のりさん牧師のブログ

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◎説教題 「マリアへのお告げ」 聖書箇所 ルカの福音書1章26~38節

2019年12月8日 礼拝

 

序論
 二本のろうそくに火が灯りました。今日は、アドヴェント第2主日です。アドヴェント待降節)は救い主イエス・キリストを待ち望むという意味があります。イエス・キリストはこの世界を照らす真の光、神ご自身が見えるかたちで来られた救い主です。そのイエス様のご降誕はもう2000年も前に過ぎたことですが、キリスト教会では4世紀頃から、このクリスマスを覚えて、もう一度来られるイエス様のことと合わせてこの時期を過ごします。それで、ろうそくに毎週一本ずつ火を灯して、少しずつ明るくなってくることを目で確認しながら、世の光であるイエス様が来られるのを待つのです。
 今日、注目するのはマリアです。ローマ・カトリック教会などでは聖母マリアと呼ばれているくらい有名人です。それは救い主イエス様を産んだ母親として尊敬されているからです。
 これまで私の説教では創世記のアブラハムという人のお話を読んできました。でも教会歴(教会のカレンダー)ではクリスマスシーズンに入りましたので、今日はマリアのところからお話をします。でも決して、アブラハムとマリアが無関係なわけではなく、むしろ関係は大有りです。なぜならば、このマリアはアブラハムの子孫だからです。それがイエス・キリストに繋がっています。
 聖書は、約1300年の間に時代も住む場所も職業も違う40人以上の人たちによって書かれた66巻の本の束ですが、打ち合わせをしていないのに、不思議と一本の筋が通っています。それは、救い主イエス・キリストについて書かれているということです。ですから、これまでの創世記の延長線上に、このルカの福音書があり、そこにイエス・キリストがはっきりと示されているのです。アブラハムへの神様の祝福の約束は、イエス・キリストによって成し遂げられるのです。それが救いです。だからクリスマスは大きな意味があるのです。罪の呪いから祝福へ。死からいのちへ。絶望から希望へと新しくされる喜びを伝える日だからです。だから、そのキリストを待つことに大きな希望を抱かずにはいられないのです。
 今日は、そのキリストの母となったマリアのことを一緒に見てまいりましょう。マリアに御使いが現れたのはなぜか。つまりどうしてマリアが選ばれたのか。そして、そのマリアは信仰者としてどうだったのか。その姿から、いっしょにみことばに聞いていきたいと思います。
 
1.   処女マリア
 さて、マリアがイスラエルガリラヤ地方という、日本でいうと北海道のようなところに住んでいました。北にあるド田舎のことです。
 そこでさらに神様はアブラハムの子孫とは言ってもたくさんいる中から、マリアを選んで、そこに御使いを送りました。26~27節を読みます。
「ところで、その六か月目に、御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった。」
 御使いガブリエルがマリアのところに来ました。天使もいっぱいいたと思いますが、名前まで紹介されているのは珍しいです。しかし、この聖書、ルカの福音書を書いたルカは、それよりも注目点を別に示します。それは「ひとりの処女」ということです。あえて初めから「マリアのところに」とは言わず、「ひとりの処女のところに」と言い、27節で「この処女は」と強調し、その人がマリアだったと記しています。どうして「処女である」ということを強調しているのでしょうか。それは不妊の女性が妊娠するよりもさらに困難な現状を伝えようとしていると見ることができます。結婚していれば、たとえ年をとっていたとしても夫婦であれば妊娠する可能性はゼロではありません。しかし、マリアはそれ以上に結婚すらしていない女性です。このときマリアは12歳から15歳くらいと言われています。それは当時では一般的な結婚できる年齢であったということですが、まだ結婚していません。
つまり処女であった人が結婚する前に神様の力によって身ごもり、そこからイエス・キリストがお生まれになる。ここに大切な意味があるのです。
 これは教会が始まってから19世紀まで疑う人はいませんでした。処女マリアが神様の霊である聖霊によって妊娠して、イエス様を産んだ。
しかし200年くらい前から聖書を自由に解釈する人たちが現れました。聖書のどうもここが信じがたい。だから、マリアの処女懐胎は、昔の偉人にありがちな伝説であって、事実はヨセフかローマ兵かだれかによって妊娠したのだろうと言います。でも、これは大変、誤った解釈です。それは、イエス様は100%神ご自身であり、100%罪のない人間として生れる必要があったからです。それは私たちの罪を贖うために大切な神の業でした。奇蹟でした。しかし、19世紀以降、聖書の中の奇跡的な部分をそのまま受け取ることをやめて、自分の理解の中に閉じ込めて自由に読むことを始めた人が現れました。それが牧師だったので多くの影響を教会に与えていきます。その結果、救いが曖昧になり、生きた神のことばも空しいものにすり替えられてしまいました。ですから、必然的に罪の問題は神話的解釈から生まれた古い教えとして退けられ、イエス様も単なる優れた偉人、立派な教師にされてしまったのです。
 しかし、そうであってはいけません。私たちキリスト教会はキリストの教会ですから、神のことばである聖書を軽んじてはなりません。聖書に「処女マリアから救い主が生まれた」と書いてあるならば、その通り受け取るべきです。なぜならば、このマリア自身が「おことばどおりこの身になりますように」と聖書にある神のみことばのとおりになることがどれほど最善で、最高なのかを指し示しているからです。
 イエス様が乙女マリアから生まれたことは使徒信条でも毎週告白されています。だからこそ、キリストが罪のない清い方であることを受け入れることができるし、だからこそ罪人である私たちの身代わりになることができたのです。死刑囚は死刑囚の身代わりにはなれません。イエス様は罪のないお方だからこそ十字架に神の救いがあるのです。イエス様こそ、すべての人の救いを成し遂げるために遣わされた救い主です。マリアが処女であるということにルカがこだわっているのは、この事実こそキリスト教会にとって譲れない大切な教理のひとつだからです。
 だからこそ、御使いガブリエルはそういう神の御子、救い主を身ごもることになったということを「祝福だ」とマリアに告げたのです。「おめでとう。恵まれた方。」まさに、この挨拶が神様からマリアへの祝福の言葉でした。しかも、それは「主があなたとともにおられます」という、これまでもアブラハムにもイサクにもヤコブにも、主が選んだ信仰者たちに神様が語って来た約束でした。
 
2.  マリアの信仰
 ところが、マリアの反応が興味深いです。29節。
「しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。」
 ここでマリアはひどくとまどったとあります。何にとまどったのか。私ならば、御使いが現れたことにとまどいますが、マリアは「これはいったい何のあいさつかと考え込んだ」とあります。
 私はここで、これまで創世記のアブラハムのところを読んできたという文脈で、この御使いガブリエルの登場と、アブラハムのところに来た、あの3人の旅人が重なります。御使いというと白く輝いているイメージですが、もしかしたら普通の人の姿で現れたのかも知れません。それで、そのお客のあいさつに戸惑ったのではないかと思うのです。
 もしかしたら、このルカの福音書を書いたルカは、創世記のあの場面を意識していたのかも知れません。それはこのあとを読んでいくと、もっとわかってきます。
マリアは御使いガブリエルの訪問を受けて、食パン100枚は作りませんでしたが、御使いが語る言葉を聞きました。30~33節。
「すると御使いが言った。『こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。』」
 ガブリエルが語ったことは、まず、この出来事は神の恵みだということです。恵みと言うのは、それを受けるに値しない者がいただくことを恵みと言います。その恵みとは、皆さんは既にこのマリアの生涯を知っていますから、その人生が良いことばかりではなかったと思わないでしょうか。それは、生まれてくる息子イエスは、33年の人生をまさに自己犠牲の歩みをし、最後は逮捕されて、鞭打たれ、十字架に磔にされるというリンチを受けたからです。自分の息子が大ぜいの人にいじめられている姿は、絶対に見たくない出来事です。でも御使いガブリエルはマリアに、その人生すべてが恵みだとここで言っているのです。それは、間違いなく、彼女を通して生まれたイエスによって、ユダヤ人だけでなく世界中の人たちが同じように神の恵みを受けるようになるからです。
 先日、アフガニスタンで活動していた医師の中村哲さんが銃撃に合い亡くなりました。彼はバプテスト教会のクリスチャンで、生前このように言っていました。「生きていること自体が与えられた恵みなのだ」と。その言葉通り、中村哲さんは、その恵みを自分のためではなく、アフガニスタンの人々のために用いて死んだのです。その死は、神の恵みを生きた中村さんを通して、リアルに神の恵みに生きる人生の尊さを教えています。
 やはりマリアも、イスラエルの小さな村にいた一人の処女でしたが、全人類の救いのためになくてはならない存在として選ばれた。これこそ、やはり大きな恵みでしょう。
 しかも、そのマリアを通して生まれる子どもこそ、旧約聖書でずっと預言されていた救い主キリストだったのです。
 32節に「神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません」とあるのは、彼、すなわちマリアを通して生まれる子が、かつてダビデに主が約束されたメシア(救い主)のことであると言っているのです。マリアはユダヤ人ですから聖書を知っています。ガブリエルのこの言葉が、あのダビデ王に約束された聖書のことばのことだとピンと来たはずです。でも、マリアには常識的な疑問がありました。34節
「そこで、マリヤは御使いに言った。『どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。』」
 マリアにとって、自分が結婚前の身でありながら、どうしてそんなことが起こり得ようかと正直な気持ちを告白しました。
 するとこの場面が、やはりサラが笑った、あの場面と重なってきます。不妊の女であったサラに「来年には子どもが与えられている」と言われて、サラは笑っちゃいました。そんなことあるわけないでしょと。同じような場面でマリアはどうするか。マリアも笑うのか。いいえ。マリアはこっそり笑うよりも、正直に不安な自分、信じ切れない自分のことをガブリエルに打ち明けました。
これがマリアの信仰その1です。素直に信じ切れない自分を打ち明けること。この素直さが信仰には大切です。信仰者ぶらない。信じていないのに信じている風に振る舞わない。昔、ダビデの時代に、サウルという王様がいました。今、ちょうど水曜の聖書研究会で学んでいるところです。このサウルという王様の言動は一見信仰者っぽいのですが、それがうわべだけであることが、段々とばれていきます。それはサウルにとって信仰とはイスラエルの王様として、民から信頼されるために必要な道具であったからです。自分をよく見せるために使う道具です。
でも、それは信仰を持っているという私たちにも起こりうることではないでしょうか。
 特に信仰歴が長くなるとクリスチャンらしく振る舞うことに慣れてきます。それが真の信仰に裏打ちされた姿なのか、表面的に取り繕っているのか。それは神様しかわかりません。あとは自分で気づかされて、素直に告白するかどうかです。本当はどうなのか。うわべを取り繕ってかたちだけのクリスチャンになっていないか吟味が必要です。大切なのは、このマリアのように不信仰なところを隠さず述べて、神の前にさらけ出すことです。
 そして、マリアの信仰その2は何でしょうか。それは38節です。
「マリヤは言った。『ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。』こうして御使いは彼女から去って行った。」
 マリアは「ほんとうに、私は主のはしためです」と言いました。この言葉は、48節のマリアの賛歌と呼ばれる預言でも使われています。これが、マリアの信仰です。「主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです」と、自らを低く、小さく弱く愚かな者であることを主の前に告白しているのです。マリアはどうしてこのような告白に導かれたのか。もともと謙遜な女性だったとも言うことができるかも知れません。しかし、この37節のガブリエルの言葉に大きな意味があると思います。
 
結論
「神にとって不可能なことは一つもありません。」
アブラハムにも、あの旅人の姿をした主はこう言いました。「主に不可能なことがあろうか」
 ここでもあのアブラハムの場面と重なります。神に不可能はない。それは、神は全能であるという宣言です。あのアブラハムにかつて語られたエルシャダイ(全能の神)という神の名前を思わせる、神の聖なるご性質に関わる宣言です。この宣言の前にマリアは自分の弱さ、小ささ、それだけでなく罪深さを知らされ、そういう自分が浮き彫りにされたのではないでしょうか。
ここが信仰者として最も大切なことです。聖なる神の前に自分の汚さがわかること。愛である神の前に愛のない自分が明らかにされること。義なる神の前に嘘偽りの多い醜い自分がはっきりと照らされることです。そして、それを隠さず認めて、主の前に告白することです。
あなたはどうでしょうか。立派な信仰者として自分をアピールするでしょうか。自分がこれだけのことをやってきましたと、豪語するでしょうか。自分は大丈夫だと言うでしょうか。それとも、神の前に罪深い自分を認めて、私は主のはしためですとへりくだって、しかも、主のみことばの通りになることを願うでしょうか。
 これから、もう一度来られる主は、このマリアのようにへりくだって罪を認めて、神のことばにより頼む者を招いています。今日、ここに来ている皆さんが、主に招かれ、呼ばれて来ている一人ひとりです。ぜひ、マリアのように低くなって主の恵みを受け取ってください。そうするならば、あなたの人生がどれほど神の恵みで満ちているかが見えてきます。不幸に思える歩みに見えても、そこに不可能を可能にすることのできる全知全能の主が立っておられるのです。
 
祈り
「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。」
愛する天のお父様。御子イエス様は、処女マリアを通して罪穢れのない姿でご降誕くださりありがとうございます。それによって、私たちの真の救い主として十字架で身代わりの死を遂げてくださいました。そして、その死から三日目に復活させてくださり、今もなお、父の右に立ち私たちのために執成していてくださり感謝いたします。その主がもう一度来られると約束があります。どうか主よ。このマリアのように、自分の信仰を飾らず、またあなたの前にへりくだって、あなたのお言葉通りになることを願うものとならせてください。どうか、私たちの心を点検してください。あなたからのお招きに信仰をもって答えていくものとならせてください。