のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

◎ 2019年11月17日 白石教会礼拝 

説教題 「神の前にとりなすアブラハム」       
聖書箇所 創世記18章16節~33節
 
序論
 先週の月曜日も久しぶりに裁判を傍聴しましたが、今まで傍聴した裁判で、唯一、見ていてなるほどなという裁判があります。それは賃金未払の民事裁判です。ある小さな会社を経営する70代の社長が、その元従業員から給料未払いで訴えられたのです。
 裁判では、原告側(訴えた方)は本人ではなく代理人が来ていました。つまり弁護士です。ところが被告(訴えられた方)には代理人がおらず本人だけが来ていました。殺人とか窃盗などの刑事裁判は必ず被告に弁護士がつきますが、民事裁判は特に決まりがないので、弁護士費用がもったいないと思っている人や、法律に詳しいので弁護士を必要としない人はつけなくても良いのです。
 裁判はまず訴えた方から発言があります。ですから、私が傍聴したその裁判では原告側には弁護士がいますので、丁寧にわかりやすく、給料の未払で被害を受けていることを本人に代わって述べます。その原告側の発言が終わると、次は被告の社長本人が答弁します。しかし社長は法律に詳しいわけでもなく、準備もなく来ているので、「俺は悪くない」と言って、しかも裁判とは関係ない話にずれていくので、何度も裁判官に注意されていました。結果的に話し合いにならなかったという裁判でした。結局、裁判後に裁判官の部屋に呼ばれて、そこで話し合うということになったようです。私は、やはり弁護士は大事だなと思いました。訴えた方にはきちんと弁護士がついているので、どういう被害なのか、何が困っているのか誰にでもわかるように、わかることばで伝えてくれます。でも弁護士がいない社長は、弁護して、とりなす人がいないので、感情的になり、しかも大勢の前で話することも慣れていないので話がまとまっていません。かえって裁判官の印象も悪くなって、不利なまま終わってしまいます。
 私たちの人生にも弁護士は必要です。それはこの世の裁判においてだけでなく、日々の人生の歩みにおいて、そして終わりの日における神様の前に立つ裁判のときに、誰がとりなしてくれるのか。もし、この社長のようにだれも弁護してくれなかったら、どうするでしょう。私たちは自分で自分を弁護することはできません。それは、この社長のように裁判官である神様の前に、的外れなことしか言えず、かえって墓穴を掘ることになるからです。どんな弁解をしても、すべてをご存じの神様の前には言い訳にもなりません。
 今日の箇所は、アブラハムが弁護した場面が出てきます。これから滅びようしている町のために、アブラハムには選ばれた者として、その役目があるのです。その子孫であるイスラエル民族もその役目がありました。その役目とは後に祭司として神殿に仕える職務として確立します。それがつまり神様とこの世の間に立ってとりなすという役割です。それによって、他の民族の人たちも真の神を崇めるようになり、すべての国民が祝福されることに繋がるからです。現実、日本人の私たちが教会に来て礼拝していることは、このアブラハムのとりなしから得ている祝福の延長上にあるということなのです。
 先週は、神様が旅人となってアブラハム前に現れた場面を見てきました。二人の御使いとともに、アブラハムの天幕の前に来て、そこでアブラハムとサラのおもてなしを受けました。アブラハムは奥さんのサラにパン菓子をつくるように言います。それも3セアの上等の小麦粉です。それを食パンに換算すると300枚の食べ切れないくらいの食事でおもてなしをしました。
 今日はその続きです。「その人たちは、そこを立って」というところからです。ここから、アブラハムのとりなしの祈りについてみことばに聞いてまいりましょう。
 
1.神の前に立つアブラハム

16節
「その人たちは、そこを立って、ソドムを見おろすほうへ上って行った。アブラハムも彼らを見送るために、彼らといっしょに歩いていた。」
ここで、まだ「その人たち」と書いてあります。私が「まだ」と言ったのは、前回のところでこの3人の旅人のうち、一人が主であることが、私たち読者には明らかになったので、アブラハムもサラも、わかったのかも知れないと思うからです。
 でも聖書記者が、ここで「主とみ使いたちは」ではなく「その人たちは」と言っているということは、アブラハムにとって、この旅人のことをまだ人間だと思っていると言えるのではないでしょうか。きっと、アブラハムは自分たちのことをよく知っている人たちだなと思っていたのでしょう。
 3人の旅人たちは食パンに換算すると約300枚をたいらげたところで、アブラハムが「パンのおかわりでもどうですか?」と聞いたかどうかはわかりませんが、彼らは帰ることにしました。そこを立ってロトが暮らすソドムを見下ろせる丘まで行こうとしたのです。それを見て、アブラハムも、せっかくだから見送りましょうと一緒に出掛けました。
その道を歩きながら、人の姿をした主は、一人で考え事をしています。お腹いっぱいだな。食べすぎたかなではなく、17節~19節です。
「主はこう考えられた。『わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。アブラハムは必ず大いなる強い国民となり、地のすべての国々は、彼によって祝福される。わたしが彼を選び出したのは、彼がその子らと、彼の後の家族とに命じて主の道を守らせ、正義と公正とを行なわせるため、主が、アブラハムについて約束したことを、彼の上に成就するためである。』」
 ここに書いてあることは、神様の心の中のことです。神様しか知らないことが、ここで読者である私たちには知らされています。これは、これまでアブラハムに対して言われてきたことが、口先だけではなく、心からそう思い願っているということです。しかも、この冒頭のことばに、神様にとってのアブラハムがどんな存在かが表わされています。神様にとってアブラハムはどんな存在ですか。神様は、アブラハムに隠し事をしたくないわけです。隠し事をしたくない相手とはどんな相手でしょう。
 皆さんの中で、隠し事をしない人ってだれですか?夫婦は隠し事があってはいけないと言われます。それは、二人で一人だからです。それから、友達。特に親友ともなると秘密を分かち合う中になるのではないでしょうか。
 神様もアブラハムに対しては、そのような親密な相手だと認めているということです。これは羨ましいですね。神様が、隠し事ができないくらい大好きな人がアブラハムだということです。
 そのアブラハムのことで、主が彼を選んだ目的がここに記されています。それは、「彼によって」というところ。それはアブラハムによって、地のすべての国々は祝福されるということです。これはアブラハムを通して祝福される。アブラハムの中に入れられて祝福されるという意味です。それは神様とすべての国々の間にアブラハムがいるということです。だから、アブラハムの子どもやその子孫に「主の道を守らせて」というのは、アブラハムもその子孫であるイスラエルの民も、祭司としての役目があるということです。先に救われた者は、まだ救われていない人に先立って、しっかりと主の道を守って生きる責任があります。
 決してイスラエル人だけが選ばれていて救われるという話ではありません。世界中の人々が真の神様に立ち返るために、その間に立ってとりなしをする。それが、彼らイスラエル人が先に神に選ばれた者のとしての使命です。
 私たちクリスチャンも同じです。福音を聞いて救われたのは、私たちがだれよりも特別に良い人だからではありません。ただ、神様の御心のうちに先に選ばれただけのことです。その先に救われた者の使命は、まだ救われていない人たちのために祈り、とりなすことなのです。自分だけ救われればそれで良いのではありません。だから、教会では熱心に伝道するのです。それは単なる人数集めではありません。本当に心から救われてほしいからです。それだけです。
 アブラハムもそうでした。神様がソドムとゴモラのさばきについて心の内を伝えたとき、アブラハムはどうしたでしょう。それは、22節。
「その人たちはそこからソドムのほうへと進んで行った。アブラハムはまだ、主の前に立っていた。」
 アブラハムは立っていました。「まだ」と聖書は彼が立っていたことにどんな意味があるのか、私たちに考えさせようとしています。アブラハムは帰らなかった。旅人を見送って、それで終わらなかった。主から聞かされたことによって、彼は帰るわけにはいかなかったのです。主のことばから、アブラハムはソドムとゴモラが滅ぼされることを悟り、このまま知らぬ振りができなかったのです。
 私はこのアブラハムを見るときに、彼は本当に純粋で愛に溢れた信仰者だなと思います。前回も周辺の国々が勝手に戦争をしている分には関わりませんでしたが、ロトが捕らわれたと知ってからは、すぐに救出に向かいました。この行動力と思いやりの深さに彼の純粋な信仰を見るのです。決して完ぺきではありません。だから自分にはない義を主に求めた。小さな自分に目を留めてくださった主ご自身を尋ね求めた。それが彼の義とみなされた。それで彼は神の友と呼ばれた。
 だから神様は彼にさばきの計画があることを打ち明けた。でも、実はその打ち明けた理由はここにあったのではないでしょうか。
 本当にアブラハムによって、すべての国々は祝福されるのか。本当に彼を通して、彼の中で祝福されるのか。でも、アブラハムはまだ立っていた。すぐそばに住むソドムの人たちの祝福のために、ゴモラの人たちの救いのために、彼はそこに残らずにはいられなかった。ここに彼の、いや彼だけでなくイスラエルの、いやイスラエルだけでなくクリスチャンの役割を示すスタートラインがあったのです。それがとりなすこと。祭司としての役割です。
 
2.ちりや灰にすぎないアブラハム
 アブラハムは、ソドムへ向かって行こうとする主に近づいて、このように言います。23~25節。
「23 あなたはほんとうに、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽くされるのですか。24 もしや、その町の中に五十人の正しい者がいるかもしれません。ほんとうに滅ぼしてしまわれるのですか。その中にいる五十人の正しい者のために、その町をお赦しにはならないのですか。25 正しい者を悪い者といっしょに殺し、そのため、正しい者と悪い者とが同じようになるというようなことを、あなたがなさるはずがありません。とてもありえないことです。全世界をさばくお方は、公義を行なうべきではありませんか。」
  ここでアブラハムが繰り返していることは、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼすのかということです。だから、悪い者であれば仕方がないことだが、正しい人がその巻き添えになることが良くないと訴えているのです。ではアブラハムが言う正しい者とは何か。または悪い者とは何でしょうか。
 私たちにとって正しい人とはどういう人でしょう。悪い者とはだれでしょう。皆さんにとって良い人の基準は何ですか。悪い人の基準は何ですか。それって人によってまちまちではないでしょうか。確かに人殺しや盗みをする人は悪いかも知れません。では、嘘をつく人はどうですか。神の言葉よりも自分の考えを優先する人はどうですか。それを言ったらアブラハムだって悪い者ということになります。
 だから実は神様の前に正しい人は一人もいないことがわかります。ソドムの罪は、よく性が乱れていて同性愛が蔓延していたことだと言われます。19章に入ると、その街の様子がわかってきますが、現代では同性愛は罪とは言われません。権利だと言われます。個人の自由だと。しかし、聖書を眼鏡にして見るならば、同性愛というか同性での性的な交わりは罪です。今、こういうことを言うと差別だとか言われるかも知れません。しかし、罪は罪です。しかし、それだけが罪ではありません。同性で結婚生活のような生き方をしている人を指さして罪だと鬼の首をとったように言うことは間違いです。確かに罪を罪としないで良いことにしていることには問題があります。赤信号で渡ることを自由だと言っているようなものです。しかし、罪はそれだけではありません。人に指をさす自分もまた、同性愛ではないにしても、人を憎んだり、淫らな気持ちで見たり、嘘をついたり、その他にも多くの罪を犯して毎日を生活しているのです。そういう意味では全員アウトです。だから、一方的にだれが正しいか悪いかは言えないのです。
 そのことをアブラハムはよくわかっています。なぜならば27節でこう言っているからです。
「私はちりや灰にすぎませんが、あえて主に申し上げるのをお許しください。」
 私はちりや灰にすぎない。これは取るに足らないもの、価値のないもの、ごみのような裁かれる価値もないことを告白します。それは、自分自身こそ滅ぼされても文句が言えない者である。そのことを主に訴えるのです。そもそもは罪人。しかし、主によって先に選ばれた者として、今、できることは目の前で滅ぼされようとしている人のためにとりなすことだったということです。
 神の友となったアブラハムですが、そのことで図に乗らないで、ますます低くされて、へりくだるものとされて、神の前に立っているのです。アブラハムはここで50人の正しい人がいるかも知れないと同じように、45人、30人、20人、10人と正しい者がたった10人だとしても全員が救われるように執成すわけです。
 これが、先に救われた者の役割です。先に救われたのは、何か他の人より優れていたからではない。ただ一方的な神の憐みの中で選ばれたに過ぎません。だから、大事なことは今まさに世の終わりが来て裁きの日が来る前に、またこの地上でのいのちが終わる前に、すべての人が福音を信じて救われるようにとりなし祈ることではないでしょうか。
 
結論
 その究極的な姿がイエス・キリストの十字架です。イエス様は、人々からあざけられ蔑まれつつ、十字架の上で祈られました。
「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」ルカ23:34
 私たちには、天の神様の前でとりなしてくださるお方。義なるイエス・キリストがおられます。イエス様こそ、真のとりなし主です。それは、アブラハムもできなかった、その罪人の罪をすべて自分の身に負うところまで実行してくださったからです。神の前に、祈るだけでなく、その心も体も裂かれて、あなたが受けるべき滅びの身代わりになったのです。この主イエスは復活されて、今もなお、いつも生きていて、天の父なる神の右にいて、信じるあなたのことを弁護してくださっています。イエス様を信じてクリスチャンになっても罪を犯してしまう弱い私たちのことを、いつも父なる神の前にとりなしてくださる。それがイエス様です。だからイエス様は真の大祭司と呼ばれるのです。
 その主に救われた私たちもまた、その主に習って、まだ救われていない家族のため、親戚のため、近所の方々のためにとりなしするのです。そのために家に帰らないで主の前に立っていたアブラハム。そして、私はちりや灰に過ぎませんとへりくだり、だからこそ主の正しさと愛に訴えて、どうかあの愛する方々を救ってください。何度も何度も食い下がって祈るのです。そして、その子孫として生まれ、本当の大祭司としていのちを捨ててとりなしたイエス様。何をしているのか自分でわからない私のために、そしてあなたのために主は死んでくださった。その救いを信じますか。その恵みがあなたのためだったと受け入れますか。
 
 今週、どうかこの主の恵みを受け取って、愛する人たちが救われるためにとりなすものとされていこうではありませんか。