のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

●墓前礼拝:詩篇90篇10節〜12節(2019年8月18日)

f:id:kinokunizaka66:20190829005550j:image

 

墓前礼拝

詩篇90篇 10節~12節


10 私たちの齢は七十年。
健やかであっても八十年。
しかも、その誇りとするところは
労苦とわざわいです。
それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。
11 だれが御怒りの力を知っているでしょう。
だれがあなたの激しい怒りを知っているでしょう。
その恐れにふさわしく。
12 それゆえ、私たちに
自分の日を正しく数えることを教えてください。
そうして私たちに
知恵の心を得させてください。




序論

 本日は、午前中の召天者記念礼拝に続いて、墓前にて礼拝を持てることを神様に感謝いたします。聖書によれば、私たち人間の造られた目的は神様を礼拝することだということがわかります。それは、造られた者が造ってくださった造り主に感謝をささげることが私たちの務めであるという意味です。そういう意味で、一日のうちに二回も神様を礼拝する機会があるということは、何よりの恵みなのです。そして、もう一つ感謝したいことは、先に神様のもとに逝かれた方々を偲びつつ、今生かされている私たちの人生を振り返る機会でもあるということです。

 

1.労苦とわざわいの人生
 今、お読みした聖書のことばは、旧約聖書詩篇という、昔の信仰者たちが歌った歌が書かれている本に書いてあるものです。その表題にはモーセによると書いてある歌なので、3000年以上前の歌だといえます。その当時において、人の寿命は70年、健康だったとしても平均80年と言われています。これは現代でも大体言える寿命かも知れません。2018年の日本人の平均寿命は男性で81.25年、女性で87.32年だそうです。現代の方が少し長生きかも知れません。
 しかし、これは「健やかであっても」という条件があります。全ての人がこの年齢まで生きられるかどうかはわかりません。たとい、80年、90年生きられたとしても、それが本当に幸せだったというと、必ずしも長生きが幸せとは言えない現実にも向き合うことがあります。聖書は、そのことについて、「その誇りとするところは労苦とわざわい」だと言っています。しかも、振り返るとその人生はあっという間に過ぎ去り、その70年でも90年でも飛び去ってしまう。それが現実の私たちだ。聖書はそう言います。その聖書のことばは間違っているでしょうか。しかも、その労苦とわざわいの人生には、神の怒りの下にあるともはっきりと告げています。

 

2.神の知恵を得る人生へ
もし、私たちの人生が労苦とわざわいで終わるならば、また神の怒りで終わるならば、そんな不幸なことはありません。しかし、神様はそうならないために、私たちに、不幸が不幸で終わらない人生、わざわいがわざわいで終わらない人生があることを紹介しています。「それゆえ…自分の日を正しく数えることを教えてください」と願うこと。それは、私たちの一日一日がただぼーっと過ぎて行くのでなく、神の恵みによって生かされている。その恵みを数えて感謝する生き方に招かれているということです。そして、こう言います。「そうして私たちに知恵の心を得させてください」と。その知恵とは何でしょうか。それは、神の怒りをご自分に負ってくださったイエス・キリストのことであり、そのキリストが身代わりとなった十字架の恵みのことです。パウロは言います。「キリストは神の力、神の知恵なのです」と。

コリント人への手紙第一 1章24節
24 しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、
  召された者にとっては、
キリストは神の力、神の知恵なのです。

 

結論
この神の知恵であるキリストを心にお迎えするとき、私たちは決して災いがわざわいで終わらない祝福の人生を歩むことができるのです。それは栄光の天国に繋がる祝福。死ぬことが最高の喜びに変わる人生です。
  ぜひ今日、私たちも、もう一度、この墓前礼拝を通して、イエス・キリストに出会い、キリストを信じての神の知恵の心をいただこうではありませんか。


  それでは先に召された方々と新しい御国で再会することを期待しつつ、お祈りしたいと思います。