のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

●2019年12月17日「神とともに歩むこと」

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ミカ書 6章8節

"主はあなたに告げられた。人よ、何が良いことなのか、主があなたに何を求めておられるのかを。それは、ただ公正を行い、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神とともに歩むことではないか。"

聖書 新改訳2017

 

  信仰生活は形式に陥りやすいものです。神を礼拝することは、そもそも神によって祝福の立場へと招かれ、その恵みに与っているに過ぎません。私たちの功績によるものはいっさいありません。一方的な神の恵みだからです。

 罪人が赦されて聖なる神に受け入れられている奇蹟なのです。

 

 しかし、たとえば主を礼拝する恵みも毎日、毎週続くと感謝が薄れて、自分が自分の意思で来ていると、当たり前になって来るのです。そうなると礼拝はマンネリ化して、そこで為される一つひとつの業が、かたちだけのものになり、喜びが失われて、ただ礼拝行為を嫌々ながら、または何も考えないで、行っているに過ぎなくなるのです。それは、そこに高慢な心があるからです。自分の力で祝福を得ているかのような傲り高ぶりは、信仰とは真逆の態度です。神が求めているのは、「ただ公正を行い、誠実を愛し、へりくだる」ことです。

 

 預言者ミカは、その形式的な礼拝を戒め、主が何を求めておられるのか。主が喜ばれる礼拝とは何かを示します。このことばは、以前に預言者サムエルがサウル王に告げた言葉と似ています。

 

サムエル記 第一 15章22節

"サムエルは言った。「主は、全焼のささげ物やいけにえを、主の御声に聞き従うことほどに喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。"

 今日、もう一度、主への愛を確かめたいものです。毎日のディボーションも、祈りもみことばを聴くこともかたちだけならば喜ばれません。また、かたちを守っていることで、何か自分が信仰生活を正しく行なっていると自負しているなら、それもまた吟味が必要でしょう。

 

 かたちだけの夫婦生活を喜ぶ夫婦がいるとしたら、それは実に病的な状態でしょう。同じように、主への愛が枯れていないか点検しましょう。もし枯れていたなら、もう一度、父が御子を与えるほどにあなたを愛しておられることを聖霊によって受け止めることが出来るように祈りましょう。

 神への愛は、神から愛されていることを抜きにしては始まりません。

 あなたのために、なされた御子イエス・キリストの犠牲は、あなたへの真の愛の証しだからです。神とともに歩むとは、神に愛されていることを受け取り、私たちも神を愛して歩むことなのです。

 

"私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。"
ヨハネの手紙 第一 4章10節