のりさん牧師のブログ

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◎「キリスト者が武器を取ることは」マタイの福音書 26章47~56節

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"イエスがまだ話しておられるうちに、見よ、十二人の一人のユダがやって来た。祭司長たちや民の長老たちから差し向けられ、剣や棒を手にした大勢の群衆も一緒であった。
エスを裏切ろうとしていた者は彼らと合図を決め、「私が口づけをするのが、その人だ。その人を捕まえるのだ」と言っておいた。
それで彼はすぐにイエスに近づき、「先生、こんばんは」と言って口づけした。
エスは彼に「友よ、あなたがしようとしていることをしなさい」と言われた。そのとき人々は近寄り、イエスに手をかけて捕らえた。
すると、イエスと一緒にいた者たちの一人が、見よ、手を伸ばして剣を抜き、大祭司のしもべに切りかかり、その耳を切り落とした。
そのとき、イエスは彼に言われた。「剣をもとに収めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。
それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今すぐわたしの配下に置いていただくことが、できないと思うのですか。
しかし、それでは、こうならなければならないと書いてある聖書が、どのようにして成就するのでしょう。」
また、そのとき群衆に言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしを捕らえに来たのですか。わたしは毎日、宮で座って教えていたのに、あなたがたはわたしを捕らえませんでした。
しかし、このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書が成就するためです。」そのとき、弟子たちはみなイエスを見捨てて逃げてしまった。"

 


Ⅰ. 序 論

 私がキリスト者になってから持っていた疑問は、キリスト者が戦争をすることが正しいことなのかということである。それは歴史的に見ても、実に多くの戦争にキリスト教国と言われる国々が関わっ
ていることがわかるからである。また、教会外の方々の声として、宗教があるから戦争があると言うことを聞くことがある 。しかもキリスト教国が中心となって戦争を起こしているという非難である。つまりキリスト者が戦争を起こしているという意味である。人間の歴史は戦争の歴史であり、そこに宗教が必ず関与している。特に聖書の歴史も人と人の争い、戦争を避けて説明することはできない。
  そこで、その最小単位であるキリスト者個人が武器を取ることに注目しようと思った。それは、究極的には、集団を構成する個人として武装するところから戦争が起こるとも言えるからである。
聖書は、キリスト者が武器を取ることを何と見ているのか。聖書はキリスト者が武器を取ることについて、どのような答えを持っているのかという問いをもって、イエスが語られたことばからそのことを調べたいと思わせられた。
  それで、マタイの福音書26章52節に記されている「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます」に着目し、そこから浮かび上がるものを調べ、このイエスのことばを書き残して、著者は何を言いたかったのか、イエスご自身は何を伝えようとされたのかを深く調べたいと思い、テーマとして選んだ。 

 

Ⅱ. 研究の前提
 私は聖書66巻すべてが、神の霊感によって記された、誤りのない神のことばであると信じる。またマタイの福音書の著者については、増田は歴史的な伝承として、また内的外的証拠等からマタイが著者であるという可能性を支持し 、エトキンソン も山口も同様にマタイの可能性を支持している 。ゆえに、この前提に立って本論文の執筆を進めるものとする。なお、文中の日本語訳聖書の引用は基本的に新改訳聖書第三版を用いる。

 

Ⅲ. 研究の目的と範囲
 本論文の目的は、マタイの福音書26章52節からキリスト者が武器を取ることについて、その意味を明らかにすることである。「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます」という言葉は、聖書を見渡しても黙示録を除いて、このマタイの福音書でしか見出せない 。いったい聖書は何と言っているのか。これを語ったイエスの真意は何か、また著者がこのことばを書き残した理由は何か。 
この箇所については、キリスト教会もキリスト者も立場によって見解が大きく異なっており 、意見の対立という現実を見るときに、果たしてこれで良いのかと疑問が湧いてくる。
以上の問いから、本論文を通して、キリスト者が武器を取ることの意味と理由について考えたい。もちろん必要と思われる部分は旧約聖書からも取り上げたいが、新約聖書の光に当てつつ必要最小限度にとどめたい。旧約聖書の聖絶等についても掘り下げるなら、本論文において収めきることができないことが明らかだからである。かえって旧約聖書の成就としてのメシアであるイエスが語られ、イエスが望んでいるキリスト者のあり方について学びたい。ひいては現代を生きる私たちキリスト者が武器を取って戦争すること。戦闘に参加することをどのように考え、どのように行動すべきなのかという問題にも光が当てられ、混沌とした世界にあって、今後の教会の果たすべき役割について少しでも実践に繋がる答えを見出し、このような取り組みを通して私たちキリスト者が日々キリストに似る者とされていくことをより深く味わいたい。

 

 

 

 本 論

Ⅰ.翻訳比較
マタイ26:52のギリシャ語本文と日本語訳・英語訳を比較し、問題の所在を明らかにする。マタイ26:52のギリシャ語本文と、おもな日本語訳聖書と英語訳は巻末資料1の通りである。

 

Ⅰ-1. 翻訳比較の結果
ギリシャ
 UBS 5版とネストレ28版を比較したが、本論文の釈義上問題となるような箇所は見当たらなかった。
 
②日本語訳
各日本語翻訳を比較したが、際立って翻訳上、問題とされるような箇所は見当たらなかった。しかし、「剣」を納める場所について、新共同訳が「さや」と訳出しているが、他の日本語訳では「もとの所」などもともとあったところに戻せと言う意味だけで、それがどこなのかを確定していない。しかし並行箇所ヨハネ18:11を見ると「剣」を納めたのがθήκη(さや)であることが示されているため、新共同訳の翻訳において「さや」と確定したことが推定できる。UBS5版もネストレ28版も「さや」を意味するθήκηは使用していないため、これは新共同訳の意訳であることがわかる。
 また新改訳と新共同訳の「納めなさい」に対して、口語訳は平仮名で「おさめなさい」と訳し、フランシスコ会訳と詳訳聖書では別な漢字の「収めなさい」と訳されている。発音はすべて「おさめなさい」であるが「収納」という言葉があるように剣や刀を「おさめる」場合、基本的に「納」と「収」のどちらでも同じ意味で使用することができるため、この程度の訳の違いによって、意味を大きく変えさせるようなことはないと考えられる。
ゆえに日本語訳においても、釈義上問題となるような箇所は見当たらなかった。

 

③英語訳
 英語訳はNIVだけが主文“Put your sword back in its place,”が先行しているが意味において大きな違いはない。またNIVは「滅びる」(ἀπολοῦνται)に対して「死ぬ」“die”を使用しているが、他の英語訳は「滅びる」“perish”を使用している。
原語ἀπολοῦνται についての考察は文法解析において行うため、英語訳の翻訳比較での分析はここまでとする。

 

Ⅱ. 本文批評
UBS5版とネストレ27版を比較すると、UBS5版はαὐτῆςの後ろに「·」がつくが、ネストレ27版では「,」がついている。しかしネストレ28版ではUBS5版と同様に「·」に変更されている。
以上のことから、本テキストに異本がないと判断する。よってUBS5版をマタイ26:52の本文と確定し、このまま釈義を進めるものとする。

 

Ⅲ.問題の提示
Ⅲ-1. 「剣」μάχαιρα の語彙研究
 聖書本文から「剣」μάχαιρα について考察するにあたり、まず「剣」の聖書的語彙について調べ考えたい。
 新約聖書における「剣」μάχαιρα は、26箇所の節で29回使用されている 。中でも13例は福音書のイエスの逮捕の場面に集中している。それは常に一般的な刃物を意味しており、特に調理器具と言うよりは武器としての意味合いの方が強い 。
新約聖書ではもう一つῥομφαία という「剣」を意味する単語が用いられているがῥομφαία は新約聖書中7回しか使用されておらず、ルカ2:35で一回と黙示録で6回 である。岩隈によればῥομφαία は、トラキヤ人等の用いた幅広く長い大剣のことを言い、一般的にはμάχαιρα と同様に剣であるとする 。ルカにおいては、イエス誕生後、エルサレム神殿にいたシメオンがイエスの母マリアに告げた預言の中で一度使用しているが、イエスの受難について「剣」という言葉で表現している。また黙示録においても、イエスの口から出ている両刃の剣として、抽象的な描写で用いている。
以上のように、ῥομφαία はμάχαιρα に比べて形状が大きく特殊なイメージで語られているが、いずれにしても、本テキストで使用されているμάχαιρα との劇的な差異がないことを認め、μάχαιρα を中心に検証を進める。
さて、μάχαιρα を構成しているμάχη は「争い」を意味する名詞だが、E.Plumacherは、μάχη の動詞形であるμάχοηαι (争う)から派生した語ではないとしている 。しかし、聖書で「剣」は、実際的な戦争における武器として400回以上も言及しているほかに、象徴的な意味で、戦争、争い、苦痛、暴力、武器全般などを表現するために用いられている 。書簡においては、「神のことば」を鋭い剣に喩えている 。
以上の結果から、新約聖書において剣μάχαιρα は一般的な刃物としての意味だけではなく、戦い、争いに使われる道具としての武器、またそれを用いて行われるところの戦いや争いなどの象徴的表現としても用いられていることがわかる。

Ⅲ-2. ペリコーペ分析
 次にペリコーペ分析によって他の福音書と比較し、マタイの文脈で語られている意味を深めていきたい。

 

①マルコ14:43  
 この箇所はマタイ26:47と並行している。ここではイエスを逮捕しに来た群衆が持参していたものとして「剣や棒」が挙げられている。この「剣や棒」という言葉は慣用句のようにマタイ26:55でもイエスによって使用されている 。
 「剣や棒」という言葉は、この場面では集団での暴力的な威圧感を表す道具として、丸腰のイエスとのコントラストを生んでいると推察できる。マタイ26:55のイエスの言葉としての「剣や棒」も、共観福音書記者たちは、口を揃えるように「まるで強盗にでも向かうように」とまったく同じ言葉でその対比を強調していると考えられる 。
 
②ルカ22:36~38
この場面は、本テキストの場面の直前である最後の晩餐後の出来事であるが、イエスは着物を売って剣を用意するように言われ、しかも弟子たちが剣を二振り 用意したことが書かれている。このやり取りだけを見ていると、イエスが剣を用意させており、しかもイエスは彼らの剣の準備に対して「それで十分」と答えられ、武器を準備しておくことの必要をイエスが認めていたということだけではなく、むしろ指示していたように見える。
 それを受けて、弟子が師であるイエスの逮捕に際し、その準備した武器を使用することは一般論的には理に適っていると言える。ところがイエスはその剣を納めるように弟子に命じ、しかも「剣を取る者はみな剣で滅びます」と言って剣を用いること自体を否定することばを告げられたのは、それまでの発言と矛盾しているように見える。
 このことについて宮村は、それは「神の恵みの力による霊的武具 、特に祈りの備え 」であると解釈している 。また、遠藤は、「弟子たちに、剣を抜かせないことを、学ばせるための剣であった」と言い、目の前の問題や危険に対して、剣ではなく祈り以外に方法はないと言う意味で解説している 。また石川も、この一文だけで、イエス武装を奨励し好戦性を示唆すると考えるには無理があるとしている 。

 

ヨハネ18:10~11
 一方ヨハネでは、並行箇所において、この群衆がどういう人たちなのかが明らかにされている。また剣や棒もὅπλων「武器(複数形)」という言葉によってまとめられている。それはすなわち、剣や棒が「武器」であるという説明になっている 。
 共観福音書では、弟子のうちの一人であることは語られていてもヨハネだけが、実際に剣を振るったのが誰であるかを記録して、イエスが逮捕される場面を共観福音書とは違う角度で伝えている。イエスがユダに裏切られ、イエスを捕まえるために多くの群衆が剣や棒を持って集まって来たとき、近づいた大祭司のしもべに向かってシモン・ペテロが剣を抜き、耳を切り落とす。しかも、ペテロが耳を切り落としたことは、このあとペテロの否認の場面でも触れられていることは興味深い 。
 また共観福音書ではペテロが抜いた剣は「もとに納めなさい」とイエスに命じられたと伝えているが、ヨハネでは「さや(θήκη)に収めなさい」という言葉を伝えており、ペテロが剣を鞘に入れて所持していたことが明らかにされている。

 

Ⅲ-2-1. 小結論
 本テキストの並行箇所を見ると、マタイとマルコは、ほぼ同じ内容を記しているのに対し、ルカ、ヨハネは違った角度からこの場面を描いている。特に、ヨハネによれば剣を取った弟子はペテロである ことがわかり、ルカによれば剣で打とうと思ったのはペテロだけではなく、イエスの周りにいた弟子たちもそうであったということがわかり 、またペテロによって耳を切られた大祭司のしもべがイエスによって癒されたことがルカにより明らかにされている 。
 イエスご自身は、弟子たちに剣を用意させた。しかし、それは弟子に武装させ世の権力との戦闘を指示したのではなく、どのような理由であれ、剣を取ることが滅びをもたらすものであることを教育するためであったと推察できる。

 

Ⅲ-3. 文脈の検討
 マタイの福音書26章52節の内容を考察する前に、マタイの福音書の背景を理解し、26章が書かれた意味を知っておく必要がある。そのため、ここではマタイの福音書の緒論的なこととその中での26章の意味を簡潔に整理する。

Ⅲ-3-1. マタイの福音書の目的と特徴
 マタイの福音書の執筆目的について、マタイ全体として伝えようとしている、その内容の特徴を以下の三つにまとめる。

 

(1)イエスが誰であるかを明らかにすることが挙げられる。神の国の訪れを告げ知らせ、病人・身体障害者を癒し、悪霊を追い出し、ガリラヤ各地を巡って、その後エルサレムで逮捕され十字架によって処刑され、三日目によみがえったイエスが、旧約聖書によって示されてきたキリストであり、旧約聖書の成就のために来た方であることを証ししようとしていると読み取ることができる 。このことは、旧約聖書からの引用や数多くの言及からわかる。

 

(2)内田によれば、マタイの福音書はイエスの教えを数多く収め、説教を5つにまとめているということである。それによって、イエスの弟子たちは、すでに来た神の国の現実の中でどのように生きるべきかを学ぶ ということである。

 

(3)律法主義的ユダヤ教の敬虔との対比において説明されている。イエスがもたらすものはユダヤ教の一派ではなく、むしろイスラエルに代わる新しい神の国の建設とその国民を生み出すことである 。

Ⅲ-3-2. アウトライン分析
 マタイの福音書全体からアウトラインを分析する。前述の内田の解説を参考に巻末資料7を考察すると、神の国の到来とマタイの福音書は深く関係しており、イエスダビデ王家の末裔であって、マタイが繰り返し記す「天の御国」(βασιλεία τῶν οὐρανῶν)
の王(メシア=油注がれた者)として表されていると言われていることが明確にされていく。ゆえに神の国の王として来られたイエスのことばと行動に注目し、そのことを念頭に置いて著者マタイが本テキストにおいて何を伝えようとしているのかを「剣」(μάχαιρα)が使用されている以下の5ヵ所から検討する。

 

① マタイ10章(34節)
 マタイがまず最初に「剣」(μάχαιρα)を使用している10:34に注目する。
 34節は、38節の「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません」と言われたイエスに対する献身を促す段落の一部である。イエスはここで剣をもたらすために来たと言っているが、文脈から考察すると「平和」との対句として用いられているため、刃物としての剣を直接的に言っているのではないと考えられる。前後の文脈から鑑みても34節の剣は、イエスに弟子として従おうとするときに起こる軋轢について言っていると推察できる。その軋轢が、ルカが言うように分裂であろうし、戦争、争い、苦痛、暴力という意味での剣であるとも言えるのではないだろうか 。
 フランスは、イエスがもたらす「剣」とは、ここでは軍事的な衝突ではなく35~36節が示しているように、社会の激しい分裂であると言っている 。
 確かに、並行箇所であるルカ12:51によれば剣ではなく「分裂」であると明らかにされている。つまり「平和」に対する「分裂」という意味で婉曲的に「剣」を用いているのである。しかし、ルカがそのように説明しているのに、なぜマタイは「剣」と記録したのか。もし「分裂」という意味で良ければ、ルカと同様に比喩を用いずに「分裂」と記しても良かったはずである。しかし、あえて「剣」としたところに、次に「剣」が使用されている箇所との関係性、連続性に意味を持たせていると考えることができるのではないだろうか 。つまり、弟子たちはイエスに従う歩みの中で起こる「剣」を経験し、自分の十字架を負ってイエスについて行くことができたのか。イエスに従うことでもたらされる剣に対してどうだったのかが問われてくると考えられる。
 以下②の箇所との関連性の分析については、「Ⅴ.マタイ10章と26章の関連性の分析」(p.26)において行う。
 
② マタイ26章(47、51、52、55節)
 マタイが次に「剣」を記録しているのはイエスの逮捕の場面に集中している。10:34の「剣」を念頭に文脈を追ってみると、イエスの存在によって「剣や棒」を持った群衆が押し寄せたことに目が留まる。マタイ26:47~55は、福音書では「ゲツセマネの祈り」から「イエスの裁判」。そして「十字架刑」に繋がる場面である。
 この直前までイエスは、三人の弟子 を連れてゲツセマネの園で祈っておられた。そうこうしているうちにイエスを裏切ったユダが大勢の群衆とともにやって来た。このとき群衆は手に剣や棒を持っていた 。人数は600人ほどであったと言われている 。その威圧的な群衆にイエスの逮捕を命じていたのはサンヘドリンを構成していた祭司長たち、民の長老たちであった 。つまり、彼らが持っていた剣や棒は為政者側の権威の下に所持していたということができる。これらの群衆がイエスを逮捕するための案内役をイスカリオテのユダが務めていた 。
このユダのイエスに対する口づけが打ち合わせどおり合図となり、群衆が来てイエスに手をかけて捕らえた 。ここで弟子の一人が剣を取り大祭司のしもべに切りかかりその耳を切り落とした。そこでイエスは言われる。「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。」そして、そのあとの言葉 により、この場面で剣を持って反撃するべきではない理由が示される。
エスは、彼らの武器に対抗するだけであれば、神に祈願し、ローマ帝国の大軍にまさる天の御使いを配下に置き、それを撃ち滅ぼす力を持っていることを明言した。しかし、その力をあえて用いない道を選択したのである。その理由の一つとして旧約聖書の預言成就のためであることがイエスの言葉からわかる。それは、イエスは神の計画を実行しなければならなかった。それは、このまま捕えられて十字架に架けられることを意味していると考えられる。ゆえに、ここで剣をもって抵抗し十字架を遠ざけようとすることは避けなければならないということではないだろうか。そういう意味で、ここで剣を振るうことは、聖書の預言の成就に逆らうという意味において相応しくないと考えられる 。そのあと弟子たちはイエスを見捨てて皆逃げてしまった 。

 

Ⅲ-3-3.小結論
 以上のようにマタイの福音書は、過去との関係を旧約聖書との連続性とユダヤ教との非連続性というかたちで明らかにし、同時に将来に向って形成されていく教会という展望を示しており、それが天の御国の到来とメシアであるイエスによって旧約聖書の預言が成就されるという観点から見ると、以下のように区分することができる 。
・1~4章11節:ダビデ王家から生まれたメシア
・4章12~15章20節:御国の到来~招き~真実~世の現実
・15章21節~20章34節:御国への備え~目指すは十字架
・21章1~25章46節:御国の開始~メシア入城~終末の預言
・26章1~28:20節:御国の完成を目指して~イエスの逮捕・裁判・十字架・死・復活・昇天
 マタイの福音書における26章の役割としてわかることは、イエス旧約聖書で預言されていたメシアである数々の証拠の中で、イエスの弟子たちを含めて、当時の多くのユダヤ人たちがそうであったように、ダビデのような地上における政治的、この世的な王とは全く異なった姿のメシアとしてイエスが現わされたということである。つまり、この世の価値基準では到底受け入れられない王の姿である。この視点が本テキストを読み解くときにも必要であると思われる。

 

Ⅲ-4. 問題の提示のまとめ
 以上「Ⅲ-1」~「Ⅲ-3」へと検討を進めてきた結果、問題点が明確になったので以下の三つにまとめた。
(1)イエスがここで剣を取ることをやめさせた他の理由は何か。
(2)イエスの弟子が防衛のために武器を使用することは正当であったのかどうか。
(3)本テキストとマタイ10:34とはどんな関連性があるか。

Ⅳ.  マタイ26:52の文法分析
以上の提示された問題の答えを読み解くために、イエスが語られた26:52の文法的な分析を行う。

 

Ⅳ-1. マタイ26:52の各単語のパースと図解分析
 ギリシャ語本文の単語の意味や構造をわかりやすくするために、パース と図解分析 を行う。マタイ26:52における主文は、ἀπόστρεψον τὴν μάχαιράν σου εἰς τὸν τόπον αὐτῆς·[剣をもとに納めなさい]であり、その理由としてπάντες γὰρ οἱ λαβόντες μάχαιραν ἐν μαχαίρῃ ἀπολοῦνται.[剣を取る者はみな剣で滅びます]が語られている。その主文と従属文を接続しているのが接続詞γὰρである。

 

Ⅳ-2. マタイ26:52の文法解析
(1) ἀπόστρεψον
最初に、主動詞ἀπόστρεψον について見ていきたい。ἀπόστρεψον(基本形ἀποστρέφω)は、新約聖書において9箇所、その内マタイにおいては2箇所で使用されている。また新改訳聖書において、「断る、もとに納める、惑わす、立ち返らせる、取り払う、離れる、背ける、背を向ける」などと訳出されている 。
 ἀπόστρεψον(第一不定過去命令法二人称単数)は、接頭辞ἀπό
と動詞στρέφω が組み合わされてできている合成動詞である。もと
もと語幹のστρέφω 自体に、「変える、返す、戻す」 という意味
があり、それに前置詞ἀπό が接頭辞として着く事により、基本的
にその前置詞によって意味が修正される。
 Bauerによると、その用例として「return、put back 」が挙
げられているが 、翻訳比較を見ても、「Put~back in its
place」や「Put up again~into his place」など、元の場所に戻すという意味で訳されており、語幹のστρέφω 「戻す」という動詞に前置詞ἀπό の機能が加わっていることがわかる。
 ゆえにイエスの弟子に対するこの命令には、その剣を別途使用する可能性を示唆していたかどうかは不明だが、公に取り出された武器としての剣を、「あったところに」戻す、仕舞う、片付けることに重点を置いていると推察できる。

(2) τὴν μάχαιράν σου
 次に、この文における目的語τὴν μάχαιράν σου の役割について考える。τὴν μάχαιράν σου は、既に語彙研究の中で取り上げた「剣」としてのμάχαιράν に定冠詞τὴν と人称代名詞σου で構成されている。
σου は二人称単数、属格であり、その様々な機能のうちの「所有」である可能性が考えられる。文脈上、剣を取って大祭司のしもべの耳を切り落としてしまった「弟子」を指す人称代名詞である。その剣が、弟子の所有物か否かは別としても、そのとき所持していた物であるということは確かである。主動詞ἀπόστρεψον に対して何を納めるのかが、この目的語τὴν μάχαιράν σου によって明らかにされている。
 
(3) εἰς τὸν τόπον αὐτῆς·
 ここで補語εἰς τὸν τόπον αὐτῆς· について見ていきたい。εἰς τὸν τόπον αὐτῆς は主動詞ἀπόστρεψον に対して、目的語τὴν μάχαιράν σου をどこへ納めるのかを明らかにしている。
前置詞εἰς は、対格を伴って、「~の中に、~の中へ」という意味で用いられ、新約聖書においてἐν に次いで、その頻度は多く、ἐν と同様に空間的次元を表すが無方向の場所・位置関係ではなく、一つの目標に至る一定の方向を指示する 。つまり本テキストにおいて「剣」を納める場所が曖昧なものではなく、納められるべき本来の場所であることを意味していることがわかる。τὸν τόπον(対格、男性、単数)の中にαὐτῆς(属格、女性、単数)が納められるということである。αὐτῆς は「剣」μάχαιράν と性、数、格が一致しているため剣を示す代名詞として用いられている。τὸν τόπον がどういう場所かについては、共観福音書ではすべて「さや」θήκη とは明確にしていないが、前述したとおり並行箇所であるヨハネ18:11によれば「さや」θήκη(対格、女性、単数)であることが推定される。
 
(4)πάντες γὰρ 以降の文
①接続詞 γὰρ
 γὰρ は、続く文章が前文の理由を明らかにしていることを示している。日本語に訳すなら「なぜなら」、「だから」、「というのは」となるが、実際に日本語の聖書本文では、日本語の接続詞に置き換えるというよりは、語尾の中に「~だからである」などと、γὰρ の存在が生かされる訳になっている場合が多い。このγὰρ の存在によって、「剣を納めなさい」とイエスが命令した理由が、剣を取る者は全員滅びる者「だからである」ということを言っていると考えられる。

 

②形容詞 πάντες
 このπάντες を境に、前段の剣を元の場所に納めるべき理由が語られる。形容詞πάντες は、πᾶς の主格、男性、複数形であり、主語οἱ λαβόντες μάχαιραν を形容している。πᾶς の意味としては、「すべての」であり、英語のall、everyと同様に用いられている。単数の名詞とともに用いるのであれば「何れの」という意味にもなるが、本テキストにおいては冠詞、分詞とともに用いられているため「~はすべて」、「~はみな」というように述語的地位に立って訳すことができる 。すると、この「すべて」、「みな」はどの範囲のことを言っているのかを捉える必要がある。主語οἱ λαβόντες μάχαιραν を新改訳のように「剣を取る者は」とすると、剣を取る者を文脈で判断しなければならない。
以上の分析から、πάντες は、47節の「剣や棒を手にした大ぜいの群衆」であり、51節で実際に剣を抜いて大祭司のしもべに撃ってかかった「イエスといっしょにいた者のひとり」であると推察できる。つまり、この場面で剣を持っている者たち全員ということである 。

 

③主語 οἱ λαβόντες μάχαιραν
 主語は、新改訳で「剣を取る者は」と訳しているοἱ λαβόντες μάχαιραν である。動詞λαμβάνω の不定過去分詞能動態であるが、冠詞οἱ を伴う名詞的用法であり、複数形なので、直接には、そこに居合せた剣を持つすべての人について言及していると考えてよいと言える。

 

④述語 ἐν μαχαίρῃ ἀπολοῦνται.
 主語οἱ λαβόντες μάχαιραν「剣を取るものは(みな)」どうなるのかが説明される。ἀπολοῦνται は、未来形、三人称、複数、中態であり、前置詞ἐν の機能「手段」として、剣を取る者が「剣によって」(ἐν μαχαίρῃ)滅びることを意味している。それは、何者かによって滅ぼされるのか、自分自身で滅びるのかは断定できないが、このἀπολοῦνται は、マタイの福音書では17回使用されており 、最初に出てくるのが2:13で、最後は27:20である。それは何れもイエスを殺害しようとする陰謀であり、27:20では明らかにイエスを十字架につけようとする意味で、「死刑にする」ことへの言及として用いられていることとして注目できる。その他の用例としては、失う、滅びる、救いに漏れるなど、文脈によって用いられ方が異なるが 、先に挙げた2:13と27:20がイエスへの言及であることに対して、それ以外は12:14を除いて人間に対して使われている。12:14はちょうどマタイがἀπολοῦνται を使用している17箇所中9番目にあり、マタイの福音書の構成上イエスについて用いられているἀπολοῦνται の中間地点にあたる。
 マタイが福音書を著すにあたり、福音書の最初、中間、最後という三箇所にἀπολοῦνται を配置したことにどのような意味があるのかは確定できないが、イエスの歩みが、失われた人間、また滅びゆく人間のために、メシアとしてそのἀπολοῦνται (失う、滅び)をご自身で負われる歩みであったこと、または十字架においてἀπολοῦνται (死刑、殺される)を負われたことを考えさせられる。

 

Ⅳ-3. 小結論
(1)イエスが「剣を捨てよ」ではなく「剣をもとに納めなさい」と命じたのは、その剣を別途使用する可能性を示唆しているものではなく、むしろ公に取り出された武器としての剣を目に触れないように、片付ける、仕舞う、その状況から離れさせる意図があったと推察できる。それはつまり剣を用いることをイエスが認めていないと考えられる 。
(2)以上のイエスの命令は、剣を取った弟子だけでなく、また剣と棒を持って集まって来た群衆だけでもなく、その場面に居合わせた剣の持つ権力、能力、威力等に価値を置く人間全員に対して語っているとも考えられる。
(3)その剣を取る者は、みな滅びる(ἀπολοῦνται )ことが警告されている。それは剣に拠り頼む者すべてに対するものであると考えられる。その滅びるべき人間のために、イエスがἀπολοῦνται を負ってくださったことを、マタイのἀπολοῦνται の用い方から考えさせられる。ただし、イエスがこの26:52文脈で、その滅びをイエスご自身が負うことまで言っているとは断定できない。

 

Ⅴ.マタイ10:34と26:52の関連性の分析
(1)剣とイエス
 マタイ10:34で初めて使用された「剣」は、文脈の検討でも既に触れたが、直接的な武器を意味しているというよりは、争いや分裂等の意味があることを確認してきた。
エスは徹底して敵を愛することを表し、平和をつくる者は幸いであること を、まさに神の御子ご自身として、言葉においても行動においても貫徹した歩みをされたが、そのイエスがこの罪の世に来られたことは、必然的に世の罪が御子の光によって明らかにされ、争いや暴力、分裂に満ちている事実が露呈される。ヨハネの言うように、イエスは「ご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった」ことに分裂が起こる要因があると推察できる 。つまり、イエスを受け入れなかったこの世に分裂や争いの種があるということである。それがイエスの言う「剣をもたらすために来た」という意味ではないだろうか 。  

  確かに本テキストで登場する「剣や棒」は字義通りの武器であることはペリコーペ分析でも触れてきたとおりである。しかし、マタイがあえて剣という言葉を二箇所 に限定していることから、マタイ10章と26章の間には何らかの関連があると推察することができる。

(2)剣と滅び
 10章においては39節でἀπόλλυμι が使用されている 。そこでは「滅び」とは訳出されておらず「失う」という意味で用いられている 。しかし、10:39の「自分のいのちを自分のものとする者」がそれを「失う」ἀπόλλυμι ということと、26:52の「剣を取る者」はみな剣で「滅びます」ἀπόλλυμι との繋がりを考察するとき、「自分のいのちを自分のものとする者」と「剣を取る者」に関係性があると推察できる。
 10:34~39のイエスに従う弟子たちの生き方についてイエスが語られたという文脈では、「自分のいのちを自分のものとする者」とは「自分の十字架を負ってわたし(イエス)について来ない者」であると考えられる。その意味を汲んで26:52に重ねるなら、「剣を取る者」とは、イエスに従うこととは反対の生き方をする者を指すことばであると推察できる。即ちそれは、剣をもし取るならば、イエスを守るのではなく、またイエスのためにいのちを捨てるのでもなく、むしろ「滅びる」ことになるという意味として分析できる。

(3)剣と弟子たち
エスが、十二弟子を任命し彼らに求めたことは、イエスに従うことにおいて起こる「剣」を伴う十字架への道を、その苦難を負って歩むことであった 。ところが、実際に「剣と棒」を持った人々が迫ってきたときに弟子たちが取った行動は「剣」を取って戦うことであったが、イエスによってその剣を納めるよう命じられるや否や、イエスを見捨てて、みな逃げてしまった。
 このことから、イエスが求めていた弟子としての歩みを弟子たちのだれもが実行できなかったと推察できる。

 

Ⅴ-1. 小結論
 10:34の内容から、イエスは剣をもたらすために来られたと言うことができる。その剣には、争いや分裂等という意味が込められているが、それは、イエスご自身が持っているものではなく、この世が持っている性質であると考えることができる。事実、イエスに対して群衆は26章において「剣と棒」を持って捕らえようとした。そういう意味で「剣がもたらされた」と言うことができる。
 それに対してイエスの弟子もこの世の武器である「剣」を抜き防衛しようとしたが、イエスは「剣を取る者はみな剣によって滅びる」と言われた。弟子たちは世の力と同じ方法で戦おうとしたが、それはイエスの心ではなかったのである。
 そこで、10章との繋がりを考慮すると、26章の「剣」が字義通りの剣というだけでなく、分裂や争いなど の内容をも含み、それら一切が罪から起こる結果として象徴的な意味での「剣」でもあるという可能性を示唆していると捉えることができるのではないだろうか。そのように、10章と26章には「剣」、「滅び」という言葉において、関連性があると考えられる。それが著者マタイの視点で配置され、マタイの福音書として、イエスがメシアであり神の国の王として十字架に向うという、一貫した姿勢が描かれている。その十字架こそ神の国建設におけるイエスの王として果たすべき務めだったからである。
 また同時に、10章にある十二使徒におけるイエスに対する従順というテーマが26章に至るまで続いており、10章でイエスが言われた「剣」に象徴される受難に対して、弟子たちが26章でどうなったのかが明らかにされている。結果的に弟子たちは全て逃げてしまい、求められていた使命を果たせなかったため、イエスがお一人で、その「剣」が指し示すところの受難を負われた事実に、イエスのメシアとして来臨の目的である十字架の意味が見えてくる。
 以上のように、マタイの視点は26:52においても、イエスの贖罪を意識した意味を含んでいる可能性があると考えることができる。

 

結 論

 本論文において、キリスト者が武器を取ることについて考察し、提示した問題 についての答えを探ってきたが、結論として以下のようにまとめる。

(1)イエスが弟子に剣を取ることをやめさせた理由
 マタイ26:52における釈義から以下の三つのことを挙げることができる。
①武力は、イエスがメシアとして建設する王国には相容れない方法である。
②武力がなくても神の計画は遂行される。
③武力に訴えるものはむしろ滅びる。
(2)イエスの弟子が防衛のために武器を使用すること  
 本論文の研究範囲において、その正当性が認められないことは、前述の理由から明らかである。
(3)本テキストとマタイ10:34との関連性
 本研究を通して得た以下のことを理由として、その関連性を完全に否定することはできないと考える。
①本テキストの「滅びる」というイエスのことばが、直接イエスの十字架の贖罪性に言及しているかどうかについては、釈義においてそれを断言できるほどの証拠を得ることができなかったが、弟子たちが負い切れなかった「十字架」という「剣」(苦難)と、また剣を取る者たちが受けるべきἀπόλλυμι 「滅び」をイエスが負われたことを示している二重の可能性があること。
②10:34の「剣」を本テキストにおける「剣」に重ねることで、本テキストの意味が単に倫理的な事柄だけを言っているのではなく、マタイのテーマであるメシアなるイエスによる神の国建設にとって不可欠な十字架、復活、教会、終末に焦点が合わせられていくと考えられること。

 

適 用

以上の結論を踏まえ、そこから導き出されたキリスト論的視点、またキリスト教倫理的視点に立って考察し、本論文の適用とする。
 イエスは、ご自身をこの世に投じ「争い、分裂、暴力」としての剣を取る私の身代わりに滅びる者、失われる者となってくださった。キリスト者は、その十字架の犠牲に表された神の愛をまず受け取る必要がある。また、キリスト者は、その愛に押し出されて、御霊の与えるみことばの剣 に日々聞き、日々教えられ、日々砕かれつつ備える者とされていかなければならない。キリスト者にとっての剣とは神のことばであると適用できるのではないだろうか。  
「剣」に示されるこの世の力に頼るのか、それとも神のことばに頼るのかが問われているのではないか。キリスト者はイエスがそうされたように、暴力としての剣ではなく御霊の与える剣である神のことばに立つ平和を選択することが求められていると推察する 。
 ゆえにイエスは、ご自分で報復せずに神に全てのさばきを任せるという姿勢を表した。それは「正しくさばかれる方」である神に任せたからであると弟子ペテロがその手紙の中でも証言している 。
ここから、もし私たちが不当な攻撃を受け死に至ったとしても、すべてのさばきの主権は神にあるということを認めることがまず大切であると考える。
 キリストが求めておられていることは、後に来る完成した神の国を先取りした姿勢であり視点ではないか。現在は、神の国は到来したが広がりつつもいまだ完成したとは言い難い。だから、一時的に、世の権力を認めつつ 、この地に御国が来るように、御心が天で行われるように地でも行われるように祈りながら 、やがて訪れる完成した神の国を見据えた信仰が求められる と考えることができる。