のりさん牧師のブログ

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◎礼拝説教: 「主を信じて義とされたアブラム」 聖書箇所 創世記15章1節~6節

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15:1 これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」

15:2 そこでアブラムは申し上げた。「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私にはまだ子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。」

15:3 さらに、アブラムは、「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう。」と申し上げた。

15:4 すると、主のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」

15:5 そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」

15:6 彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。


序論
 私たちは、イエス様を自分の救い主と信じて救われます。この救いには一切人間の知恵や人間の努力は入っていません。すべて、神様からの一方的な恵みです。それを信じているでしょうか。そのことを本当に恵みだと感謝して受け取っているでしょうか。
 恵みというのは、それを受けるに値しない者が与えられることです。その恵みがどれほど偉大で、どれほど深い愛ときよさに満ちているか。そのことを通して、どれほど神様が私たちを愛しているという事実を受け止め応答するか。ここに信仰があります。
 今日の箇所で、「彼は主を信じた」と書いてありました。信仰の父と呼ばれているアブラムのその「信じる」とはどういうものだったのか、そして、そのアブラムに対して、主はどうお答えになったのか。そのところから、私たちの信仰のあり方を学んでいきたいと思います。
 
1.主のことばが臨み

 まず1節のところから、アブラムの信仰の状態とそれに対する主の御心を見ていきましょう。

「これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。『アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。』」

「これらの出来事の後」にとは、前回までの出来事を振り返りなさいということです。それは、アブラムが住むカナンの5人の王様たちを、メソポタミアの4人の王様たちが襲ったことからはじまった事件がありました。アブラムは関わらないでいたのですが、甥のロトが捕まったと聞いて、その4人の王たちの軍隊を追跡し、その戦いに勝利してすべてを奪い返したのです。そのあとも、その勝利に胡坐をかいて威張ることなく、その栄光を主にお返ししたというところまでを前回読んできました。そこで出てきたのが祭司メルキゼデクでした。ですから、アブラムにとっては、自分の考えではなく、今度こそ主に従って、信仰の戦いを勝ち抜き、主に栄光をお返しして、平安に満たされる、心が高揚しても良い状況でした。
 ところが、この主からのアブラムに対するみことばを見ると、そうでなかったことがわかります。主は、アブラムに開口一番、「アブラムよ。恐れるな」と仰っています。ここは原語的には「恐れるな。アブラム」という順序です。ここは新共同訳の方が良いと思います。つまり、神様がアブラムに伝えたかった第一のこと。それは「恐れるな」という命令だったということです。
 この言葉で、このときのアブラムの気持ちが、その信仰状態がどのようであったのかがわかります。それは、神様が命じなければならないほどに恐れをもっていたということです。
 アブラムはいったい何を恐れていたのでしょうか。そして、どうして、このときに恐れていたのでしょうか。戦いには勝てたし、メルキゼデクのおかげで、その信仰の目も心も主に向けられ、主に栄光をお返ししました。ここで、何の不安があるというのでしょう。何が恐ろしいのでしょう。
 これは私たちも経験することではないでしょうか。大きな信仰の戦いがあったり、霊的な試練を何とか罪を犯さずに、主に従って乗り越えられた。でも、そのあとで、がっくりと落ち込むような、疲れ果てたような状態になったことはないでしょうか。確かに、すべてが守られて、うまくいった。もしくは、何とか通り抜けられた。でも、その中で感謝もあるけど、自分自身の何とも言えない無力感に襲われることがないでしょうか。あの預言者エリヤもそうでした。
 よく牧師にとって月曜日はブラックマンデーだと言われます。それは、肉体的にも霊的にも、日曜日の説教でエネルギーを使い果たすからだと言われます。それは私も経験します。説教が自分で良かったか悪かったかということを考えるというよりも、良くも悪くも、そこに命をかけて準備をしますので、その分、常に後悔もあります。それは、前の週の出来事によっては、準備にいつも同じ時間をかけられないからです。時間をかけたから良い説教ができるとは思いません。しかし、主に対して、どれだけ本当に時間を取り分けて備えたのか。つまり聖別して備えてきたのかが反省させられるからです。本当に命をかけていたのか。
 そこに、予想もできないくらいの怖さを覚えるときがあります。そして、次の日曜日が待っています。それが嫌なわけではありません。むしろ嬉しいご奉仕です。しかし、きちんと説明できないような恐れと、無力感が来るのです。
 みなさんはいかがでしょうか。今の新約の教会の時代は、万人祭司です。全員が主の弟子です。だから、喜んで主の日に礼拝をささげ、奉仕をして、力も時間も主にささげているはずです。だから、疲れて当たり前、疲れる方がある意味正常なクリスチャンです。しかし、そこに言いようもない不安や恐れがやってくる。聖書は実に正直です。
 信仰者が主に従って仕えていれば良いことしかないとは言いません。むしろ、言いようもない不安や恐れがあることを正直に書いています。
 では、信仰を持たない方が楽じゃないのかという人がおられるかも知れません。でも、その質問は、ある意味、その人が主の弟子かそれとも群集の一人かを知る目安にもなります。
 イエス様は「自分の十字架を負ってわたしについて来ないものは、わたしの弟子ではありません」と言われました。それは、主に従っていくときに起こる、様々な困難、試練、悩み、恐れ、痛みを経験することを避けているならば、それは主の弟子としてふさわしくないという意味です。
 そこを通らされることを主は望んでおられるのです。その状況に、このアブラムもおかれたのです。彼が信仰の父と呼ばれるまず第一の理由はここにあります。つまり、彼は主を信じたという「信仰」とは、信じているのにもかかわらず起こる苦しみを通るかどうかです。
 だから、逆にこの苦しみがわからないで、そのように弱さを経験している人をさばくことは主の弟子のすることではありません。
 この恐れを覚えているアブラムを前にあなたなら、何とことばをかけますか。しっかりしろ。ちゃんとやれ。族長らしくしっかりしろ。私は心が強いからお前ように弱弱しくはならないと罵るでしょうか。
 しかし、神はどうされたか。この1節から6節までで、アブラムに対する主のなさったことで大切なこと。それは、1節と4節にあるように。「主のことばが臨み」ということです。主のことばこそ、信仰者の力。いいえ、全人類、全被造物を励まし支える根源です。しかも、主のことばはアブラムを罵倒するどころか、励まします。
 確かに「恐れるな」という言葉は命令形で強い言葉です。しかし、そこまで強く言う理由は何でしょうか。それは「わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは大きい」という励ましが確かだからです。神様が「わたしはあなたの盾だよ、敵がどんな矢を撃ってきても、わたしが盾になってその矢を受けるよ。」主は、その存在をかけて、主を信じるあなたを守ると言われるのです。何という励まし、何という恵みでしょう。わたしが盾を作って置くから大丈夫ではなく、主ご自身が盾になる。それは、あなたのために主がその矢を、相手の暴言を相手の冷たい行動を代わりに受けてくれるということです。これが信仰者に対する主の慰めです。そして、この主のみことばこそ、私たちの生きるエネルギーであり、いのちです。
 アブラムはその主のことばに励まされて、心のうちにある悩みを打ち明けます。それは、2節「神、主よ。私に何をお与えになるのですか」
 神様がいくら「あなたの子孫を地のちりのようにならせる」と仰っても、現実、アブラムには子供がいません。しかも、アブラムも妻のサライも高齢者で、人間的な常識で考えても、可能性はゼロです。これはもっともな不安でしょう。当たり前の悩みでしょう。だから、アブラムはそのときの常識で訴えます。神様、あなたがいくら、そう仰っても、あなたが子孫をくださらないならば、私の家の奴隷が跡取りになりますよ。
 それに対して主の答えは4節です。主のことばが彼に臨み言われました。「奴隷ではなく、あなたから生まれ出る者があなたの跡取りだよ」
 
2.外に連れ出して
 そして、恐れと不安に満たされ、絶望していたアブラムに主はどうされたか。

それは、5節。

「そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」

 主は、恐れに満ちて、主のことばに信頼しきれていないアブラムを外に連れ出しました。こういうとき、どうすることが良いのか。主のことばを聴くことと合わせて、外に出ることです。しかも神様は、満点の星空をアブラムに見せて、あなたの子孫はこの星の数のように数え切れないほどになると言われました。このとき、アブラムはどういう心境だったでしょうか。星を眺めて、ああたくさんの子孫が与えられるのかと、ただその説明を聞いて納得して、信じたのでしょうか。
 みなさん。星を眺めたことはありますか。そのとき、どう思いますか。何も感じませんか。実は、ここの心境があって、6節のことばに繋がっていきます。すなわち、ここでの感動、驚き、偉大さを実感して、アブラムは、もう自分ではなく、主よあなただけです。あなただけが神です。あなたの前に私は無力ですというひれ伏す心が、彼は主を信じたということであるということです。
 イスラエルダビデ王は、詩篇でこう歌っています。詩篇8:3~4

「あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。」

 神様が天の万象をアブラムに見せたのは、ただ単に子孫の数がこうなるというだけではありません。その主の御手の業をアブラムのその目に刻み、その心を主こそ全知全能の唯一の神であり、その主があなたの神だよ。あなたとともにいるよ。安心しなさい。そう言われているのです。
 これは、星空だけではありません。海を見たり、里山に行ったり、何でも良いでしょう。外に出て、主を感じる。ただ知識だけで主を知るのではなく、主を感じ、主を体験する。主に出会う。これが大事です。
 私も妻も休みの日にはなるべく海や山に出かけます。それは出かけざるをえないくらい、その空間に自分を置くことで、前日の日曜日のみことばを反復しながら、主が造られた自然の中で主と交わるのです。それが至福のときです。でも、いつも遠くばかり行っているとガソリンがかかるので、最近は北海道開拓の村がとりあえず、そういう場所になっています。一回入場800円ですが、年間パスポートは1500円なので、年間パスポートを夫婦で買って、何度も行きたいときに行って、荒れた心を癒します。
 皆さんも、みなさんにとって、主を覚える、主を感じる、その時間と場所が必要です。これは私が思いついた元気になる方法ではなく、神様の方法です。5節に、「そして、彼を外に連れ出して仰せられた」とあります。外に出て、主が造られた自然界を味わい、同時にみことばを聴く。これこそ、癒しの第一歩。信仰者が何度も立ち向かうために必要な方法です。
 
結論
6節「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」

 アブラムは主を信じました。それは、主を完璧に理解したという意味ではありません。逆にすべてが理解できなくても、その圧倒的な神の偉大さに打たれ、だからこそ自分の無力さの中から、信じるしかない状況におかれたということです。神様の大きく、完全で、力強いその存在の前に、自分の弱さ、罪深さを思い知らされ、だからこそ、このお方に頼るしかないという渇き。これこそ主が求めておられる信仰なのです。「彼は主を信じた」という「信じた」のもとの意味は「アーメン」です。それは、真です。真実です。真理です。という意味です。自分ではなく、主だけが真実であるということがわかって、そのお方に答えていこう。これが信仰です。だから、その信仰が、そのアーメンがアブラムの義と認められたのです。それは、彼の信心深さではなく、あくまで、受けるに値しないものに主が目を留めてくださり、祝福を用意されているという希望を素直に受け入れたということです。
 
 あなたは、主を信じているでしょうか。主を信じるとは、強い心をもって人を裁くことではありません。むしろ、自分の弱さや無力さを認めて、主により頼む人のことです。その弱さを経験した人は、同じ弱さをもって、恐れたり悩んでいる人の友になれます。それは、すなわち、あの恐ろしい十字架の道を歩まれた主イエス・キリストの友でもあるということです。
 ぜひ、今日、もう一度、信仰を吟味しましょう。本当に主を信じているのか。主を信じるとはどういうことか。今週のみことばはまさに、私たちがどのような信仰を持ち続けるべきかが表されています。このみことばを読み、心に刻んでお祈りしましょう。
「何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。」
 これがアブラムの信仰です。