のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

◎「大祭司カヤパの前に立つイエス」:マタイ26:57~68 

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1. 不当な裁判とイエス
 まず、初めに「裁判とイエス様」について考えたいと思います。57~59節を
お読みしましょう。
「イエスをつかまえた人たちは、イエスを大祭司カヤパのところへ連れて行った。そこには、律法学者、長老たちが集まっていた。しかし、ペテロも遠くからイエスのあとをつけながら、大祭司の中庭まではいって行き、成り行きを見ようと役人たちといっしょにすわった。さて、祭司長たちと全議会は、イエスを死刑にするために、イエスを訴える偽証を求めていた。」
  逮捕されたイエス様は、大祭司カヤパの家に連れて行かれました。この家は、26章4節で「イエスをだまして捕らえ、殺そうと相談した」とされる家と同じ場所です。しかし、この裁判は大祭司の個人的な取調べではなく、一応、正式なものであることが、59節の「祭司長たちと全議会は」という情報で明らかにされています。
 このユダヤ人の議会は下の注を見ると「サンヘドリン」と記されています。
このサンヘドリンは全議員71人で構成される宗教的、政治的な事柄を審問する
ユダヤ人の最高決定機関でした。その構成メンバーは、57節にあるように、祭
司や律法学者、長老たちでした。
  この裁判がどれほど正式なものかはよくわかってはいません。ただ、この出来
事を記したマタイは、この裁判が正規の議会によって行われたが不当な裁判であったことを繰り返し伝えているのがわかります。59節を見ると、「イエスを訴える偽証を求めていた」と書いてあります。ここだけでも、普通ではないことがわかります。
  初めからイエス様を殺したがっている時点で、冷静さを欠いている裁判です。しかも、この裁判が夜に行われたということが問題です。実は、議会は昼間に行わなければならない規定がありました。ですから、こんな真夜中に、しかも大祭司の家と言う、個人宅で行うのが規則違反なのです。さらに、先ほども触れましたが、イエス様を訴える偽証を求めていたとありますから、明らかに十戒の「偽証してはならない」という戒めにも違反しています。
 このように、この裁判自体が本来であれば無効であったわけです。しかし、彼らはそのような問題点に見向きもせずに、ただイエス様を殺すことだけに集中していました。一つの頑固な思いのゆえに、本来気がつかなければならないことも気がつかないのか、故意に無視しているのか分かりませんが、正しい裁判ではなく、不当な裁判になっていたのです。
 60節を見ると、多くの偽証者たちが出て来たと書いてありますが、イエス様を死刑にするための証拠を挙げることはできませんでした。
最後に二人の人が出てきて、こう訴えました。61節。
「この人は『わたしは神の神殿を壊して、それを三日のうちに建て直せる』と
言いました。」
 以前、イエス様が「この神殿をこわしてみなさい。わたしは三日でそれを建てよう」と仰せられたことについて、残った最後の偽証者たちが訴えてきたのです。しかし、イエス様が神殿を壊すとは言っていないし、その訴えは言葉の揚げ取りです。結局、並行記事が書かれているマルコの福音書の方を見ると、「この点でも証言は一致しなかった」と書いてあり、彼らの悪巧みは上手くいきませんでした 。
 ここで、この58節のペテロの存在が気になります。前回、イエス様を捕えようとする大祭司のしもべの耳を切り落としたペテロが56節では、他の弟子たちといっしょに逃げたと思いきや、この裁判をこっそり傍聴していました。このペテロの行動は69節以降に繋がる場面です。しかし、あえてマタイはイエス様の裁判に同席していた人物として書き残しているのです。それは、どうしてでしょうか。今までずっと共に旅をしながら教えを受けていたイエス様が、目の前で不利な裁判を受けているのに、ペテロがそこにいた目的は「成り行きを見る」ためだったと書かれています。どういう意味でしょうか。
 私はずっとこの場面は、56節で弟子たちがみな逃げて行ったことの代表としてのペテロ。つまりイエス様を見捨てた弟子として残念な奴だと、かなり上から目線で捉えていました。しかし、これまでのペテロの言動を思い起こしてみると、決して軽はずみにペテロを非難できないと思わされました。なぜなら、イエス様が逮捕されそうになったとき、他でもなくペテロが剣をもってイエス様を守ろうとしたからです。そこで大祭司のしもべの耳を切ってしまいましたが、ペテロはイエス様のお言葉に従って剣を捨てました。
  ですから、この裁判の席にいたのは、周囲を恐れつつも、いのちを捨てても一緒にいたいと思った自分の主がどうなるのか。もしかしたら、いつもの、あの奇蹟で敵を打ち破るかも知れない。そんな複雑な思いでペテロの精一杯の主に対する愛で見守っていたのではないでしょうか。

 

2. 大祭司とイエス
ここで大祭司カヤパが発言します。62節。
「そこで、大祭司は立ち上がってイエスに言った。『何も答えないのですか。この人たちが、あなたに不利な証言をしていますが、これはどうなのですか。』」  
大祭司カヤパは、このサンヘドリンの議長であり、この裁判の裁判長でした。
ですから公平に裁判を進めなければなりません。だから、この62節のように、不利な証言に対して言うことはないのかと表向き裁判長らしい質問をします。しかし、イエス様はいっさい口を開きません。イエス様はどんな偽証をされても答えませんでした。
 しかし、あることをきっかけにイエス様は口をお開きになります。それはどういうことでしょうか。63節。
「しかし、イエスは黙っておられた。それで、大祭司はイエスに言った。『私は、生ける神によって、あなたに命じます。あなたは神の子キリストなのか、どうか。その答えを言いなさい。』」
 それは、カヤパが大祭司として、生ける神によって命令したからです。いくらカヤパが悪巧み的な裁判をして、不当であるとわかっていても大祭司はユダヤ人にとって最高の権威です。その権威を持つ大祭司が「神の権威によって命じる」ことに対して答えなければ、それ自体が罪となってしまいます。ですから、イエス様はあくまで神様の権威の前にある従順なお姿で、ここで口を開かれたのです。
 イエス様にとってさばくお方は大祭司カヤパではありませんでした。ただ天のお父様に対して誠実に、忠実にその潔白な態度を示されたのです。
  しかし、カヤパは今、大祭司として、生ける神によって命じますと宣言してから、「あなたは神の子キリストなのか。その答えを言いなさい」と問いました。「それで」という言葉が、カヤパの作戦変更を表わしています。それは直球で勝負に出たということです。それは、先ほどの偽りの訴えが不発に終わってしまった今、この憎きナザレのイエスを殺すためには直球勝負しかないからです。「それで」神の権威によって命じたのです。
私は、このときの光景は実は大変恐ろしいことに気がつきました。それは、真の大祭司であるイエス様を差し置いて、神の権威を振りかざすカヤパの姿のことです。大祭司とはもともと出エジプトのときにモーセの兄であるアロンから始まった役職です。その仕事は神様と民の間に立ち、執り成すことです。民の罪を贖うために立てられた礼拝を司る役目です。しかし、その仕事はあくまでやがて本物の大祭司が来られるまでの雛形に過ぎませんでした。本当の大祭司が来るまでの有限的な役目だったのです。ヘブル人への手紙は、大祭司イエス様について多くのことを記しています。その一部をお読みします。
ヘブル7:24~25
「しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」
ですから、カヤパはイエス様の前では、本当は逆にイエス様によって執り成される側の人間です。イエス様によって神様の怒りをなだめていただく立場です。それが、今、神の権威を直接お持ちのイエス様に対して、ある意味、偽者が神の権威によって命じているのです。
  しかも、本物の大祭司であるイエス様よりも、カヤパの方が立派な大祭司の衣装を身につけ、その権威を見せつけています。清潔な亜麻布に青い織物の衣をまとい、その裾は金の鈴や、布でできたザクロでふちどられていて、頭には大祭司を象徴するターバンをかぶっていました。しかし、一方、イエス様は長旅で薄汚れた衣服を着ていたと思われます。このコントラストがこの裁判での一つの山場だと思います。
  大祭司カヤパは神様に召されたからこそ大祭司として神殿に仕え、このサンヘドリンでも議長として裁判長として置かれているはずです。たとえ背後に政治的な力があって悪巧みがあったとしても、イスラエルの大祭司また祭司とは神様の権威によって任命されるものです。神様の召しを意識して初めてその働きが行えると思います。だから、もしカヤパが本当に神様によって立てられている大祭司なら、目の前におられるお方がどんなお方か悟ることができたのではないでしょうか。少なくとも不正な裁判は行えないはずです。
  クリスチャンも聖なる祭司と言われています。また、クリスチャンというようにキリストの御名がつけられて呼ばれる恵みに与っています。このことは、すべてイエス様の十字架の贖いのゆえに与えられた神様の恵みによるものです。
  しかし、気をつけないとその恵みに慣れてしまい、感謝がなくなり、この恵みの立場が当たり前になってしまうことはないでしょうか。教会に加えられている恵みも当たり前。礼拝に毎週来られることも奉仕できることも当たり前になりやすいです。あくまで神様の恵みで成り立っているのに、目に見えることで他の人を見てさばく思いになったり、評価をしてしまう。ある意味、他の人に対して判決をくだしてしまう、そのとき、私たちは、このカヤパと同じだと言えます。そのとき、私たちの前に主がおられることを見失っています。
  あくまで今与えられている立場も、生活も主の恵みです。賜物です。それをいつも感謝していくものでありたいです。