のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

◎ 「岩の上に家を建てた人」 マタイの福音書7章24~29節

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序論
 今日の箇所をもって、このマタイの福音書からの説教を一度終わりにします。その理由は、今日の箇所で「山上の教え」が終わり、イエス様が山から下りられるからです。
 そういう意味でも、今日の箇所はこれまで語られてきた教えの結論部分であると言えます。先週も結論だと言いました。それは、先週の箇所と今日の箇所は当然繋がっているからです。
 山上の教えは非常に豊かな教えが述べられている箇所です。だから、短く区切って読むこともできます。でも本来イエス様は、たくさんある色々な教えを、まとまりなく語っていたのではありません。また、この福音書を書いた使徒マタイも、何のテーマもなく思いついたことを記してはいません。特に、5章から7章にわたって語られた、この山上の教えは筋が通っています。それは、天の御国にふさわしい人とはだれかということと、その天の御国の国民に選ばれた人はどのように生きるのかということが、はじめから終わりまで通して語られてきたからです。
 ですから、今日、私たちもイエス様の弟子であるならば、その結論に耳を傾けたいと思うのです。また、まだイエス様を信じる決心がついていない方も、今、あなたが生きている意味がここにあるということを知っていただきたいと思います。

 

1. 聞いて行う
 ではもう一度24~25節を読みましょう。
「だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。」
 私たちは、イエス様のことばを行っている人でしょうか。そうなら賢いとイエス様は言われています。
 イエス様は、この「だから」という言葉から、これまで語ってきたことを受けて仰っていることがわかります。文脈上、13節の「狭き門から入れ」からのお話だという読み方もできます。当然それはあるでしょう。でも、それだけではなく、イエス様が5章3節から語られてきたこと全てをもって「だから」だということもできます。それは次のイエス様のことばにも表されています。
エス様は言われました。
「わたしのこれらのことばを」
 このフレーズは26節でも全く同じように使われています。「このことば」とは言わずに、「これらのことば」と言われていることが大切です。またそれだけでなく、このイエス様の教えを記録したマタイ自身が、28節でこう言います。
「イエスが『これらのことば』を語り終えると」
 マタイはあえて、イエス様が語られた「これらのことば」と同じフレーズを用いて、「これらのことばを語り終えると」と言っているのです。どんな話を語り終えたのか。それは、狭き門の話だけでなく、5章から続いている山上の教え全体ということになります。
 ですから、この「だから」はこれまで仰ってきた全てのお話の結論だと言えるのです。そこで、最後にイエス様が仰っていることは何か。それが「わたしのこれらのことばを聞いて行う」ことだということです。大切なのは、「イエス様のことばを聞いて行う」ことなのです。
 ここに天の御国に選ばれた者の本当の生き方があります。神様の恵みによって、天の御国に入れられた私たちは、イエス様のことばを聞いて行う。これが恵みとして与えられているということです。それは義務のような、そうしなければならないことではありません。もし、そうならそれはまだシナイ山で与えられた十戒の律法の枠の中にいます。でも、イエス様が語られたのは、イエス様のことばを聞いて行える自由がそこにあるという喜びなのです。
 どうして、そんな喜びがあるのか。それが先週から言っているように、見出すものはまれであるはずの狭い門なのに、そこを通らされていることがどれだけ素晴らしいことか。こんな罪深い私をただで通してくださった、赦してくださった。そのことを恵みとして感謝するか。当たり前とするかが問われているということです。
 もし恵みに押出され、感謝に溢れて、イエス様のことばを行うならば、その人が岩の上に家を建てた人に比べられる。ここでようやく岩の上に家を建てた人が出てきます。この比較で面白いなと思うのは、イエス様の「ことばを聞いて行う」は現在形なのに、「岩の上に家を建てた」というのは過去形だということです。イエス様のことばを「行った者」ではなく「行う者」がということ。それは原語のギリシャ語の現在形には継続の意味も含んでいますので、「行い続ける者」が「岩の上に家を建てた人」だということです。しかも、まだ行うことが継続中でありながら「建てた」と言い切っているところが絶妙です。
 どうして、もう建てたと言っているのか。しかも言い切っていても完了形ではないのです。それは神の国の特徴がそこに現われているからだと言えます。現在、この世界に神の国は来ているけれども完成していない。でも、そこに置かれている以上、どんなことがあっても倒れない。それは、もう建てられているから。一見矛盾のように見えますが、そうではない。神の国は確かにイエス様の降誕とともに来ている。それと同時に、もう一度来られるイエス様の再臨によって確立するのです。
 同時に、私たち個人もイエス様を信じたならば、私たちのからだは神の国となります。イエス様も言われました。「神の国はあなたがたのただ中にある」と。ですから、みことばを行い続けることイコールどんなことがあっても倒れない、流されないと言う事ができるのです。それは、岩なるキリストにしっかり繋がったからです。
 ここで洪水とか風が吹くとかがあるというのは、この地上におけるクリスチャンたちの生き方を言っています。まだ完全なかたちでの神の国が来ていないので、洪水のような、嵐のような試練が訪れるということです。その試練の中でも、みことばを行おうとするならば、それはキリストに土台を下ろしていることなので動じることはありません。それは岩なるキリストに根を下ろしているからこそ、そのことばを行うことができるからです。
 でも、どうしても、みことばを行いなさいと言われると、私は緊張します。それは、そうしたいけど無理だなと思うからです。でも、イエス様は、そんなこと百も承知で言われているのです。だから思い上がらないで、心を貧しくして、弱さを認め、罪を告白し悔い改める。そうすることで狭い門から入ることができます。
 だからいつもイエス様に繋がっていないと駄目です。イエス様に根を下ろして、キリストに根ざして歩まないと力をいただけないのです。これが今年の白石教会の道標聖句です。
 皆さんは、どうでしょうか。喜んでイエス様のことばを行う者とされているでしょうか。

 

2. 聞いても行わない
 ここで、もう一つの選択もあるとイエス様は言われます。それが26~27節。
「また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」
 もう一つの選択は、イエス様の「これらのことばを聞いて行わない」という自由です。先ほどの行う者との違いは「行うか」「行わないか」です。しかし、共通点はあります。何でしょうか。それは、ともに「聞いて」いるということです。同じイエス様の言葉を聞いている。ここまでは同じです。しかし、ここが重要です。
 なぜならば、信仰は聞くことから始まるからです。先週の金子先生のメッセージで「信仰は聞くことからはじまる。聞くことはキリストについてのみことばによる」とお聞きしました。まさに、みことばを聞くことは大切なことです。
 私たちもいつもみことばを聴いています。これは恵みです。なぜなら、この神のさばきが秒読み状態の中で、福音を聞くことが許されているからです。今は恵みの時、今は救いの日であるとパウロは言っていますが、まさに恵みのゆえに今このように礼拝をささげ、日々聖書をとおして神の御心を知ることが許されているのです。その状況をまず理解するならば、このみことばを聞くということ自体が驚くばかりの恵みであることに気がつくはずです。だから、ここで聞いて行わないという選択はしないはずなのです。主の民とされた恵みに圧倒されて、黙ってはいられない。恵みに応えたい。これが福音に生きる神の国に入れられた者の姿です。
 しかし、この26節にあるように「聞いてそれを行わない」方を選ぶときに、ひどい倒れ方を味わうことになるのです。それは同時に神様のご支配を拒否するということだからです。
 27節の言葉は25節とほぼ同じ言葉です。違うところは26節で否定形であることだけです。起こっている災難は同じものです。つまり、みことばを行う者も行わない者も、この世にあってはどっちが特別に災難に遭うとか遭わないということはなくて、どちらも不幸もあれば良い事もあるのです。しかし、大事なことは何でしょうか。
 どこに根を下ろしているかで、まったくその後の様子が違うということです。キリストに繋がっているなら、その災難の責任は主が負ってくださるでしょう。しかも、その災難は試練として、私たちの霊的な訓練として用いられるのです。しかし、主に繋がることを拒否するならば、そこに神様は介入できないのです。それは、聞いて行おうとしない私たちの意思に問題があるからです。そうすると災難は災難でしかなく、不幸は不幸で終わってしまうのです。倒れ方が酷かったというのは、そういうことです。この地にもたらされた罪の呪いを呪いとしてまともに受けてしまう。それは神がそうしたのではなく、人間が神の恵みを拒否して、自分の自由意志で選んだ結果です。
 神様の祝福への招きは続いています。どんな不幸をも恵みに変えることができるお方である天の父に立ち返ることを願って、その狭き門は今も開いているのです。そこからどうするかという恵みのボールは、今あなたに投げられています。あなたはそのボールを受け止めて素直に投げ返すでしょうか。それとも無視するでしょうか。いや、せっかく受け取っているにも関わらず捨てますか。
 
3. 権威あるお方のことば
 最後に山上の教えを締めくくるにあたって、福音書記者マタイは、このように書き残しています。28~29節
「イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。というのは、イエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。」
 イエス様の教えに群衆は驚きました。それは律法学者たちのようではなく、権威ある者のように教えていたからでした。当時の律法学者たちの教え方は、自分の信仰の確信に立って語るものではなく、権威ある先輩たちの注解を参考にした解説に過ぎませんでした。しかし、イエス様はご自身の権威によって聖霊によってことばを語りました。それを完全な神として語り、また完全な人として語りました。みことばを注解書頼みの理解ではなく聖霊の導きの中で得た確信の中で語るということです。それは現在も説教者たちに受け継がれています。私も注解書から学ぶことも多いですが、注解書によって解説はしません。礼拝は、神学の研究発表の場ではありません。むしろ、聖書から聖霊の導きの中で得た感動と確信と理解の中で語っています。注解書は自分の理解や解釈が大きく外れていないか確認するために使う参考書です。今は、聖霊が注がれていますから、聖霊の導きによって語ることを前提として備えています。それはディボーションも同じです。聖書から浮き上がってくる主のみことばを読み、そこで教えられていることを思いめぐらします。解説書や注解書は、あとで読んで自分の思いの足りないところを補い、さらにみことばを味わいます。
 イエス様も神の御子として完全な人として権威ある者のように教えました。「これらのことば」が権威ある者として語られたということです。そのみことばはこのあと使徒たちによって使徒の教えとして受け継がれていきます。初代教会には使徒預言者という、現代の教会にはいない役目の人達が主の啓示を受けて権威あるものとして語りました。では、どうして、今、使徒預言者がいないのでしょうか。それは最後の啓示である新約聖書が完成し、旧新約聖書66巻が権威ある神のことばとして確立したからです。だから、今は牧師など教える賜物が与えられた兄弟姉妹が聖書から聖霊に導かれて「これらのことば」を教える務めがあります。それは、聖書の主の権威によって、誤まりなき神のことばとして伝え、主の群れを正しく導き、養う責任があるからです。

 

結論
 私たちは5ヶ月かかって、この山上の教えを聞いてきました。でも当時イエス様のお話はおそらく1時間以内で終わったと思われます。先日、マタイの福音書5章から7章までを少しゆっくりめで読んだら何分になるか計算しました。何分になったでしょう。それは約30分でした。単純計算で30分で終わるお話を区切って5ヶ月もかけて読むので、皆さんも疲れたでしょう。
 でも「これらのことば」をまず聞くこと。つまり聞き続けることは大切なことです。イエス様の教えは聞いた人が、そのことばに動かされてみことばを行う者とされていきます。その繰り返しの中で信仰生活は進んでいきます。
 山上の教えは、まず罪を悔い改めてへりくだる者が天の御国に相応しいと始まりました。その結びは、イエスのこれらのことばに従いなさいということでした。つまり、イエス様は、へりくだらされ続ける大切さと、従順にみことばを行う者とされていく恵みの階段を上って行く祝福を説いているのです。行いによって義とされるのではありません。既に与えられている恵みを受け取って、その恵みに感謝をもって答えていく歩み。これがクリスチャンだということです。
 信仰生活は神様とのキャッチボールです。神様がいつも投げてこられる赦しという恵みのボールを受け止めて、素直に感謝というボールで投げ返す。でも、ときどき、かっこつけて高ぶってカーブとかフォークボールが投げたくなります。そこで失敗します。神様には届きません。それでも、その失敗したボールをイエス様が拾いに行ってくださり、神様に私たちの代わりに投げ返してくださる。そしてまた、神様はいつものように私たちの胸にめがけて正確に恵みを投げ込んでくださる。その繰り返しです。
 もし、感謝が湧かないのであれば、もっと神様のきよさに触れる必要があります。そうすれば、おのずと自分の罪深さ、醜さがあらわにされます。こんな罪深い私のためにイエス様が犠牲になった。そこに感動を覚えるはずです。もし、感動を覚えず、はっきりと確信をもてないならば、求めてください。捜してください。たたいてください。そうすれば聖霊が注がれます。聖霊に満たされるならば、主イエスの心を我が心として歩むことが出来ます。その歩みを続けようとするならば、行おうとし続けるならば、もうあなたの中に神の国が建てられたとイエス様は権威をもって宣言します。
 あなたと言う家は、今どこに建っていますか。何を土台にしていますか。ぜひ、今週も権威ある主のことばに聞いて、聖霊の助けを受けながら、喜んで行う者として立ち上がっていきたいと思います。

 

祈り
恵み深い天の父なる神様。今朝もみことばを与えてくださり感謝します。マタイの福音書として半年、山上の教えとして5ヶ月間みことばに聞くことを許してくださりありがとうございます。今日で一度、マタイの福音書を離れますが、どうかイエス様がガリラヤの漁師たちに語られ、弟子とされてあなたのみことばを聞いて行う者とされたように、私たちをもつくりかえてください。どうか、日々「これらのことば」であるイエス様のことば。神のことばである聖書から日々お語りください。その権威ある御声を私たちがまずよく聞くことができるように導いてください。そして、聞いたならば喜んで行い続ける者とならせてください。どうか主がもう一度来られて御国が完成するまで、揺るがないあなたにしっかりと繋がっていられるように守ってください。
都合で今日集えなかった兄弟姉妹の上にも特別にあなたからのお恵みがありますようにお願いいたします。礼拝を感謝して貴い主イエス様の御名によって祈ります。