のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

●「高慢は正しくない」イザヤ書16章6節

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"われわれはモアブの高ぶりを聞いた。彼は実に高慢だ。その誇りと高ぶりと不遜さ、その自慢話は正しくない。
それゆえ、モアブはモアブ自身のために泣き叫び、すべての者が泣き叫ぶ。ただ打ちのめされて、キル・ハレセテの干しぶどうの菓子のために嘆く。"
イザヤ書 16章6~7節

平家物語」の冒頭には、こう書かれています。

祗園精舎の鐘の声、
諸行無常の響きあり。

娑羅双樹の花の色、
盛者必衰の理をあらはす。

おごれる人も久しからず、
ただ春の夜の夢のごとし。

たけき者もついにはほろびぬ、
ひとえに風の前の塵に同じ。

 

聖書に限らず、誰でも高慢は嫌いだ。それが他人でもそうだし、自分自身なら一層恥ずかしいものです。

驕れる者久しからず。

高ぶるものの治世は長続きはしない。必ず滅ぶと平家物語の著者も証言します。

 

主イエスはこう言われています。

"「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。"
マタイの福音書 5章3節

この「心の貧しい」とは、自分の霊が富んでいない。神と交わることができるような、良い心、ふさわしい思いを持ち合わせていないと自覚し、だからこそ、へりくだって神に憐みを求める人のことです。

この思いを、あのエデンの園においてアダムとエバが持っていたら、その後の神の赦しは変わっていたでしょう。彼らが素直に罪を犯したことを認めて、自分がどれほど罪深く、神の憐みなしには存在しえないことを告白できたら、きっと神は赦してくださったと思います。

 

しかし、私たち人間は、自分は悪くない。悪いのはあいつだと人のせいにするのです。自分は悪くない。まさに、それが高慢であり、神にとって最も嫌う悪臭なのです。

箴言にはこう書かれています。

"高慢は破滅に先立ち、高ぶった霊は挫折に先立つ。
へりくだって、貧しい者とともにいるのは、高ぶる者とともに分捕り物を分け合うのにまさる。"
箴言 16章18~19節


私たちが高ぶるとき、そこにまた御子のへりくだりがあり、御子の十字架の苦しみがあることを覚えたいのです。

"キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、
自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。
それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。
それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、
すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。"
ピリピ人への手紙 2章6~11節

またペテロもこう言います。

"このためにこそ、あなたがたは召されました。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残された。
キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。
ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。
キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。
あなたがたは羊のようにさまよっていた。しかし今や、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰った。"
ペテロの手紙 第一 2章21~25節


まず主イエスが、御子であるのに仕える者の姿で来られ、真のへりくだりを示され、十字架にまで従われました。それは、私たちがその歩みを模範として生きるためでした。そういう者となるために、主イエスは、私たちと神との和解を成立させるべく、その十字架において磔にされ、贖いとなってくださったのです。

 

今日も、あなたのために犠牲となられ、十字架の道を歩まれたキリストを見上げてまいりましょう。キリストを仰ぎ見るとき、私たちの高慢は打ち砕かれます。

 

 

"私たちが聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕はだれに現れたか。
彼は主の前に、ひこばえのように生え出た。砂漠の地から出た根のように。彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。
彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。
まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。
しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。
私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。
彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
虐げとさばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことか。彼が私の民の背きのゆえに打たれ、生ける者の地から絶たれたのだと。
彼の墓は、悪者どもとともに、富む者とともに、その死の時に設けられた。彼は不法を働かず、その口に欺きはなかったが。
しかし、彼を砕いて病を負わせることは主のみこころであった。彼が自分のいのちを代償のささげ物とするなら、末長く子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。
「彼は自分のたましいの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を負う。
それゆえ、わたしは多くの人を彼に分け与え、彼は強者たちを戦勝品として分かち取る。彼が自分のいのちを死に明け渡し、背いた者たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、背いた者たちのために、とりなしをする。」"
イザヤ書 53章1~12節