のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

◎ 2020年2月16日 白石教会礼拝 

説教題 「わたしについて来なさい」
聖書箇所 マタイの福音書8章18~22節
 
序論
 今年の定期総会で信仰告白が採択されました。これは、今まで白石教会に信仰告白がなかったから作ったのではなく、もともとあったけれども、それを成文化していなかったので、あらためて文書として、神の前にも人の前にもはっきりさせた。これが信仰告白をつくったという意味です。その信仰告白の12番めに「弟子の道」という項目があるのをみなさんも確認したと思います。それは、イエス様を信じて救われた者がどのように生きるのかという問いに対して、それは主であり師でもあるイエス・キリストの弟子として、師匠に倣う生き方を目指すのですという意味で、こう告白します。
イエス・キリストは、私たちを弟子の道へと召しています。私たちは、聖霊に満たされ、神が与えてくださる恵みの賜物を活かし、キリストの教えと御跡に従いつつ、日々新たないのちに歩みます。」
 その歩みの積み重ねの中で、私たちは聖霊の助けによって、最終的にはキリストと同じようにきよくされ、愛に満ちた人格が形成され、新しく完成した天の御国の国民として過ごすのです。そのためにも、今から弟子として歩み始める必要がある。そのためにこうして聖書のことばを通して主と触れ合い、主の姿へと変えられるべく、毎週の礼拝に集まっているのです。
 そこで、先週は、その弟子になるための前段階として、イエス様は、どういう人を身許に招かれたかというところを見てきました。覚えているでしょうか。
一人はツァラアトという病気に冒された人です。もう二人目は、ローマ軍の百人隊長。そして、三人目はペテロの姑でした。三人まとめて言い換えると、「汚れている人」とその病気、国籍、性別によって軽蔑され、村八分にされている人たちです。そういう人たちとイエス様は関りを持ち、癒し、身許に招かれたのです。
 今日は、その続きで、湖を渡って向こう岸に行こうとするところからです。ここに、二人の人が登場します。一人は律法学者、もう一人は名前がわかりませんが弟子だということです。今日はここから、「イエスの弟子になるとは」どういうことかということを、聞いていきたいと思います。
 
1.弟子になりたい律法学者
 18節を読みます。
「さて、イエスは群衆が自分の回りにいるのをご覧になると、向こう岸に行くための用意をお命じになった。」
 ここでイエス様は、群衆をご覧になって、向こう岸へ行くことにしたと書いてあります。それはなぜか。
それは、この近辺ばかりでなく、向こう岸の人たちにも福音を伝える必要があったからです。ところが、その向こう岸とはガダラ人、またはゲラサ人という異邦人が住む地域で、ユダヤ人からは敬遠されている場所でした。
エス様が、向こう岸に行くための用意をお命じになった。それは、ここに集まっている群衆ならばみんなが、その向こう岸にはどんな人たちが住んでいるのかわかっていました。
ここに、イエス様から弟子たちに、そして取り巻く群衆に対するチャレンジがあります。これまでは、ツァラアトの人も、百人隊長も、ペテロの姑も直接関わっているのはイエス様だけです。しかし、ここから船に乗って、向こう岸へ行くということは、関わるのはイエス様だけではない。ついて行く人すべてが、ガダラ人の住処に乗り込むことを意味していました。それは、ユダヤ人的な常識では、そんなところに行ったら自分が汚れてしまう。そういう偏見が起きていたことは、おそらくこのときもそうであったでしょう。イエス様が「群衆をご覧になって」と書いてあるのは、そのような常識に支配されている人たちへのチャレンジを与えておられるからです。
これが、イエス様について行くことにおける一つめのチャレンジです。それは苦手な場所に乗り込んで、苦手な人と関わることです。
ですから、そのために先週までの癒しのお話がイントロダクションとして大事だったのです。
そういうチャレンジが求められる中で、ここで手を上げたのが律法学者でした。新約聖書で律法学者と聞くと、またイエス様に意地悪なことを言いに来たのかという先入観で考えてしまいやすいですが、そんなことを考える必要はありません。このことは、パリサイ人についても同じで、この人たちが出てくると、敵キャラだと思うのは間違いです。なぜならば、彼らは聖書のプロであり、律法を教える教師でした。だから、全員が悪かったわけではないので、先入観は横に置いて読みたいと思うのです。
すると、この律法学者の言葉が伝わってきます。19節
「そこに、ひとりの律法学者が来てこう言った。『先生。私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついてまいります。』」
 だれも行きたがらない場所に、私が行きます。どこにでもついてまいりますと、献身的なことば。その姿勢。どうでしょうか。素晴らしい献身の態度です。しかも、彼は、これまで弟子になった、このガリラヤ湖沿岸の漁師ではなく、おそらく首都エルサレムで律法の教育と訓練を受けたエリートです。聖書の知識も豊富で、すぐに人を教えることができる人です。おそらく、既にラビと呼ばれた先生だったでしょう。
 一般の企業であれば、即戦力になる人は優遇されます。特に、ガリラヤ地方という超田舎出身者で始まったイエスの弟子集団にとって、こういうエリートが入ると、ちょっと箔がつくのではないでしょうか。
 教会も、もっと高学歴の牧師の方が良いのか。多くの引き出しをもって、間違った教えにも理論立てて対処できるかも知れません。そういう人が、ついて行きますと献身を言い表しているのです。
 ところがイエス様の反応が今一つです。20節。
「すると、イエスは彼に言われた。『狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。』」
 この言葉はどういう意味でしょう。この律法学者は採用なのか、不採用なのか。彼はイエスの弟子としてどうなのか。
 イエス様の答えは、ご自分の宣教の大変さを伝えただけでした。狐にも空の鳥にも家があるけど、人の子つまりメシアである私には寝る場所すらないのだ。それで、このあと嵐の船の中でも寝ておられる。でも、これが主の弟子としてのチャレンジその2です。安定した生活は捨てる覚悟はありますかということです。
 それで、この律法学者の人は弟子になったのか。そのためにも、次の人のことも見たいと思います。
 
2.弟子なのに消極的な人
 21節を読みます。
「また、別のひとりの弟子がイエスにこう言った。『主よ。まず行って、私の父を葬ることを許してください。』」
 ここでは、すでに弟子とされている人の反応が書かれています。このマタイの福音書におけるイエス様に対する呼びかけから、その人がイエス様にとってどういう立場の人かが区別されています。
 イエス様に「先生」と呼びかける人は、まだ群衆の一人。つまり弟子以外の人で、イエス様に「主よ」と呼びかける人は、弟子となっている人ということです。ですから、彼は弟子だった。でも、さっきの積極的な律法学者の後だから、なおさら、この弟子が消極的に映ります。だって、さっきの人は、「あなたのおいでになる所なら、どこにでもついてまいります」と素直に宣言していました。それに比べると、この弟子の答えは、たとえ父親の葬儀があったとしても、どうも後ろ向きなイメージが強く残ります。
 普通、自分の親が死んだとなれば、何をおいても優先される。それは、このときのイスラエルでも同じでした。日本だって、親が死んだと言えば、仕事を休むことができます。親と言わずとも、親戚の誰かが死んだとなれば、急に休んでも仕方ないと思われます。
 この弟子がどういう意味で、この21節のことばを言ったのかは定かではありません。
 ちょうど父親が亡くなってしまって、すぐに葬儀の必要があるからすぐにはついて行けませんと言っているのか。それとも、今は元気だけども老いた父親がいるので、その親が死ぬまでは面倒を見る責任があるので、家から離れて旅はできませんということなのか。
 こういう、従うことに消極的な弟子に対して、イエス様は何と仰っているのか。それは、22節前半。
「ところが、イエスは彼に言われた。『わたしについて来なさい。」
 イエス様は、そんな弟子に対して「わたしについてきなさい」とはっきりと一緒に来なさいと命じられるのです。
これがイエス様の答えです。積極的なエリートではなく、消極的かもしれないけれども、すでに弟子とされている人に「ついてきなさい」と言われました。
では、高学歴だったら、聖書知識を豊富に持っていたら弟子になれないのか。そうではありません。なぜならば、あの使徒パウロは超エリートです。しかもローマの市民権を持っていました。それもお金で買った市民権ではない。生まれつきのローマ市民という、だれもが望んでも手に入れられない立場を彼は得ていた人でした。
 では、最初の律法学者は何がダメだったのか。いや、決して彼がこのあと弟子にならなかったとは書いていないので、余計な読みこみすぎはいけないのですが、少なくとも、彼が弟子に志願したのには、前段からの出来事を通しての理由があると思うのです。つまり、ツァラアトの人、異邦人の百人隊長、女性という、こういう人たちがOKならば、聖書知識豊富、即戦力になる自分ならば絶対に役に立つに違いない。そういう思い込みがあったという推測ができます。
きっと、そういう経験は主の弟子として生かされる可能性はあります。しかし、イエス様の求めている天の御国の国民の姿はどうなのか。いいえ、そうではなかったのです。それは、100%神の恵みである救いを味わうためには不必要だったからです。
 この律法学者は確かに素晴らしい知識をもっていたかも知れません。でも神の国は、自分のそういうスキルや学歴、知識が役に立つという理由では入れないのです。それは、救いは神の一方的な恵みだからです。人間との共同作業ではないのです。
 いずれにしても、私たちの経験や能力、学歴や良い行いが弟子としての立場を決定づけてはいないということです。
 そしてイエス様は続けて仰います。22節後半。
『死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。』
 死人たちに彼らの死人たちを葬らせなさい。これはわかりにくい言い方をしていますが、つまり、こういうことです。
この地上のことは、この地上の人に任せなさい。なぜならば、あなたはすでに天の御国の国民として選ばれているのだから、喜んで、御国の業のために、その建て上げのために働くべきだからだ。
 そうは言われても、親の葬儀を後回しにすることは簡単なことではありません。ですから、律法学者に対してだけでなく、この弟子に対しても決して楽な話はされていないのです。ここが、主の弟子へのチャレンジその3です。何をおいても、主を優先できるか。つまり愛せますかということです。
 これで、弟子としてのチャレンジが3つ揃いました。
一つ目は、主と同じように苦手な人と関わること。二つ目は、主とともに一見不安定な旅ができるかということ。三つめは、自分の都合よりも主のことを優先するか。愛せるかとことです。
 このようにイエス様が示される弟子の道は大変険しいのです。しかし、イエス様が「わたしについてきなさい」と招かれたのは、消極的な弟子の方だった。
 これはどういう意味なのでしょうか。どういう人が弟子としてふさわしいのでしょうか。
 
結論
 ここで、一貫して、このマタイの福音書が伝えたい弟子とは何か。それは、何をしたら弟子になれるかではなく、また私たちの態度や信仰の姿勢によって主の選びがあるのではない。まず、主の選びがあるからこそ、そこに応答する私たちがいるということです。ここで、問題になっているのは、主権者はだれか。決定者はだれか。それは、ダビデ王の子孫としてお生まれになったキリストこそ、真の王の王、主の主であるということです。
 私が主を選んだのではない、主がまず私を選んでくださったからこそ、そこに応答するチャンスが与えられ、今先に弟子になった者として、次に救われ、弟子になる人のために働くのです。まず、その恵みに気が付くことです。
 私の家は浄土真宗の家でした。でも私は子どもの頃から、教会学校に行ってもいないのにキリスト教に興味を持っていたちょっと変わった子どもでした。中学になると聖書という本がほしくてしょうがなかった。そこで、教会の案内ハガキをもらって、教会に行くようになりイエス様を信じ洗礼を受けました。それは、神様から呼ばれているとわかったからでした。教会に来ていると、不思議と神様から呼ばれているなとわかるときがあります。そこに応えて、初めて私たちは主の者とされるのです。それを別な言い方で、救われたと言います。なぜならば、主の弟子には永遠のいのちが約束され、たとえこの世のいのちが尽きたとしても、神の国で永遠に愛する神様を礼拝して過ごせる幸いな人生が与えられているからです。
 そこから、私の人生は変わりました。それは、私の人生ではあるけれども、その主役はイエス様。イエス様が歩まれた険しい道を歩むように導かれて現在に至ります。その中で一般の仕事をやめて、牧師という教会に仕える働きをするようになりました。本当に毎日感謝しています。以前、もとの職場の上司から、それって儲かるの?と聞かれたことがあります。確かに、自営で電話工事をしていたときには、マンションを買ったり、沖縄に旅行に行ったり儲かったこともありました。その頃よりも、儲かるかという基準では、そうでないかもしれませんが、今の方が心が豊かで、明日のための心配に負われる生き方からは解放されました。妻にもいくらか優しくできるようになりました。
 今は、とても幸せです。それは状況ではなく、ただこんな罪深いものを、一方的な選びによって召してくださり、神様のために働くように生かしてくださったからです。これは自分で選んだことではありません。今、たちどまって振り返ったら、そういう歩みにされていたのです。すべてが神様の一方的な選びと計画と摂理の中にある恵みです。
 この主が、今日も御自身の憐れみ深い主権において、あなたを選んでくださいました。今日、ここにあるのは主の選び、主の招きがまずあって、こうして健康が守られて、交通事故に遭わずに、心さえも後押ししていただいて教会に来ることができたのです。この主があなたの人生の支配者としていてくださる。生きるときも死ぬときも、この主がともにいて、死の陰の谷さえも乗り越えることができるのです。
 主について行こうとするときに、色々な心配事があるかも知れません。イエス様を信じようとすることで、色々な問題を想像するかも知れません。でも、だからこそ、イエス様は、「わたしについてきなさい」と招いておられるのです。「私に任せなさい」と招いておられるのです。
 どうか、そのすべての重荷を主にお任せして、主といっしょに、そして同じように主の弟子とされた仲間と一緒に、向こう岸を目ざして進もうではありませんか。