のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

● 説教題 「羊飼いたちの礼拝」 聖書箇所 ルカの福音書2章8節~20節

序論
 ちまたではクリスマスムードが漂い、赤や緑の色どりでクリスマスリースやクリスマスツリーがあちこちに飾られています。普段、まったくキリスト教にかかわっていない人でも、だいたい、お祝いムードでパーティーなどが行われます。
 そのようなクリスマスムードに一役買っているのが、クリスマスソングだと思います。赤鼻のトナカイやジングルベルは讃美歌ではありませんが、ほとんどが讃美歌です。
 その讃美歌の多くは、聖書のクリスマスの情景を歌ったものが多いです。今日、始めの方で歌った「荒野の果てに」、次は「いそぎ来たれ、主にある民」、そして説教の後には「聞け、天使の声」はクリスチャンでなくても聞いたことがあるのではないでしょうか。
ここで問題です。今日皆さんで歌う讃美歌に共通している聖書のストーリーは何でしょうか。
 それは「羊飼いたちの礼拝」のお話がそのまま歌になっているということです。どの讃美歌にも、先ほど司会者の方に読んでいただいたルカの福音書2章14節の天使の言葉が歌詞に入っていました。それは「いと高き所に、栄光が、神にあるように」です。グロリア、イエクセルシス、デオとは「いと高き所に、栄光が、神にあるように」という意味です。
 そのくらいキリスト教会は、今日の聖書の箇所を出発点として、繰り返し繰り返し歌ってきたのです。それはどうしてでしょうか。それは、ここに本当のクリスマスの意味があるからです。羊飼いたちの礼拝。それこそ、現代の私たちキリスト教会につながる礼拝の原点があるからなのです。
 今日のクリスマス礼拝は、この羊飼いたちの礼拝をとおして本当のクリスマスの過ごし方と礼拝の意味についてみことばに聞いていきたいと思います。
 
1.礼拝は招きから
 8節~9節を読みます。
「さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。」
 今日の登場人物で注目するのは羊飼いたちです。皆さんは、羊飼いを見たことがありますか。お友達などで羊飼いをしている人はいるでしょうか。なかなかいないと思います。牧場を経営している人がそれに該当するのかも知れませんが、飼っていても、せいぜい牛や馬だと思います。私は子どもころ、創成川沿いに住んでいまして、そこでヤギを1匹飼っていたことがあります。3~4歳の頃でした。だから、そういう意味では一時的にヤギ飼いの少年だったのかも知れません。
 羊飼いというのは、昔から遊牧民の仕事でした。イスラエル人とはもともとヘブライ人とも呼ばれて、渡ってきた人たちという意味があります。アブラハムモーセダビデも、みんな羊飼いでした。何よりも神様ご自身が羊飼いと言われていました。羊飼いは、羊を守るために命を捨てる職業です。イエス様も「良い羊飼いは羊のためにいのちを捨てます」と言われました。そして「わたしがその良い羊飼いです」とおっしゃいました。
 ですから、そうみるとよい職業だと思います。なにせ神様と同じ働きをさせていただけるのですから。
しかし、実際は、当時のイスラエルでは大変蔑まれていた職業であったそうです。取税人や遊女と同じような扱いを受けていたようです。それは、まず動物を扱う仕事として軽蔑されていました。不潔な仕事だとされていました。汚れると思われていました。また、当時は様々なおきてを厳しく守ることが信仰者として尊敬されていましたので、動物の世話があって礼拝が疎かになる羊飼いたちは、蔑まれていたのです。また人口調査に該当しないほど低い地位だったとも言われています。3節に「人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った」とありますが、その人々の中に含まれていないから、ここで羊の番をしていたと言うことができます。
 そこに天使が現れます。ここはマリアのときとは違う現れ方です。ここでの羊飼いたちの驚きは、闇に包まれていた牧草地に目がつぶれるほどの栄光を見たことによる畏敬の恐れです。びっくりしたのです。しかも、照らした栄光は天使の栄光ではなく「主の栄光」であったと書いてあります。天使も被造物ですから、礼拝の対象ではありません。あくまで主の栄光が照らしたのです。ここに、礼拝の出発点が誰なのかが示されています。それは主の栄光です。つまり主ご自身の臨在があって礼拝ができるのです。それは当たり前のことだと思います。しかし、ここで注意したいのは、彼らが望んでこの場面に遭遇したのではないのです。何の理由も書かれていない。ただ主の一方的な選びがあったことだけがわかるのです。
 礼拝の出発点は、礼拝されるべき神がおられるという事実です。私たちが家を出て教会に出かけることが出発点ではないのです。しかも、礼拝とは私たちが出向くよりもまず、神様の方が近づいてくださっているということが、ここからわかります。礼拝のボールは神様の側にあって、それが人間の方に投げられる。そのボールをどう投げ返すか。しかも、ここで礼拝の司会をしている天使は自分の栄光ではなく主の栄光を表しているという、ここに礼拝奉仕者の模範を見ることができます。礼拝奉仕者は自分を隠し、自分が前に立っていても、あくまで主の栄光を表すのです。
 その天使はそこで招きの言葉というボールを投げました。つまり、礼拝に招いている理由を伝えます。10節。
「御使いは彼らに言った。『恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。』」
 これは、神様が羊飼いたちを礼拝に招いていることばです。まずは、「恐れることはありません」アブラハムにも語られた主なる神様のいつもの安心できるフレーズ。ほっとさせられる言葉です。天使が語っていますが、これは主のことばです。私たちも礼拝司会や説教者によってみことばが読まれ語られますが、それは主のことばとして聞いているはずです。ここで羊飼いたちは、天使たちが来たのは、民全体の喜びの知らせ「福音」メッセージを伝えるためであること。そして、こう言います。11節~12節。
「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」
 誰にも相手にされていない羊飼いたち。しかし、ここで主はみ使いを通して「今日、今、この時、「あなたがたのために」と、二回も繰り返して、他の人間は見捨てても、神であるわたしはあなたを見ているよ。あなたを呼んでいるよ。招いているよ。「救い主がお生まれになった」「あなたがたのために」と声をかけてくださったのです。確かにこの民全体のための良き知らせです。しかし、そのうれしい救い主誕生の場面にまずあなたを、今ここにいるあなたがたを選んで招待するよと言ってくださる。しかも特別にだれが救い主なのかがわかるように目印を教えてくれました。
「あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます」何という恵みでしょうか。羊飼いにしたら、きっとずっと驚きっぱなしだったに違いありません。普段とは全く違う野宿。いつもとは全然違う夜番。ここで天使を通して神様からのメッセージを聞いて、羊飼いたちの心が恐れから段々と
燃やされてきます。喜びが湧いてきます。
 
2. 賛美しつつ礼拝から派遣される
ここでどうしましたか。そう、ここで神を賛美するのです。
 しかも、羊飼いたちが慣れていないので、天の軍勢が聖歌隊として賛美を導いてくれました。
「すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言った。『いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。』」
 その賛美がどのくらいの時間だったのか、まったくわかりません。ただ言えることは、招かれ、メッセージをいただき、賛美をささげた羊飼いたちは、互いにこういわざるを得なかった。
「主が知らせてくださったこの出来事を見て来よう」
 ここでようやく救い主イエス様に会いに行く決断をします。み言葉と賛美で心が燃やされて、その招きに答えようと決意したのです。羊飼いたちには、あの東方の博士のような輝く明るい星はありません。それは、生まれたての赤ちゃんが飼い葉おけに寝ている。これが彼らに与えられた印だったからです。
小さなベツレヘムという村に入ると、捜し当てるのにそんなに時間はかかりませんでした。羊飼いたちは、マリアとヨセフと、飼い葉おけに寝ている赤ちゃんのイエス様を捜し当て、そこで天使のメッセージの通りだったことを証ししました。
 ここでメッセージ、つまり説教と証しの違いがわかります。天使は主のことばをそのまま伝えました。それが説教です。神から預かった言葉を語るのです。現代では聖書が完成していますので、聖書で語られていることを伝えるのです。また羊飼いたちは、そのみことばを聞いて体験した恵みを分かちいました。それを聞いた家畜小屋にいた人々は、羊飼いの証しを聞いて驚きました。それは、羊飼いたちが体験した主の恵みを語ったからです。証しというのは、信仰体験を通して神様をほめたたえることです。武勇伝や自慢話とは全く違います。主のことばが自分の生活の中で生きて働いたという、主が今も生きておられる恵み、こんな弱く貧しいものを顧みてくださったという主の憐みを語るのです。
 この出来事を通してマリアはすべて心に納めて思い巡らしました。このことは、のちに福音書を書くために取材に来たルカに伝えて、この福音書を書くのに用いられたでしょう。
 そして、そのあと羊飼いたちはどうしたでしょうか。どのように帰ったでしょうか。20節
「羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。」
 羊飼いたちは、東方の博士たちのように立派な贈り物、ささげものは持っていませんでした。それは本当に何も持っていなかったからです。それでも礼拝に来ました。羊の番をするという仕事を置いて、その時間を使って、イエス様にお会いしたのです。ここは神様からのチャレンジでした。それは博士の黄金、乳香、没薬に比べたら金銭価値では劣るものでしょう。しかし、主の前には尊いささげものだったのです。
 何も持たないようで持っているのが、神に救われた者です。羊飼いたちのささげもので、この2000年間どれだけの人が励まされ、慰められたかわかりません。
 そして、最後のこの素朴で、まっすぐな信仰者の姿。新約聖書最初の礼拝、羊飼いたちの礼拝が、現代の私たちの模範です。みことばの通りだったことを喜び、神をあがめ、賛美しながらと書いています。それは、彼らの人生が変わったことを伝えています。社会から、国家からのけ者にされていた人生。人間としての数にもいれられていなかった人生。その希望がなかった人生に、賛美が始まったのです。おそらく、このときの賛美は、あの天の軍勢聖歌隊から導いてもらったあの歌でしょう。
『いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。』
 
結論
 私たちの人生も、主イエスに出会って、この方を愛し礼拝し続ける中に、賛美しながら歩む人生が起こります。
 羊飼いたちは、思いがけずイエス様の礼拝に招かれ、みことばを聞き、賛美し、証しをし、今度は主を礼拝し救いをいただいたものとして派遣されたのです。そこで心が満たされ、「賛美しながら帰っていった」のです。
 主を信じる者の歩みはすべてにおいて、「神をあがめ賛美しながら」の人生です。神を賛美しながら朝起きて、賛美しながらトイレに行って、賛美しながらご飯作って食べて、職場、学校、家庭の中で、それぞれ神を賛美しながら生きるのです。なんて素晴らしい人生でしょうか。
 
 私たちも、今日、このクリスマス礼拝に招かれ、みことばを聞き、賛美しています。そして、またそれぞれのところに遣わされます。ではその遣わされたところで何をするのか。
 心配いりません。ここから出て喜んで神を賛美しながら生きるだけで十分です。この礼拝から神様を賛美する喜びの人生が始まるからです。