のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

◎ 2020年2月2日 白石教会礼拝

説教題 「せっかく救われたのに」     
聖書箇所 創世記19章30節~38節
 
序論

 先週は、ソドムへの裁きという恐ろしい場面を見てきました。さばき、滅びという、なるべく避けたい部分を皆さんと一緒に読んできました。
 今日は、その続きですが、ここもまた、なるべくなら読み飛ばしたい箇所の一つです。でも聖書は神のことばですから、ここに神様からのメッセージがある。そう信じていきたいです。創世記には、まだまだ、このような性的な罪を生々しく伝えている場面があります。
 私たちが、こういう場面を嫌う理由の一つに、自分も同じものを持っているから恥ずかしくて怒ったり、避けたりするとある心理学者が言っていました。自分の子どもを見て腹が立つときというのは、その子に自分の醜さが見えているときだと言うのです。もしかしたら、聖書を読むときも似ているかも知れません。
 今日の箇所は、ソドムの町から命からがら逃げて、逃がしてもらって、救われたあとのロトの生活について書かれています。彼は救われた側の人間ですが、その生き方はどうだったでしょうか。神に選ばれ、神の憐みを受けた者として、そのあとの人生はどうだったでしょうか。
 私たちの信仰生活はどうでしょうか。救われた者として、どんな歩みをしているでしょうか。また、神を信じてなおもこの世で生きるとはどういう意味があるのでしょうか。
 今日で一応、創世記からの説教はお休みにして、来週からは、マタイの福音書に戻ります。そういう意味でも、神様がこの創世記を通して私たちに何を語っているのか。そして、これまでのところから何が語られてきたのか。みことばに耳を傾けていきたいのです。
 それで今朝は、アブラハムの甥っ子ロトの救われたあとの生き方から、私たちの信仰のあゆみについて、みことばに聞いていきたいと思います。
 
1.ほら穴の中のロト

 その後のロトの生活はどうであったと聖書は記しているでしょうか。30節。
「その後、ロトはツォアルを出て、ふたりの娘といっしょに山に住んだ。彼はツォアルに住むのを恐れたからである。彼はふたりの娘といっしょにほら穴の中に住んだ。」
 ここに「その後」と書いてありますが、もとの聖書にはないことばです。新改訳第3版だけがこう訳していて、他の日本語訳では、「ロトは」から始まります。その後と書いてあると、29節から30節の間に少し時間が経っているように見えます。でも、ここは29節からそのまま繋がっているのです。つまり、ロトは御使いに山へ逃げなさいと言われたけれども、19節で「山へ逃げることができません」と断りました。逃げきれないので近くの町ツォアルで良いでしょうかと言って、変更させたのはロトでした。でも、彼はツォアルという町にはとどまらないで通過して山へ向かったのです。そういう意味です。
 その間、妻は塩の柱になり、ソドムとゴモラの町は、滅びたのです。ノアのときは大洪水で滅ぼしましたが、今回は硫黄の火を天から降らせて滅ぼしたのです。神様は、ノアの洪水のあとで、もう二度と水で滅ぼすことはしないと言われましたが、今回は水ではなく硫黄の火だったのです。しかも、天の主のところから降ってきたというのが、この裁きに神様の意思があることを示しています。
 ロトは、その光景を目の当たりにして大変恐ろしかったと思います。あんなに繁栄していた町が、一瞬にして火によって焼かれ、人々は死んでいきました。ですから、30節にあるようにロトがツォアルに住むのを恐れた気持ちはわかります。しかし、その恐れは彼の主への感謝を忘れさせ、主の憐みによって救われたという恵みすら遠いものになっていきました。
 21節で、御使いは彼に約束しました。「よろしい。わたしはこのことでもあなたの願いを入れ、あなたの言うその町を滅ぼすまい」
 しかし、彼はその約束を、そのことばを信じ切ることができなかったのです。ここでの問題点は何でしょうか。
 彼がツォアルを出て山へ行ったという事実でしょうか。そうではありません。
御使いを通して与えられた主の約束、みことばに信頼できなかったということです。主を信じられなくなった。ここがロトの問題点です。
 このことは、聖書のいたるところに書かれている私たち人間の問題点です。
 本来、人間には霊が与えられていて、目には見えなくても神様と交わり、みことばを聞いて信頼して歩めるはずなのです。でも、人間は神のことばよりも自分のルールを優先し、神のことばを後回しにした結果、その秩序が崩れてしまい、私たち人間は、目に見えるものが全てという価値基準、目に見えるものによって安心を得るように変わってしまったのです。
 だからお金をたくさん持って、他の人よりもそのことで優位に立とうとする。そこに名誉欲も湧いてきて、そこにあるのは常に自分を他の人よりも一枚も二枚も優位な立場において安心したいのです。
 学校で子どもがいじめをするのも、いじめられるターゲットに自分がなる前に、誰かと大勢でグルになってターゲットを決める。そうすることで自分の身は安心できる。そういう安心の仕方を求めるところに私たちの罪があるのです。でも、本当の安心というものは、実はお金で買うことができません。
 どうして、私たちは安心を求めるのでしょうか。それは、常に心にすきまがあるからです。私たちの心にはいつも穴があいていて、そこからすきま風が吹いてくる。そのときに、寂しいとか、不安とか、絶望が起こると聖書は言います。なぜでしょうか。それは、そのすき間のかたちは神のかたちをしていて、その隙間を埋めることができるのは神だけだからです。
 人間が神のかたちにつくられたと聖書は言います。そのかたちが、人間の罪によって損なわれ、神のかたちの隙間がポーンとできてしまった。だから、神によって埋めれば良いだけなのに、私たちは、そうではなく自分の価値観で埋めようとする。しかし、どんなにがんばっても無駄です。私たちの魂のジグソーパズルのあとワンピースは、必ず神様にしか埋められないのです。どんなにあがいても、人間の力でも、他の良い教えでもだめなのです。その隙間は神のかたちだからです。
 ロトは、主の憐みによって救われたにも関わらず、主に感謝できず、その隙間を主によって埋めることを忘れ、山に向かって行き、二人の娘とともに、どこに住んだのでしょうか。それは「ほら穴の中」でした。
 これはどういう意味でしょうか。とりあえず住む場所がないので、キャンプしたということでしょうか。そうではありません。このロトの姿は、彼の落ちぶれたことを表しています。
 ロトは、そもそもアブラハムと同じ遊牧民です。「あなたは何人ですか」と問われれば「ヘブル人です」つまり、「渡ってきた者です」と答えるほど、もともとの彼らの住まいは天幕だったはずです。その天幕を造る技術はどうしたのでしょう。または、ソドムで暮らすようになってからは家に住んでいました。その家だって作る気になれば作れたのではないでしょうか。
 しかし、彼はそうではなく、ほら穴に住んだ。つまり獣のように生きることを選んだということが言えます。
 何が彼をこんなにも落ちぶれさせてしまったのでしょうか。私も、このロトの話を始めてから、聖書全体の文脈からと言って、「義人ロト」と何度も弁護してきましたが、もう無理という気持ちになってきます。
 しかし、このロトの姿に、私の姿を見るのです。主の憐みによって、罪の滅びから救われて、今、こうしてクリスチャンとして生かされているのに、何と感謝の少ないものか。また、救われたことを喜び、主の家を建てていくべき責任がありながら、ほら穴にいるような後ろ向きな生き方をしていないだろうか。
 このロトを見て思うのです。みなさんはいかがでしょうか。
 いや、ロトは目の前で奥さんを亡くしたから、そのショックが大きいのだ。そういう意見もあるかも知れません。でも、今私達には、イエス・キリストが与えられており、そのキリストがこの妻の代わりに、また私の代わりに、あなたの代わりに十字架にかかり神の怒りを受けてくださったのです。その主の姿を見て、何とも思わないでしょうか。神の怒りをすべてその身負い、心もからだも裂かれた、その姿は、だれのためですか。
 その主を見るときに、私たちの心の重荷は消え去り、すべての思わずらいは消え去ります。一見、理不尽に思えるあのことも、このことも、全能の神が味方ならば、その愛の御手に委ねることができます。すべては主の御手の内にあることとして、お任せし、むしろ今、与えられている神の子ども、主の弟子という使命に生きるように願わされるのです。そのくらい、主の十字架の贖いは完全であり、信頼するに足りる神の救いなのです。
 
2.救われた者の希望
 その思いをロトは持つことができませんでした。31節以降は、ロトの判断というよりは、娘たちのはかりごとでした。35節によれば「ロトは彼女が寝たのも、起きたのも知らなかった」と書いてあります。
 彼女たちが、このようなことを考えたのは、情欲に掻き立てられてというよりは、ロト一族としての存続がかかっていたという大義名分があります。確かに、神様は天地創造のときに「生めよ、増えよ、地を満たせ」と言われましたが、父親と娘の間でよしとは仰っていません。目的そのものが間違っていなく、神のことばにあったとしても、その手段は何でも許されるわけではありません。聖書の言葉の一部を切り取って正当化しようとすると大変なことになります。
 人を憎むよりも人を愛した方が良いのだからと言って不倫してはいけないし、聖書で外国人が殺されているからといって、外国人を殺すのは間違いです。聖書は、66巻すべてで聖書ですから、現代は特に、最終的な解釈は聖書全体の文脈で考えるべきです。
 そうすると、今日のこの30節から38節までの読む飛ばしたい箇所も、その意味が見えてきます。
 この箇所は、救われたロトが感謝もなく、獣のようにほら穴で暮らしましたという、ロトにとっては不名誉な記録です。しかも、自分の娘によって子どもをもうけていく姿は見たくありません。正直、ここだけ見ると読まなくても良いなと思う箇所です。結果、ロトの子孫は聖書の中で、イスラエルにとって面倒な相手として登場します。
 カトリック教会のフランシスコ会という修道会が訳した聖書では、今日の箇所に表題がついていて「モアブ人とアンモン人の恥ずべき起源」とありました。
 おそらく、創世記、またモーセ五書という文脈では、そういう意味があると思います。37節、38節を読みます。
「姉は男の子を産んで、その子をモアブと名づけた。彼は今日のモアブ人の先祖である。妹もまた、男の子を産んで、その子をベン・アミと名づけた。彼は今日のアモン人の先祖である。」
 この娘の子たちはそれぞれ、これからイスラエル人を悩ませる外国人として登場します。特に、このモアブ人はイスラエルの民が、エジプトを脱出して約束の地カナンを目ざして長い旅をしている途中に出てきます。これは民数記21章では「モアブよ。おまえはわざわいだ」と言われています。25章には、イスラエル人たちが死海のほとりシティムに来た時に、モアブ人の娘たちに誘惑されて、イスラエルが不品行と偶像礼拝の罪を犯す場面があります。
そして、今度は旧約聖書全体の文脈で見ると、今度は、ヨシュア記、士師記ではペリシテと並んでイスラエルの脅威として登場し、旧約聖書ではゼパニヤ書にモアブについて書かれています。
イスラエルの神、万軍の主のことば。それゆえ、モアブは必ずソドムのようになり…荒れ果てた地となる。」
 ですから旧約聖書では全般的に敵キャラとして描かれているので、フランシスコ会訳の表題は間違っていないと思います。
ところが神様は、このモアブの民を聖絶するようにしませんでした。かえって、このように仰っています。申命記2章9節。
「モアブに敵対してはならない。彼らに戦いをしかけてはならない。あなたには、その土地を所有地としては与えない。わたしはロトの子孫にアルを所有地として与えたからである。」
 ここでは、ある意味保護するように言われているのです。またモーセが死んだのはモアブの地でした。
 しかし、もう一段階、文脈を広げてみたいのです。それは新約聖書も含めた文脈です。そうするとどうなるでしょうか。新約聖書には一切モアブという名前が見当たりません。では、もはや新約には関係ないのでしょうか。
 そうではありません。来週からまた戻るマタイの福音書1章には、イエス様の系図があります。マタイ1章5節を読みます。
「ルツによってオベデが生まれ、オベデにエッサイが生まれ、エッサイによってダビデ王が生まれた」このルツはルツ記のルツです。彼女は何人なにじんでしたか。
ルツ記1章4節。「ふたりの息子はモアブの女を妻に迎えた。ひとりの名はオルパで、もうひとりの名はルツであった。」
 そうです。ルツはモアブ人だったのです。つまり、救い主イエス・キリストにはモアブ人、つまりロトの血が流れているということなのです。言い方を変えると、救い主誕生のために、ロトが用いられた。彼の問題だらけの人生は、主によって祝福の系図に招き入れられたのです。

 

結論 
ロトは、主の憐みによって救われましたが、それを喜べず感謝できずに、ほら穴で獣のように暮らすことを選んでしまいました。そして、そこで、酒を飲んで意識が飛んでいるうちに娘たちとの間に子どもが生まれ、それはモアブ人の恥ずべき起源だと言われました。
 しかし、主は、その恥ずべき姿、恥ずべき歴史をそれだけで終わらせないお方です。
 私たちが、これまでどんな生き方をしてきていても、取り戻せない歴史を踏んできていても、主はよいお方です。主はよいお方で、その思い出したくない出来事すら、ご自分の救いの御計画のうちに取り込み、善いものへと造り変えることができるお方なのです。
 今、あなたが、救われているにも関わらず、ほら穴に住んでいるような生き方をしていたとしても、主は、あなたの人生を善いもので満たすことができるお方です。このロトにすら、主は目を留めてくださり、義人ロトと宣言します。確かに彼の子孫はイスラエルを脅かし、罪を犯してきた民族でした。しかし、その中にあっても、ルツが救い主の系図に入れられたように、私という罪人を、この主の救いの業に用いるのです。あなたを主の器、アブラハムの子孫として祝福し、その人生が神のために用いられるのです。
 そうであるならば、今、そのほら穴から出て、もっと主の恵みの尊さを味わっていけるのではないでしょうか。
 そのように、あなたが、神を愛し、その救いを喜んで生きようとするならば、なおさら神は、これまでの一切の悲しい出来事も、いま、経験している不幸に思えることも不安に感じる未来も、主の御業によって益とされるからです。
 
今週のみことば
「神かみを愛あいする人々ひとびと、すなわち、神かみの御計画ごけいかくに従したがって召めされた人々ひとびとのためには、神かみがすべてのことを働はたらかせて益えきとしてくださることを、私わたしたちは知しっています。」