"天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。
ただし、その日、その時がいつなのかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。
人の子の到来はノアの日と同じように実現するのです。
洪水前の日々にはノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていました。
洪水が来て、すべての人をさらってしまうまで、彼らには分かりませんでした。人の子の到来もそのように実現するのです。"
旧約聖書の時代、イスラエルの王であるメシア(油注がれた者=キリスト)が来られ、イスラエルを救い世界を支配するという預言が度々ありました。
その預言はイスラエルにとって希望であり、信仰の中心的テーマとなっていきました。
イエス様は、まさにそのメシアとしてこの地上に来られ、この地に救いをもたらすためにユダヤのベツレヘムでお生まれになり、ガリラヤのナザレで育ち、エジプトで総理大臣となったヨセフ、またはイスラエル王国で王国となったダビデのように、30歳で宣教を開始されたのでした。
イエス様を信じる弟子たちをはじめ、多くのユダヤ人がぞろぞろ付いて来ていたのは、病の癒しのため、教えを聞くためであると同時に、あのダビデ王のように、イスラエルを圧政から救い出してくれることを期待していたからだったのです。
つまり、イエス様が一度の来臨の中で、しかも政治的な王として強い軍事力によって、直ぐに事が動くものと期待していたのです。
ところが、イエス様が仰せられたのは、この地上に終わりが来て、それから人の子つまりメシアであるご自分がもう一度来られるということでした。
その世の終わりが必ず来る。この地上は必ず滅びる。だから、私たちにどうしなさいと言われているのでしょうか。それは、滅びることのないわたし(イエス)のことばを信じるということです。
この世は滅びるのにこの世のものに執着してはいけません。それはいずれなくなるものですから。そうなる前に大切なことは、なくならないものを見出し、なくならないことのために早めに働くことなのです。
"なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。それは、人の子が与える食べ物です。この人の子に、神である父が証印を押されたのです。」
すると、彼らはイエスに言った。「神のわざを行うためには、何をすべきでしょうか。」
イエスは答えられた。「神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざです。」"
ヨハネの福音書 6章27~29節
その永遠になくならないものこそ、主のみことばであるし、主ご自身であるということなのです。
主は一度来られましたが、それは、罪人を悔い改めさせて、その赦しのために流された十字架の血潮によって救い、神を愛し隣人を愛する者に造り変え、獲得するためでした。
だから、イエス様のことをダビデ王のようにと期待していた人々にとっては、イエス様は期待外れでした。
しかし、それが神様の救いのプランだったのです。だからこそ、もう一度来られるのです。それがあのノアの箱船の時のように、突然、みんなが主のことばを忘れて、この世のことに執着している時、つまり「食べたり飲んだり、めとったり嫁いだり」しているときに来るのです。
私たちは、主の憐れみによって、主のみことばである聖書を通して、既にノアのときがどうであったのかが知らされています。それは、主の時まで、どのようにこの世を歩んだら良いのかがわかるということです。
今日、私たちはあらためて、主がもう一度来られることをみことばを通して学びました。主の再臨のときは、いつかは誰も知りません。しかし、だからこそ、この天地、この世の価値観のように滅び去ってしまうものではなく、永遠に滅びることのない、私たちが命を賭して信じても良い価値ある主のみことばに聴いていきたいと思うのです。
それは、その延長線上に主の再臨があるからです。大切なことは、いつも霊の目を開いて、「目を覚まして」私たちのためにいのちを捨ててくださり、もう一度、迎えに来てくださる主を愛するということ。その慕わしいことばに聴いていくことではないでしょうか。
"ですから、目を覚ましていなさい。あなたがたの主が来られるのがいつの日なのか、あなたがたは知らないのですから。"マタイの福音書 24章42節