のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

◎ 2019年10月13日 献堂式説教

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説教題 「教会の戸を叩く主」
聖書箇所 黙示録3章14節~22節

 

3:14 また、ラオデキヤにある教会の御使いに書き送れ。『アーメンである方、忠実で、真実な証人、神に造られたものの根源である方がこう言われる。

3:15 「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。

3:16 このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。

3:17 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。

3:18 わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精練された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。

3:19 わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。

3:20 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

3:21 勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。

3:22 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」』

 

序論
 私ども日本メノナイト白石キリスト教会は、1966年に前身のメノナイト札幌キリスト教会から白石教会となってスタートしました。私が生まれたのが1966年ですので、私と白石教会は同い年ということになります。白石教会は、その1966年に最初の会堂を建てて発足したと記録に残っております。そして、1978年にこれまでの会堂に建替えました。そして、この度、2019年にこの新しい礼拝堂を建てることになったということです。
 そう見ると、この53年の間に3つの会堂建築があったということになります。私も53年前の私と現在の私では様子が違うように、会堂もその都度、成長に伴って建物が変わってきたのかもしれません。しかし、いくら成長に伴って外見が変わっても、変わってはならないものがあります。それは、キリスト教会であるということです。もし白石教会がこの53年の間に、キリスト教会ではなくなっていたら、それは笑い事ではなくなります。
 でも聖書を見るときに、世の終わりが近くなると、教会が教会でなくなることが起こってくるとはっきり預言されているのです。
 今日、お読みしたヨハネの黙示録3章20節は、イエス・キリストを信じることを誰かに勧めるときに、よく開かれるみことばだと思います。イエス様はあなたの心の戸をノックしていますよ。だから、素直に、あなたの心を開いてイエス様をお迎えしましょうと。しかし、この文脈を見るならば、ここの場面は、教会の外にイエス・キリストがおられて、教会の戸をノックしている様子であることがわかってきます。
 どうして、キリストが教会の中におられずに外にいて、しかもその教会の扉を叩いているのでしょうか。これはどういう状況なのでしょうか。
 
1.熱いか冷たいか
 この14節から22節までは、ラオデキヤというキリスト教会に向けて書かれた手紙であると言われています。場所は現在のトルコに実在した町の教会です。ここで言われている「アーメンである方」とはイエス・キリストのことです。アーメンとは、キリスト教徒が良く使う言葉ですが、「真理です」とか「本当に」という意味です。イエス・キリストはご自分のことを「道であり、真理であり、いのちです」と仰いました。イエス・キリストこそ王の王、主の主であり、真の神であり、真の救い主です。そのキリストが当時のラオデキヤの教会に対して警告を与えて言われるのです。大きく二つのことをキリストは注意しています。
 一つは、あなたは生ぬるいということです。これは何のことを言っているのでしょうか。それは言い換えて「冷たいか、熱いかであってほしい」とも言われています。それは、この世にキリスト教会として置かれていながら、この世の組織や集団と何も変わらない状態であると言う事ができます。
 この世の中に埋没して、本当にキリスト教会なのか分からないような生き方をしている状態ということになります。
 それはキリストを隠している生き方ではないでしょうか。そのようにするには、理由があると思います。その一つは、大多数の人が神もキリストも信じていないこの日本の中で、ぽつんとキリストを信じていると、浮いた存在になるのではないか。また、聖書の規準はこの世の規準に合わないからと思っているかもしれません。これは、言い方を変えると「地の塩、世の光」として役目を故意的に果たしていないということでしょう。
 私も昔、イエス様を信じて間もなく、仕事をするようになったときに、段々と会社の中で、自分がクリスチャンだということを言い続けることが面倒臭くなったことがあります。日曜日に礼拝に行きたいけど、日曜日に仕事が入ると、日曜日の仕事は休みたいですと、いちいち会社に説明するのが面倒に思えてくるのです。すると、この世の規準に合わせている方が楽だと思えてくるのです。そうしているうちに、段々とその生活にきよさが失われていくのです。
 そして、こう言うようになるのです。「きれいごとだけでは、この世を渡っていけない。」でも、それは聖書のことばでしょうか。いいえ。それはこの世の価値観です。それは、この世の価値観の方に重きを置いて、キリストの言葉を恥じているということではないでしょうか。
 しかし、キリストはこう言われます。「だれでも、わたしとわたしのことばを恥じるなら、人の子もまた、自分と父と聖なる御使いの栄光を帯びてやって来るとき、その人を恥じます」と。だから、ここでも16節でキリストは「あなたを吐き出そう」と言われています。
 このとき、キリストはその教会にはいません。キリスト教会が聖書を後回しにして、この世の規準で動くことは、いくら看板にキリスト教会と書かれていても、そこにキリストはおられません。
 
2.自分は富んでいる
 でも、いやいや、私は大丈夫。きちんとしたキリスト教会です。ちゃんと社会活動、政府批判、原発反対運動やってます。礼拝も毎週欠かさずやっているから間違っていません。きちんと地の塩、世の光として正しくやっています。そう言うかもしれません。
 しかし、17節でイエス様は仰っています。
「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。」
 これが、キリストが示す二つ目の注意です。それは、人のことはあれこれ気がついて批判し、さばくくせに、本当の自分が見えていないじゃないか。
 いくら目に見える大きな活動をしても、自分自身の足りなさ、貧しさ、弱さ、罪深さに気がついていないで、何がキリスト教会か。キリスト教会は聖人君子の集まりではありません。そもそも、罪人の集まりです。人のことを指差す前に、自分は大丈夫なのか吟味する必要があります。
 イエス・キリストはこう言われました。
「兄弟に向かって、『あなたの目からちりを取り除かせてください』とどうして言うのですか。見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。」
 だからキリストは、18節の後半でこのように言っておられます。
「目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。」
 目に梁が入っていたため、かなり目が痛んでいますから、もの凄い効力のある目薬を買う必要があるかも知れません。
 私たちは、他人のことはとやかく言えても自分のことは見えていません。人のことを批判する前に、自分がどれほどのものかを知る必要があります。つまり、私たちがキリスト教会とされているのは、もともと神から離れ、罪の中にいたどうしようもない者であったという事実。そのゆえに神は、どうしようもなく滅びに向かっていた私たちの身代わりとして、御子キリストを十字架につけてくださった事実。そこに、神の愛が示されたという事実。そこに、神の救いの恵みが現された。その事実を、もう一度、はっきりと信仰の目をもって見るために、目薬を買ってでもしっかりと目を開けなければならないのです。
 大事なことは、19節。信仰の目が開かれて、まず、自分の足りなさ、弱さ、罪深さ、愚かさを認めて、悔い改めること。そして20節。
 
3.声を聞いて戸を開ける
「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」
 この言葉はどれだけ多くの人を慰め、キリストに導いたことでしょう。イエス・キリストは、追い出されてしまった教会、または、ご自身で吐き出してしまった教会の外に立っておられます。そして、来る日も来る日も、待ち続けておられます。ここで、私たちは戸を開けなければなりません。でも、それはどうやって、何を手がかりに戸を開けるのでしょうか。イエス様がノックするその音でしょうか。強く叩き続けるその振動によってでしょうか。
 そうではありませんね。こう書いてあります。
「だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら」
 大事なことは、「わたしの声」。つまりキリストの声、その神のことば、聖書のみことばに聞きながらキリストをお迎えするということです。
 大切なことは、私たちのために十字架にかかって死んでくださり三日目に復活された主の声に聞き続けること。これが、キリスト教会がキリスト教会として、絶えず続けていかなければならないことです。聖書は、その神のことば、キリストご自身です。この聖書に絶えず聞き続けることによって、生ぬるくない、人を恐れない、この世の価値観に迎合しない、ただまっすぐにキリストをこの世に現す者へと変えられます。また同時に、聖書を通して、自らの至らなさ、貧しさを知らされ、だからこそへりくだって、聖霊の力に委ねていくのです。
 
結論
 白石教会は新しい会堂を与えられました。非常に嬉しい出来事です。だからこそ、いつも「わたしの声を聴いて」と主が仰ったように、聖書に聞き続ける群れでありたいのです。主の声を聞き分ける群れでありたいのです。そのためにも、このように近隣の主にある教会の皆さんとの交わりは本当に主の恵みです。ですから、益々、諸教会の皆さんとともに主の声を聞きつつ、委ねられている福音宣教の使命を果たしていきたいと思います。


祈り

恵み深い父なる神様。本日、あなたの深い御旨により、ここに献堂のときを設けていただき、またこのように多くの方々を招いてくださり、ともにその喜びを分かち合える恵みを感謝いたします。どうか、この白石キリスト教会が、常に主のことばに聞き続け、キリストご自身がご支配し、キリストご自身の御身にまで達することを願い、その栄光を現す群れとして顧みてください。みことばに感謝し、救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

説教は、川﨑牧師が行いました。
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用意した席がいっぱいになりました。
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今回、お世話になった株式会社AI建築の江崎様へ感謝状をお贈りしました。
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祝辞は、地区牧師会でお世話になっている厚別キリスト教会の小林悦治牧師がしてくださいました。
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