のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

●今日のみことば「信仰によって〜見えない方を見るようにして」

ヘブル人への手紙 11章17~31節

"17 信仰によって、アブラハムは試みを受けたときにイサクを献げました。約束を受けていた彼が、自分のただひとりの子を献げようとしたのです。
18 神はアブラハムに「イサクにあって、あなたの子孫が起こされる」と言われましたが、
19 彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできると考えました。それで彼は、比喩的に言えば、イサクを死者の中から取り戻したのです。
20 信仰によって、イサクはやがて起こることについて、ヤコブエサウを祝福しました。
21 信仰によって、ヤコブは死ぬときに、ヨセフの息子たちをそれぞれ祝福し、また自分の杖の上に寄りかかって礼拝しました。
22 信仰によって、ヨセフは臨終のときに、イスラエルの子らの脱出について語り、自分の遺骸について指示を与えました。
23 信仰によって、モーセは生まれてから三か月の間、両親によって隠されていました。彼らがその子のかわいいのを見、また、王の命令を恐れなかったからです。
24 信仰によって、モーセは成人したときに、ファラオの娘の息子と呼ばれることを拒み、
25 はかない罪の楽しみにふけるよりも、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。
26 彼は、キリストのゆえに受ける辱めを、エジプトの宝にまさる大きな富と考えました。それは、与えられる報いから目を離さなかったからでした。
27 信仰によって、彼は王の憤りを恐れることなくエジプトを立ち去りました。目に見えない方を見ているようにして、忍び通したのです。
28 信仰によって、彼は長子を滅ぼす者が自分たちに触れることがないように、過越の食事をし、血を振りかけました。
29 信仰によって、人々は乾いた陸地を行くのと同じように紅海を渡りました。エジプト人たちは同じことをしようとしましたが、水に吞み込まれてしまいました。
30 信仰によって、人々が七日間エリコの周囲を回ると、その城壁は崩れ落ちました。
31 信仰によって、遊女ラハブは、偵察に来た人たちを穏やかに受け入れたので、不従順な者たちと一緒に滅びずにすみました。"

  ヘブル人への手紙の記者は、ヘブル人ならば誰でも知っている信仰者の名をあげて、それらの人たちが「信仰によって」ものごとに対処したことを取り上げています。

 アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセ、ラハブとありますが、やはり、信仰の父アブラハムは筆頭です。なぜならば、ここに神の贖いの契約における「約束の契約」が締結され、そのアブラハムに対する契約の祝福が最終的にはイエス・キリストを通して成就するからです。そのキリストによって「すべての民族があなたによって祝福される」という約束が果たさられるのです。

 イサクを全焼のいけにえとするモリヤの山での事件は、まさにそのキリストの贖いを指し示すものでした。ここでヘブル人への手紙の記者もアブラハムの復活信仰によってイサクを死者の中から取り戻したのだと言います。しかも「比喩的に言えば」と、この歴史的事実が、もう一つの歴史的事実の喩えになっているというのです。

 それが、イエス・キリストの完成された贖いの業である十字架と復活による、新しい契約における信仰を表すものであるからです。

 ここにある「信仰によって」とは、まさにその復活信仰に繋がっているのだというのが、このヘブル人への手紙の記者が言う「信仰」なのです。

 信仰というと、山を動かすような信仰という言葉もあるほど、信仰者の、何か強い信念とも受け取れる、心の強い状態を言っているのだという感覚はないでしょうか。

 しかし、その場合の信仰はここで言う信仰ではないのです。

 信仰は望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるものだと言うのは、あくまで絶対的な神への信頼であり、そこには強い心の自分ではなく、むしろ弱く貧しく小さな、無力な私がいて、だからこそ、絶対的な力をお持ちの方である神に、その義を尋ね求めるのです。その愛に委ねるのです。

 そのようにして、アブラハムもイサクもヤコブもヨセフもモーセもラハブも、その目に見えないお方である全能の主、死者の中から、よみがえらせることのできるお方を、まさに見るようにして信頼したのです。

 しかし今日の箇所の、このヘブル人への手紙の信仰者の名簿を見ると、何か不足を覚えないでしょうか。アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセとあり、その次にラハブとあります。でも、エピソードとしては、そのラハブの前にはあの堅固な城壁が崩されたエリコの事件が言われているのに、ヨシュアの名が見当たりません。

 聖書を知っている人ならば、ここに何か穴が空いたような、そんな思いになるのではないでしょうか。

 これは、あくまで私の捉え方、私の見方としてですが、このヘブル人への手紙の記者はあえて、ヨシュアの名をここで記さなかったのではないかと思うのです。少し、細かいことを言えば、このヘブル人への手紙が書かれた頃の旧約聖書と言えばギリシャ語訳の70人訳聖書であったと考えられます。

 その場合、ヘブル語のヨシュアの名をギリシャ語で記すと必然的に「イエス」(イエスース)と表記することになります。そうなるとこの信仰者の羅列の一人としてヨシュアならば良いのかも知れませんが、ギリシャ語ではイエスと書かなければならない都合上、ヨシュア記のヨシュアのことなのか、私たちの主イエスのことなのか紛らわしくなります。

 そこで、ヨシュアつまりイエスとは書けなかったのかも知れません。しかし、そのことがますます、このイエスというお方、パウロならばキリスト・イエスと頻繁に使うほど、あのヨシュア記のヨシュアと区別して、彼らの信仰が、この主イエスへの信仰において成就していることを指し示しているのではないでしょうか。ここにヨシュアつまりイエスと書かないことで、確かにイエスが立っておられることを知らされるのです。

 ここに見えないお方を、見るようにする信仰。いや、目に見えないお方が、目に見えるように来てくださったイエスが立っているのだと、私は思わされるのです。

 モーセは、目に見えない方を見るようにして忍び通したとあります。それは。今も私たちに受け継がれています。

 それは、今私たちは、わたしたちのために十字架にかかり死んでよみがえられたイエスを、まさに復活して見える神として、いつも目の前にいてくださるお方として信頼しているのです。

 そのイエスは今日も信じるあなたとともにおられます。イエス様は遠いところからあなたを見下ろしているお方ではありません。今、まさに弱く貧しく小さな私、そしてあなたの中におられるのです。

 そのイエスを今日も見るようにして信頼してまいりましょう。