のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

●要約 舟喜 信 著 制度によらない「一つの教会」

A. 序論 
 新約聖書におけるキリスト教会は、「制度によらない一つの教会」を歴史的事実として表している。しかし、それは多くの主の教会を結び合わせる外的な組織がなかったということで、必ずしも当時の各地域教会にまったく組織的な営みがなかったというわけではない。むしろ、後に拡大し強くクリスチャンたちを結び合わせる組織的、制度的な営みが当初よりあったことは明らかである(使徒6章、15章等)。このような中で「制度によらない一つの教会」は、歴史における事実であり、その歴史を通して語られる教会の事実であった。それは、大きな勢力として組織化された教会を持って現されるものではないし、行き過ぎた多様化によって壊されることもなかった。それは、信仰によって起こされていく教会としての行動が、正しく果たされていくための枠組みであり、この原理は現代の教会とその業のために掲げるべき前提である。


A-1. 教会が聖書の原則に忠実であるということ
 現代の教会が聖書に忠実であろうとするとき、新約聖書に記されている教会の姿にそのまま戻ることはできない。教会政治におけるかたちも何が最も正しいスタイルか明確に支持する文言を見つけることはできない。その本質は、教会の形態よりも教会の存在自体の在り方において問うているのである。パウロが育てた教会は、何れも「一つの教会」として実を結ぶ苦悩を経験した。しかし、それは一致を生み出す苦悩ではなく、もともと一つとされている群れが相応しく整えられるためのものであった。つまり、地域教会が一つでなければならないということではなく、既に教会が一つであるという事実が、教会の在り方を決めていくために大きな意味を持っているのである。そのために、教会が聖書的であることは、教会の在り方の全領域において問われ、理解され、生きなければならない事実である。


B. 「一つの教会」であること
 クリスチャンは地域の群れにありながら、同時に「いたるところ」(Ⅰコリント1:2)にいるクリスチャンたちと同じ群れに繋がっている。この二重の立場があるという理解がエクレシアという言葉の用いられ方によっても明らかにされている。家の教会も一地域のクリスチャン全体も、全てのクリスチャンを含む全体もすべてエクレシアである。それは各地域教会が大きさに関わらず、その地に現された「一つの教会」としての性格を持っており、小さな教会が大きな教会の下部組織ではないということであり、「一つの教会」は全地域教会の総和ではなく、一つの地域教会が教会全体をその地において代表しているのである。


C. 「一つの教会」となること
 地域教会がそれぞれ特色を持ち違って見えるものがあったとしても、それは「一つの教会」であることの妨げになるのではない。なぜなら、教会が一つであるのは、同じ福音によって存在しているからである。福音は隔たりを取り除く力であり、「一つにする力」である。教会は福音によって一つにされているという、その一点において成立しており、十字架の和解なくして本来の一致はない。「一つの教会」は教会の状態を表わすというよりも、あらゆる違いを一つにする福音の働く場であると言える。それは単に個々のものを一つとするだけでない、一つとされたものが一つのものとして実を結ばせる聖霊の業である。「一つの教会」自体が聖霊の働きだからである。初代教会が味わった、教会内の分裂とそれを癒すための働きは、外に向かう和解の福音による分裂を癒す働きと同時進行である。多くの人が一つとされた地域教会は、内部的にもまた外部に対しても一つとなる業を成し続けるのである。パウロは教会の分裂を目の当たりにして、本来別々の者たちが一つにされることによって起こる緊張状態の現実を知った。それは教会には多様な階層の人々によって構成されているという現実である。だからこそ和解の福音によって一つとされる意味があり、変革され続けるべき責任を、この世の現実にあって負っているのである。


D. 「一つの教会」の展開
 パウロが伝道旅行中に各地域教会から集めたエルサレム教会への献げものは、各地域教会が群れとしてエルサレムの教会の人々と一つであることの証しであった。これは既に制度によらない教会が一つであって、そのゆえに何を考え、いかに行動するかを決める能動的な力の現れである。この現実が世界へと拡大したとしても、本質において変わるべきことではない。組織や制度化によって一致が表現される状況においても、本当の一致は、既に一致している事実に参与し、一つの教会とその業の中に生きることによって知るべきである。また、この世に対しても、教会は教会の外の世界と生き生きとした関係を持ちながら、「一つであること」を拡大する働きをいつも続けている。それは、教会はあくまでもこの世にあり、この世に手を伸ばし続ける存在だからである。
 
 
感想
  私は救いに与ったときから、教会が一つであるという概念が歪んでいたように思います。私が洗礼を受けたブラザレン派の群れは、それこそ制度によらない群れを目指していました。それは、新約聖書に記されている初代教会の本質的な在り方を、そのまま現代の地域教会に当てはめて、可視的にも現実的にも適用するというものでした。制度や組織を拒否し、非現実を現実としようとしていたのです。しかし、真の現実は、実際は制度化されていることをされてないとし、組織立っていることをしてないとするへそ曲がり的な解釈でしかありませんでした。
 目に見えないキリストのからだなる教会と地域教会を意識しつつも、この世に置かれている教会の現実を直視しない姿勢は、果たして聖書に忠実なのかと疑問を覚えたことを思い出します。天的なものが世的な中に置かれる現実は、パウロが体験した苦悩であり、現実的に「一つの教会」が一つであることの実を結ぶ、その苦悩の過程の中に見ることができます。聖書はその事実を、それこそ忠実に私たちに投げかけ考えさせているのです。だから、私たちは常に福音によって考え、十字架の恵みに立って、既に得ている「一つの教会」としての恵みを味わい、また考えていく必要を覚えます。そのために、現代を生きる私たちキリスト者に求められていることは、何が問題かを見極める洞察力であり、識別力であると思います。そこには歴史的な検証、または経験的検証を必要とします。
しかしながら、教会が主のからだなる群れとして存在するために欠かせない、聖霊の働きとみことばによって教えられ、整えられ、造りかえられていくために、聖書的検証を中心とした取り組みの必要性も思わせられます。その中で、主イエスがこの世で為された業とそこにある主のお心に益々近付くものでありたいと願わされるのです。
 この度、本書を通して、主の群れが一つであるという事実を土台とした地域教会に置かれている者として意識していくことの重要性を認識することができました。主がいのちを捨てるほどに愛された教会に置かれた私が、十字架の恵みに生かされて、主が愛された兄弟姉妹とともに「一つである教会」を意識する者、そして「一つである教会」が、教会の中での在り方を決める基本概念としてみことばが示している真理として、信じていく者でありたいです。
「私は祈っています。あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように。またあなたがたが、キリストの日には純真で非難されるところがなく、イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされている者となり、神の御栄えと誉れが現わされますように。」ピリピ1:9~11
 
 
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