のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

◎ 2020年3月29日 白石教会礼拝

説教題 「罪人を招くために来たのです」
聖書箇所 マタイの福音書9章9~13節
 
序論

 パンデミッククラスター、オーバーシュート、ロックダウンなど、ここ数週間で随分聞きなれないカタカナ言葉がニュースを飛び交いました。その意味がよくわからない。だけど、私たち日本人て、よくわからないけど、なんだか大変そうだという気持ちになるのではないでしょうか。
 かつて花王のメリットシャンプーが爆発的に売れたことがありました。それは、その時にテレビで放映した宣伝の効果だと言われています。その宣伝文句というのは「ジンクピリチオン配合」だったのです。それを聞いた多くの消費者は、「ジンクピリチオン」という、よくわからないけど凄そうだという気持ちになって、たくさん売れたということです。この現象を「ジンクピリチオン効果」というそうです。つまり、花王という会社は、フケやかゆみを抑えるジンクピリチオンの効き目という事実よりも、そのカタカナ言葉を使うことがメリットシャンプーの売り上げを伸ばすことになったということです。これはカタカナ言葉にメリットがあったという事例ですが、悪い意味でもそれは起こるのです。
 ですからパンデミック、オーバーシュート、ロックダウンなども、私たち日本人は特に、その事実以上に、そのカタカナ言葉に踊らされやすい性質を持っていると言えます。知らないうちに、そのような性質があるので、注意していても、また忘れたころに違うジンクピリチオン効果でよくも悪くも踊らされることになると思います。
 私たちの罪という問題も、性質という意味ではよく似ています。沁みついているので、知らないうちにまた同じことで失敗をする。聖書で罪は、人殺しや盗みも、当然、罪ですが、そうしてしまう性質のことも罪と言います。前回、「原罪」というお話をしました。その原罪、つまり罪の性質の原因は、真の神様から離れてしまっているところに問題があるともお話しました。
それは、神を信じないところに罪の根本的問題があるということです。
 先週から始まったマタイの福音書9章は、まさに、その人間の罪に焦点を合わせていると言えます。前回は、中風の人の病気が癒されることを通して、イエスという方が罪を赦す権威があるということをお話しました。今日の箇所もまた、罪の問題がテーマとなっています。
 
1. 取税人マタイの救い
 9節を読みましょう。
「イエスは、そこを去って道を通りながら、収税所にすわっているマタイという人をご覧になって、『わたしについて来なさい。』と言われた。すると彼は立ち上がって、イエスに従った。」
 今日の説教題は「罪人を招くために来たのです」とつけましたが、この福音書を書いたマタイもこの段落では、罪を赦す権威を持つイエス様のところに集まる罪人たちのことを伝えていると思います。でも、その冒頭に、まずマタイ自身の召命、つまりイエス様を信じてついていく場面を記録しているのは、大変興味深いことです。
 それはつまり、マタイは自分自身を罪人の代表のように示しているということです。こんな罪人の私でもイエス様は招いてくださったんだよと言わんばかりに、まず自分の救いの証しをしているのです。これはとても大切な順序だと思います。もちろん、イエス様の救いの御業を、またその教えをそのまま語っても良いのですが、その中心部分を聞く者にわかりやすくするために、自分の体験談を語る。これは現代の教会でもよくすることです。自分がどういうふうにイエス様に招かれ、イエス様を信じて洗礼を受けて、今に至っているのか。その体験を通して、聴く人も、なるほど、そうすれば良いのかと、ただ聞くだけでなく、次の段階、次の一歩を決断する助けになります。
 そのマタイはイエス様の弟子になる前の仕事が取税人でした。取税人というのは、自分の国であるイスラエルのための税金取りではなく、支配国であるローマ帝国に納めるための税金を取り立てていた人でした。だから、イスラエルの人たちからは軽蔑されていました。当時、イスラエルローマ帝国の属国でしたので、取税人は同胞からお金を取り立てる非国民だと思われていたのです。
そのマタイが働いていた、このカペナウムという町は北側にあるローマ方面に通ずる道と南側のイスラエル・エジプト方面を繋ぐ要所でした。だから収税所はいつも多くの行き交う人たちでごった返していました。
 その道をイエス様がお通りになって、仕事中のマタイに声をかけます。
「わたしについて来なさい」
 イエス様はペテロやアンデレ、ヤコブヨハネの時も同じです。彼らが仕事をしているとき、彼らの生活にとって、そのいのちを支えているはずの仕事をしているときに招かれます。それはどうしてか。それは、本当に大切なものはどちらかということを考えさせるためではないかと思います。
 人生にとって、大切なのはどっちか。それは簡単に言うと永遠のいのちか、それともこの世のいのちかでしょう。多くの人は、教会の礼拝に行くよりも金持ちになれるセミナーの方に興味があるかも知れません。聖書よりも自分を高める知識を得る本の方が好きかも知れません。確かに良い大学に入って、知識を蓄えることは、その後の仕事を選ぶにしても大事なことかも知れません。お金も大事だし、おいしいものを食べることも趣味に没頭することも大事でしょう。しかし、神様がくださる永遠のいのちに比べれば、小さなことです。それは、どんな知識も学歴も、また社会的地位も、健康もお金も快楽も死んだら同じだからです。それらを持ったままで神の前に出ることはできません。人はたとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の得になるでしょう。
 イエス様を信じる、イエス様について行くとは、いつもそのどちらかを選ばねばならない岐路に立たされるということです。私たち人間は、エデンの園の時代から、いつも「いのちの木」の実を食べるか、「善悪の知識の木」の実を食べるか戦っているのです。
 ここで、マタイはどうしたか。それは永遠のいのちの方を選んだのです。しかも「立ち上がって」です。漁師をしていたペテロとアンデレは網を捨てて従いました。ヤコブヨハネは舟も父も残して従いました。そしてマタイは「立ち上がって」従いました。ここでマタイ自身はさりげなく「立ち上がって従った」と記していますが、ルカは詳しく、こう記録しています。
「何もかも捨て、立ち上がってイエスにしたがった」(ルカ5:28)
 これは事実でした。ある意味、漁師であれば、もしイエス様の弟子をやめたとしてもまた戻れます。しかし、取税人は一度辞めたら二度と戻れません。マタイは、イエス様について、まだよくわからないけれども「何もかも捨て」て永遠のいのちの方を選択して、ついて行ったのでした。
 私たちも、いつも色々な場面で、この自由意志が与えられています。その選びは、永遠のいのちに繋がるのか、それともこの地上での一時の楽しみだけのものなのか。
 
2.罪人を招く真の救い
 10節と11節を読みます。
「イエスが家で食事の席に着いておられるとき、見よ、取税人や罪人が大ぜい来て、イエスやその弟子たちといっしょに食卓に着いていた。すると、これを見たパリサイ人たちが、イエスの弟子たちに言った。『なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか。』」
 イエス様に従ったマタイは、まず自分の家を開放してイエス様の宣教の場として提供しました。ここには書いていませんが、他の福音書ではここがレビの家、つまりマタイの家であったと証言しています。そこにはイエス様の弟子たちと、マタイの仕事仲間である他の取税人と、罪人という人たちが大勢来たとあります。罪人というのは、犯罪者という意味ではなく、当時の掟を重んじる人たちから蔑まれていた人たちのことです。どうして蔑まれていたのかというと、パリサイ人や律法学者たちから見ると、全然、厳格に掟どおりの生活ができていないからです。たとえば、羊飼いは動物を扱う仕事ですから汚れていると思われていたし、安息日も動物の世話がありますので、きちんと守れませんでした。取税人も不正をして金儲けをしている人ばかりではありませんが、自分たちを支配している敵国ローマの手先であるということで疎まれていたのです。また、そういう人たちと関わると汚れがうつると思われてました。
 だから、11節のパリサイ人たちの言葉を分かりやすく言い換えるならば、「あなたたち馬鹿じゃないの。罪がうつるのに。」という感覚です。しかも、イエス様ご本人に言わずに弟子たちに言っているのは、「あなたたち、汚れがうつらないうちに、イエスから早く足を洗った方がよい」という警告の意味があったと思われます。
 しかしイエス様は、その発言を聞いて言われます。12節の鍵かっこ。
「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。」
 私は中学生のときに、この言葉を読んで衝撃でした。それは、罪の問題に対するイエス様の姿勢がとても優しいからです。私が思う罪とは、それは罰を受けるイメージが強いです。悪いことをしたら叱られる。さばかれる。償いをしなければならない。
 でも、イエス様は何と言われたか。それは、罪人のことを病人だと言ってくださっているのです。つまり、罪は病気であると。罪が病気であるからこそ医者が必要だと。しかも、自分ではどうすることができないものでもあります。だから、その病の責任よりも、まず、それを癒すために私が来たのだと言ってくださっている。ここが、私が衝撃を受けた理由です。
 確かに罪は恐ろしい病気です。新形コロナウィルスの致死率が何パーセントかわかりませんが、罪という病の致死率は100%です。その病は自覚がなくても感染しています。でも、その罪という病から救うために唯一の癒し主としてイエス様が来てくださいました。
 でも、多くの日本人は「間に合ってます」と言って断ります。日本人は特に多いです。自分は大丈夫だと。でも、新型コロナウィルスもそうですが、罪という病気も自分は大丈夫ですと言っている人が最も危険です。12節でイエス様は、「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です」と言われました。それは、どういう意味でしょうか。
 この世に丈夫な人と病人の二通りの人がいて、その丈夫な人はイエス様の救いが必要ないということでしょうか。
 そうではありません。聖書によれば、この世界に義人はいない、一人もいないと言われています。それは人間社会に、罪という病気にかかっていない人はいないということです。つまり、みんな罪ウィルスを持った病人なのです。大事なことは、それを自覚して、医者に診てほしいと願うかです。だから、罪ウィルスに感染していても自覚がない人は、他に罪をうつしていることに気が付いていないか、別に自分も隣人に対しても、どうでも良いと思っているかです。
ここでいう「丈夫な者」に該当する人は一人もいないはずなのに、自分は大丈夫だと自負している人。それが13節の「正しい人」とつながっています。
 13節を読みます。
「『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」
 ここでいう「正しい人」というのは、形式を重んじる信仰者のことです。イエス様は、批判していたパリサイ人を意識して言われました。というのも、パリサイ人という人たちは、神様の律法は自分の頑張りで守れるものとしていたからです。良い行いによって、自分の力で清くなれると思っていました。でも、それは表面的には守っているだけで、心は自分はあの人よりも良いことをしていると高ぶっていたのです。つまり形式的な信仰であったのです。イエス様は、それを見破って、聖書のことばを引用しました。それが「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない」という言葉です。
 信仰生活が形式化するほど空しいものはありません。形式的に聖書を読む。かたちだけの礼拝。外見は毎週教会に来ていても、心が伴っていなければ必ず疲れます。形式的な仮面夫婦が空しいのと同じように、かたちだけの信仰生活は破綻します。いくら上等の牛を生贄としてささげても、そこに信仰がないならば、特に神様に対する愛がないならば、その生贄は喜ばれないのです。神様が喜ばれるのは、心と心の交わりです。そして、そこから始まる愛と信頼の歩みです。そのことを行って学んで来なさいとイエス様はパリサイ人たちに仰ったのです。
でも、決してパリサイ人たちを見捨てているのではありません。彼らは聖書の先生ですから、そういう意味で厳しくもう一度聖書をしっかり読んで学びなおして、自分も罪に冒された病人であることに気が付きなさいと言われたのです。
 
結論
 そして、あらためて言われます。
「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」
 これは「医者を必要とするのは、丈夫な者ではなく、病人です」という言葉の言い換えであり、これが、イエス様が神でありながら天から来られた理由です。
 主は天を下りて、あなたを救う医者として、自ら往診に来てくださっています。その玄関をあけるかどうかは、あなたの自由意志です。
 今日、イエス様は二種類の人を御許に招いています。一つは、イエス様が自分には必要だということがわかっているのに、まだついて行くと決断していない罪の病の人です。もう一つは、イエス様を信じたはずなのに形式的な信仰生活に陥ってしまっている病の人です。
どちらも、大切なことは、その病を認めて、イエス様をあなたの心にお迎えすることです。イエス様という医者は、その病を自ら負って十字架にかかり死にました。もし、あなたが、自分のその罪、病を自覚して神の前にはっきりと言い表すなら、神は真実で正しいお方ですから、その罪、病を癒し、すべての悪からあなたをきよめてくださいます。
 その十字架によって私たちは救われます。もし、この救いを受け容れるならば、たとえこの世のいのちを失ったとしても、その死は天の御国への入口に変えられます。なぜならば、主イエスは私たちの罪を負って死んだだけでなく、死からよみがえって、信じるあなたの希望となられたからです。この希望はまやかしではありません。ジンクピリチオン効果でもありません。この世のいのちだけでは終わらない、天の御国に続く永遠のいのちが始まる現実なのです。神が私たちを愛し、憐れんで開いてくださった罪の赦しの現実の希望です。
 教会は2000年間、その希望を語り続け、この白石教会もまた、その救いのメッセージを受け継いで、今日もこのイエスに希望を置いて、この地域に、そしてあなたに語り続けます。今、このような、ウィルスでパニックを起こしやすい時期かも知れません。しかし、どうか私たちもマタイのように、永遠のいのちを握りしめて、その癒しを与えてくださる主イエスに、立ち上がって従ってまいりましょう。
 
祈り