のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

◎アヒトフェルの助言: サムエル記 第二 16章20~23節

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"アブサロムはアヒトフェルに言った。「あなたがたで相談しなさい。われわれは、どうしたらよいだろうか。」
アヒトフェルはアブサロムに言った。「父上が王宮の留守番に残した側女たちのところにお入りください。全イスラエルが、あなたは父上に憎まれるようなことをされたと聞くでしょう。あなたに、くみする者はみな、勇気を出すでしょう。」
アブサロムのために屋上に天幕が張られ、アブサロムは全イスラエルの目の前で、父の側女たちのところに入った。
当時、アヒトフェルの進言する助言は、人が神のことばを伺って得ることばのようであった。アヒトフェルの助言はすべて、ダビデにもアブサロムにもそのように思われた。"

  イスラエルの王は、別な言い方で「油注がれた者」と呼ばれます。これは、その名の通り預言者や祭司から油を注がれて任ぜられるからです。

  しかしアブサロムがイスラエルの王になるためにはどうしたでしょう。それは、第一に父であるダビデ王を追放しました。それはクーデターを起こして王座を奪い取る方法を選んだということです。でも、この方法は正しい方法ではありませんでした。なぜなら、もし王になりたいのなら、父であるダビデがいずれ死んでからでもその機会は、自ずと訪れるからです。しかし、アブサロムはそれを待ちきれず、また父ダビデ王への苛立ちからそのルールを守りきれなかったのです。

  そして、もう一つ。アブサロムはダビデ王を追い出した後、どのように国民から王としての支持を得るか。また、国民に認識させるかを、側近であり顧問であるアヒトフェルに相談しました。

  すると、その方法とは、ダビデが王宮に残していった側女たちと公然と交わることだったのです。

  アヒトフェルは、そう進言して、アブサロムもそのいう通りにしたのです。

  これは、江戸時代であれば将軍にしか許されていなかった大奥を自分のものとするということであり、王権を引き継いだ証となったと言えます。ところが、アヒトフェルの動機はそうではありません。

 

「あなたは父上に憎まれるようなことをされたと聞くでしょう。」

 アヒトフェルの提案の動機は、憎まれることをすることによって、アブサロムにつく人たちの勇気を引き出すということでした。

  それはアブサロムが本当にイスラエルの王として確立するために、正しいことだったのでしょうか。

  いいえ。そうではありません。このアヒトフェルの言葉は、神の民イスラエルを混乱させ、憎しみに憎しみを生み出す、王国の分断と滅亡を促すものでしかありませんでした。または、神の救いの計画の視点で見るなら、その計画を妨げる手段でもあったのです。

  これはイスラエルの王が王として確立するために相応しいものではなかったのです。そればかりか、神の救いの計画を妨げる悪魔的な提案であったのです。

  あのサウルもダビデも必ず油注ぎを受けて王に任ぜられました。そのように、イスラエルの王とは、自分の思い上がり、自分の欲求でなるものではなく、主が選ぶ者が王となるからです。

  当時、アヒトフェルはこのイスラエル王国において信頼されていた人物であり、ダビデもアブサロムも彼を信頼していました。彼の言葉が神の言葉であるかのように聞こえるほどに、彼の発言には注意が必要でした。

  またアヒトフェル自身も、そのように信頼されているということで高ぶらずに、その発言には十分注意が必要でした。

  ところが、アヒトフェルには恐らく自分はダビデにもアブサロムにも一目置かれている存在であるというおごりがあったのでしょう。

  その思い上がりがアブサロムを更に悪の道へ誘い、取り返しのつかない罪までも犯させたのです。

 

  誰からも信頼されている王の側近アヒトフェルは、アブサロムに対して言うべきことは一つであったはずです。それは、クーデターをやめさせて、その持っている信頼を主のため、イスラエル王国のため、ダビデ王家のために用いることでした。

  私たちも、人間的な誘惑の中で、正しい判断ができなくなることがあります。それは、人からの信頼を鵜呑みにして、またその立場に酔いしれて、主の御心ではなく、自分の判断を優先させるということです。

  私たちは思い上がり、高ぶり、神から離れます。それは、まさにアダムの子孫である証拠です。神のことばよりも、自分のことば。神の知恵よりも自分の知恵を優先させるのです。それは、同時に神のことば、神の知恵であるイエス・キリストを退けることでもあります。

  今日、私たちはもう一度、神のことば、神の知恵である主イエスを求めているのか、その心を点検しましょう。

  人からさまざまな相談を持ちかけられるかも知れません。あなたを信頼する友があなたのもとにやってきて、あなたの知恵を求めるかもしれません。しかし、そのときこそ、その方とともに主の前に出ましょう。

  私たちは無力です。何も持たないものです。そのことをはっきり告白して、神の知恵を待ち望もうではありませんか。私たちから出るものは悪い考え、愚かな知恵です。しかし、主の御霊が教えてくださるものは、神の知恵、神の宝です。

  ぜひ、今日も主の前にひれ伏し、神のことばである聖書を通して主の知恵をいただこうではありませんか。

 

"ああ、神の知恵と知識の富は、なんと深いことでしょう。神のさばきはなんと知り尽くしがたく、神の道はなんと極めがたいことでしょう。"
ローマ人への手紙 11章33節

"神の知恵により、この世は自分の知恵によって神を知ることがありませんでした。それゆえ神は、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救うことにされたのです。
ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシア人は知恵を追求します。
しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことですが、
ユダヤ人であってもギリシア人であっても、召された者たちにとっては、神の力、神の知恵であるキリストです。"
コリント人への手紙 第一 1章21~24節