のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

●今日のみことば ヘブル人への手紙 4章9~16節

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「神の安息に入る」

"したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残されています。
神の安息に入る人は、神がご自分のわざを休まれたように、自分のわざを休むのです。
ですから、だれも、あの不従順の悪い例に倣って落伍しないように、この安息に入るように努めようではありませんか。
神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。
神の御前にあらわでない被造物はありません。神の目にはすべてが裸であり、さらけ出されています。この神に対して、私たちは申し開きをするのです。
さて、私たちには、もろもろの天を通られた、神の子イエスという偉大な大祭司がおられるのですから、信仰の告白を堅く保とうではありませんか。
私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。
ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。"

  私たちは、自分のためのわざが多すぎて、なかなか神の安息を得ることができません。神は六日働いたら一日休むことを私たちに教えるために、ご自身も天地創造の際、そのようにされました。

"こうして天と地とその万象が完成した。
神は第七日に、なさっていたわざを完成し、第七日に、なさっていたすべてのわざをやめられた。
神は第七日を祝福し、この日を聖なるものとされた。その日に神が、なさっていたすべての創造のわざをやめられたからである。"創世記 2章1~3節


 ですから、私たち人間は自分ためのわざをするなと言われているのではなく、それを終えて安息を得よと言われているのです。

 神の安息とは、神とともにあり、神の平安に満たされた真の休息です。その休息は、魂の安らぎであり、神と人間との究極的な姿、あり方も意味しています。

 多くの人は、この安息を知らずに、ただ自分の生きたいように、自分のやりたいように、自分のわざだけの世界で汗を流し、心もからだも疲れ果てます。

 それは、神の安息を知らずに生きようとするからです。しかし、本来の、神に造られた人間とは、造ってくださった神に帰らなければ、真の安らぎを得ることができないのです。

 ですから、私たちはまず、この神の安息に入るために、自分のわざをやめる必要があります。それは、自分で自分を生かす生き方から、神によって生かされる生き方へ、シフトチェンジして、神専用の器へとつくり変えられることも意味しています。

 そのシフトチェンジをできるように、道備えをしてくださったのが、神の御子イエス・キリストです。神の怒りの下にあった私たちを、ご自分の安息の中に入れるために、その神の怒りをご自分に向けてくださったのです。

ですから、だれも、あの不従順の悪い例に倣って落伍しないように、この安息に入るように努めようではありませんか。

と、この聖書記者は言います。

 せっかく、御子がいのちを捨ててまで、与えてくださった、神の安息へ至る道を簡単に諦めたり、やめたりするなと勧めているのです。

 そうならないために、私たちには神の言葉が注がれており、その神のことばにいつも聴き、神のことばによって、この世を生きることが大切です。なぜならば、「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができる」からです。

 この神のことばとは聖書のことです。私たちは力ある聖書のことばによって、この世を生きるときの霊的な識別力をいただき、また養う必要があります。それによって、まだこの世にいるうちから、天の御国にいて神とともにある安息と同じ安息を味わうことができるのです。

「神の御前にあらわでない被造物はありません。神の目にはすべてが裸であり、さらけ出されています。この神に対して、私たちは申し開きをするのです。」

 その生き方によって、私たちは最後の審判のときに、どのように申し開きをするか違ってきます。そこで、どんなに自己弁護しようと、全てが裸です。神は私たちの全ての歩みをご存知だからです。

 だから、どんな言い訳も通用しません。しかし、この世にいるうちから、イエス・キリストを信じて、その安息に入り続けているならば、罪深い私たちのために、父なる神の前でとりなしてくださるイエス・キリストが大祭司として立っていてくださるのです。

 しかも、私たちの大祭司キリストは、ご自分で私たちの世界に来てくださって、人間の歩みがどんなに悲惨であり、この罪の世に置かれていることが、どれほど理不尽なことの繰り返しか身をもって味わってくださいました。それにより、私たちの弱さに深い同情をもって理解し、父なる神の前で、完璧な弁護をしてくださるのです。この大祭司キリストがおられるのですから、私たちは安心して、すべてを委ねて、この世にあっても、自分のわざをやめて、神の安息に入ることを選び取ることができるのです。

 

 今日、もう一度、あなたのために十字架にかかり罪の贖いをしてくださった神の子羊キリストを信じて、今、神の右において大祭司として執り成すキリストを覚えて、この神の安息の日を喜ぼうではありませんか。この安息は、永遠の安息、本当の慰めと癒しの時だからです。


「さて、私たちには、もろもろの天を通られた、神の子イエスという偉大な大祭司がおられるのですから、信仰の告白を堅く保とうではありませんか。私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」