"王は身を震わせ、門の屋上に上り、そこで泣いた。彼は泣きながら、こう言い続けた。「わが子アブサロム。わが子、わが子アブサロムよ。ああ、私がおまえに代わって死ねばよかったのに。アブサロム。わが子よ、わが子よ。」"
サムエル記 第二 18章33節
アブサロムのクーデターは呆気なく終わってしまいました。アヒトフェルの助言も虚しく、アブサロムを本当の王にすることはできませんでした。
ダビデについた部下たちは、アブサロムについた者たちよりも戦いに長けており、みんな百戦錬磨の勇士達でした。
アブサロムもその誇りとする髪の毛が木に引っかかり、ダビデの部下のうちでも将軍であり、したたかな者であるツェルヤの子ヨアブによって、そのいのちを落とします。
戦いに勝ったダビデ軍にとっての勝利の瞬間であり、普通の戦争であれば
大将を討ち取った知らせは朗報です。その朗報を王に伝える名誉を二人の者が買って出ます。
ダビデにとって、この戦いは、恐らくこれまで戦ってきたどの戦いよりも辛く悲しいものであったでしょう。
息子と戦わなければならないことは、当然、敵として息子のいのちが奪われると予想できたはずです。そうでなければ、命がけで戦いに出る部下たちの士気が下がります。特に今回の戦いでは手柄を立てた者への褒美は望めません。
なぜなら、いつもの戦いのように、分捕りものはないし、土地もアブサロムから奪い返すだけで、新しい土地を得ることはできないからです。
それだけに、ヨアブのダビデへの命令違反すら仕方のないこととして映ります。
最終的にダビデの父としての悲しみだけが残る。そんな結末となったのです。それも全てダビデの罪から始まった罪の刈り取りでした。
妻を多く持ち、側女も多く抱え、他の国の王と同じことを常識としてしまった神の民イスラエル。神のしもべダビデもまた例外ではありませんでした。
その罪の責任は必ずその身にかかってきます。アブサロムをここまで追い込んだのは、ダビデの父親としての不甲斐なさがその一端にあったことをこれまで見てきました。タマルを犯したアムノンへのさばきの甘さ。今度はタマルの実兄であるアブサロムがアムノンを暗殺したときのダビデのはっきりしない態度が、益々アブサロムとの関係を壊し、アブサロムの立場をどんどん追い詰めていったのです。
その甘さを自覚しているだけに、ダビデのアブサロムを失った悲しみは大きかったのです。父親が子に代わって死ねば良かったと思う気持ちは痛いほど私にもわかります。
それは、私も不甲斐ない父親であり、私の三人の息子たちへのこれまでの扱い、接し方、関係を省みるときに、何と中途半端な父親であったか。どれほど未熟な父親で息子たちを悲しませてきただろうと思うからです。
今、子どもたちが置かれている環境や、生活、特に信仰のあり方を鑑みるときに、やはり私自身の愚かさがそこにあることを見るのです。
私が代わって死ねば良かったと思うダビデの気持ちは、痛いほど私にも理解できるのです。
しかし、そういう罪深い私の苦しみさえも、主イエスは十字架で負ってくださり、まさに私に代わって、その罪の責任を負われたのです。ダビデにとって、この事件は拭い去れない辛いものでしたが、神はそれを良しとせず、自らその贖いの道を歩まれたのです。
ですから、ダビデのアブサロムへのこの悲しみのことばは、神のことばとして、御子キリストが事実、その身をもって実践されたのです。
今日、あなたも負いきれない罪の重荷、またあなたが抱えている罪の責任があるかも知れません。しかし、そのことを全ておろすことができるのです。
それは、神が御子を遣わして、私たちの全ての罪も悲しみも重荷も負わせて十字架ににかけられたからです。そのことを私のためだったと信じ受け入れるならば、あなたのうちに神の平安が訪れ、あなたの失敗、もっとこうすれば良かったという不幸な出来事すら、神の恵みの中で、祝福のために益とされるのです。
どうか、神があなたを愛し、あなたの重荷を引き受けてくださった、その恵みを信じ受け取りましょう。
主は信じるあなたといつもともにおられます。あなたの重荷をすべて打ち明けて、今日も神への感謝に溢れた一日とさせていただきましょう。
"キリストも一度、罪のために苦しみを受けられました。正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、あなたがたを神に導くためでした。"
ペテロの手紙 第一 3章18節