יְהוִ֛ה
"わたしに近づいて、これを聞け。わたしは初めから、隠れたところでは語らなかった。それが起こったときから、わたしはそこにいた。」今、神である主は、私をその御霊とともに遣わされた。"
イザヤ書 48章16節
新改訳2017では、箇所によって、太字の神の表記が使われるようになりました。それは、何故でしょうか。
これまで新改訳聖書は、神の名であるヤハウェにあたる箇所を太字の主としてきたことは、新改訳聖書を使っている人なら誰でも知っていることです。
そもそも、何故ヤハウェを太字の主と表記するのでしょうか。それは、原語のヘブル語でもヤハウェのところは、ヤハウェと発音せず、アドナイ「主」と読むことにしているからです。それはモーセの十戒にあるように、主の名をみだりに唱えてはならないとあることを厳格に守っているからです。またヤハウェという発音も正確な発音かどうかがはっきりわからないからです。
ですから、新改訳聖書もそのことにならって、原語でヤハウェのところは太字の主にしているのです。
しかし、そうなると一つ困ったことが起きてきます。それは、今日の箇所のように原語で「ヤハウェである主」となっている場合、前者の規則にしたがっていると、「主である主」としなければなりません。原語でも読むときも「アドナイ、アドナイ」となり、おかしな言葉になります。それでは、日本語としても変です。かと言ってここだけをヤハウェと読むこともできないため、こういう箇所だけは、ヤハウェのところをアドナイ(主)とは読まずに、神を表すヘブル語であるエロヒームと読むことにしたのです。それで、この新改訳2017においても、日本語で表記するときは、ヤハウェのところを太字で神とすることで、ここの本当の言葉はヤハウェですよと表しているのです。