそ私の神、救い主であることをわからせてください。
今週も愛する兄弟姉妹をあなたのご支配とあなたの義で満たしてください。今日、来られなかった愛する方々の上にもあなたの平安と恵みが豊かにありますように。私たちの主イエス様のお名前で祈ります。