のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

◎ 2020年5月3日 白石教会礼拝説教

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●説教題 

「世の終りまでともにいてくださる主イエス
●聖書箇所 

マタイの福音書28章16節~20節、
ルカの福音書24章49節~53節

 

動画はこちら

https://youtu.be/QO92XKOwXjQ

 


 3月に東京オリンピック延期が決まってから、不思議と東京など首都圏のウィルス感染者が急増しました。北海道知事は北海道の第二波を警戒し、集中対策期間を決め、札幌市長も北海道知事と共同で政府に先立って緊急共同宣言を出しました。もうこのときには札幌は感染者が急増していて、白石区内の3か所の病院で感染者が出たと立て続けに報道されました。
 その後、政府が13都道府県、そして全国へと広げたころには、もう全国に増え広がっていて、医療崩壊の危機が目前に迫って今に至っています。
 この間に白石教会もその他、多くのキリスト教会も会堂での礼拝を控えて、各家庭ごとの礼拝へと切り替えました。あれもこれも、混乱で今年は、なんて年なのだと嘆く方もいらっしゃるでしょう。
 でも、このような悪いことの連続と思われる中でも、怪我の功名といいますか、この緊急事態によって新たな一歩が踏み出されたとも言えるのです。それは、礼拝をするために集まることの積極的な意味での変更です。それは、インターネットを利用した礼拝が、このときとばかりに各キリスト教会で始まったということです。これまでも、毎週、インターネットを使って礼拝を公開していた教会はありましたが、白石教会も例外ではなく、説教原稿や週報を送るだけではなく、私の説教の動画を録画して配信することをやらざるを得なくなりました。
 そういう意味で、この新型コロナウィルスによって会堂での礼拝がまったくなくなっているわけではなく、違うかたちでずっと続いております。しかも、いつも以上にかなり忙しいのも事実です。でも、なるべく皆さんがどのようなかたちであれ、教会としてともに礼拝をささげられるために何とか力を尽くしていきたいと願っています。
 ただ、やはり全員に主の恵みを等しく提供できないことに、牧師として大変申し訳なく思っています。だからこそ、この不自由さを覚えるからこそ、早く、皆さんと一緒に礼拝をしたい。そう強く思わされます。このような暗闇のような時だからこそ、輝かしい主の礼拝がどれほど恵みであったかがより鮮明にされてきます。イエス様が、山上の垂訓で「心の貧しい者は幸い、悲しむ者は幸い」と惨めで不自由で弱く貧しい者こそが幸いであると仰ったその意味が、そういうことであると、今、私はあらためて味わっています。今は不自由だ、大変な事態だ。だけれども、この中にこそ主への感謝が湧いてくるのです。この困難の中にこそ主イエスは立っておられる。イエス様も一緒に私たちの苦難もいっしょに通ってくださっていたことを思う時に、心からともにいてくださる主イエスに感謝が湧いてくるのです。みなさんはいかがでしょうか。
 これまで会堂での礼拝をストップしてから、聖書箇所は特別に主の復活に焦点を合わせたルカの福音書からでした。そして、いつもの講解説教とは違って、少しテーマを絞って読んできたつもりです。そのテーマというのが、復活の主イエスは私たちに何を残して新しい歩みをさせようとしているのか。そのところに今、このコロナ騒動で混乱している世で生きる大きな希望、励まし、そして、意義があると思うからです。
 それでルカ24章から順番に見てきたことを振り返ると、こうなります。
一つは、このような状況でも、今も生きておられる主イエスはみことばを与え、そのみことばを思い出すことを通して、励ましていてくださっているということです。主がよみがえられた日曜日の朝に女性たちは、墓に行きましたが、そこに主の姿はなかったけれども、以前に語られたみことばを思い出すことで彼女たちは、その知らせを他の人に宣べ伝える者として立たされていったのです。
二つ目は、エマオに帰る途中の弟子たちに主は現れて、聖書を通してご自分のことを教え、そのことで彼らの心は燃やされ、結果的に信仰の目が開かれて、その喜びの知らせを伝える者として、エルサレムに戻ったことです。
 三つ目は、そのように聖書からイエス様のことを語るためにも、彼らは弟子の群れとして、教会として心が開かれる必要がありました。だから聖書に書いてあることがまず自分という罪人に実現した。そのことの証人として私たちは立たされているのです。
 そして、今日のところは、世の終りまで一緒にいてくださるイエス様です。なぜ、今日だけマタイの福音書を挟んでいるのか。それは、主がともにおられるということがどれほど現代の私たちにとって大きな意味を持っているかを確認したいからです。主は大宣教命令という大きな宣言の中で、何を保障にその宣教を私たちに委ねたのか。それは何よりも、ご自分がいっしょだからこそ、そのように生きなさい。大丈夫だよ。わたしがどんなときでも、世の終りまで、あなたが死ぬときも、いつもわたしがいっしょだという約束で安心しなさいと言われているのです。

 

1.いつもともにいます
 だから今日のマタイの福音書の部分は、新約時代を生きる私たちクリスチャン、またキリスト教会の前提であることを覚えたいのです。主がどんなときも一緒にいてくださるからこそ、みことばを思い出せるし、一緒だからこそ、その聖書のことばによって信仰の目が開かれているし、主が一緒だから、しかも真ん中におられるからこそ心が開かれて、聖書を正しく悟ることができるということです。
 その主のみことばを、正しく伝え教えていくのです。それがマタイ28章20節で言われていることです。そのことをイエス様はどこで弟子たちに伝えているでしょうか。マタイ28:16
「しかし、十一人の弟子たちは、ガリラヤに行って、イエスの指示された山に登った。」
 前回までの場面はエルサレムにあった隠れ家でした。でも、ルカの24章46節以降のどこかのところで弟子たちはガリラヤに行っていて、そこで、この大宣教命令が出されるのです。そして、そのガリラヤからまたエルサレムの方に戻ってきます。それがルカ24章50節以降のことです。
 ここで私が言いたいことは、なぜわざわざガリラヤへ弟子たちを行かせたのかということです。ガリラヤというのはどこでしょうか。それは弟子たちの出身地であり、この11弟子たちはみんな、このガリラヤ地方でイエス様に呼ばれ、選ばれ、権威が授けられました。
 つまり、これから主の復活を通らされた弟子たちは、教会の時代、恵みの時代にイエスの弟子、または使徒として遣わされていきます。そのとき、大切なことは何でしょうか。それは、初心に戻り、へりくだるということです。私たちは、つい経験に立ちたくなる生き物です。多くを学び経験したことが勲章のようになってしまうことがあります。それが、教会にも起こり得るのです。特に牧師は要注意です。神学校で訓練を受けたことや、学んだ専門知識は、使い方を間違えると勲章どころか階級章のようになる危険性があります。だから、牧師はいつも救われたばかりのことを思い起こし、初めの愛に立ち返って日々主に仕えなければなりません。
 その点で北海道聖書学院はお勧めです。聖書学院の先輩で現在海外に宣教師として遣わされている先生が仰っていました。ある外国の有名な神学校に訪問したときのことです。そこではどれだけ知識を身に着け、誰よりも成績優秀であることが、その神学校で学ぶ意義であったそうです。つまり、その神学校出身であるということが誇りであったというのです。でも、そこで自分自身が北海道聖書学院で学んだときのことを考えると、自分は北海道聖書学院で訓練を受けられて良かったと思ったというのです。なぜかというと、自分が北海道聖書学院で学んだときに、一番学んだことは、自分自身がどれほど何も知らない者であり、どれほど罪深く、どれほど主の十字架が必要な者であるかということがわからされたことだそうです。
 それは50期生の私もそう思います。何かできる、能力があると自覚する弟子ではなく、何もできない、知らない、貧しい者であることに気づかされることが弟子には求められているということです。復活のイエス様もまた、弟子たちが自分を誇ることなく、かえって初心に戻ってへりくだって出発することを願われたのです。
 私たちもまず、いつもへりくだって、余計な勲章も冠も投げ捨てて、ただ主の弟子とされている恵みに感謝していきたいです。

 

2.離れていかれたイエス
 さて、イエス様は、今度はもう一度エルサレムの方へ戻るように言います。
49節~51節を読みます。
「『さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。』それから、イエスは、彼らをベタニヤまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして祝福しながら、彼らから離れて行かれた。」
 ここに書かれているベタニヤという町は、エルサレムの東側にある隣町でこの町とエルサレムの間にオリーブ山があって、そこからイエス様は天に昇られました。その昇る直前の出来事がこの箇所です。
 イエス様は、今度はガリラヤから当時のイスラエルの中心地エルサレムまで連れて来られました。そして、そこから天にあげられます。ただ、彼らに言い残していたことは、49節にあるように、都にとどまっていなさいということでした。
 ここでおやと思わされます。それは、先ほど、マタイの福音書では「世の終りまでいつもともにいます」という約束をされ、私たちにとってもその約束が大事なのだと私も言いました。でも、ここには「祝福しながら、彼らから離れて行かれた」と書いてあります。これは矛盾ではないでしょうか。イエス様はうそつきなのでしょうか。感動的なうまいことを言いながら、実は話半分だったということでしょうか。
 いいえ。これは、イエス様が復活のからだとは言え、このままで弟子たちと一緒にいることはできなかったのです。一度に500人以上の人に現れたくらいの不思議なからだでしたが、そのままの姿でこの世に居続けることはできないのです。これは特別に朽ちないからだを見せてくださっていただけであって、まだ此の世が改まっていない中でそのお姿のままでいることはできないのです。
 では、「世の終りまでいつもともにいる」という約束はどうなるのでしょうか。
 49節だけもう一度読みましょう。
「さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」
 ここに、弟子たちが都エルサレムにとどまっていなければならない理由が語られています。その理由とは、「わたしの父の約束してくださったもの、いと高き所から着せられる力」である聖霊が降るということです。この聖霊が降ることが、何よりもイエス様がともにおられることとイコールであるということなのです。
 このように、イエス様がともにおられるという時には、様々なかたちがある。つまり様々な様態、あり方があるということです。イエス様が人間の肉体を取る前までは、主なる神ヤハウェと一つであり、その働きににおいて、御子としてのお姿を時々現していました。また人間のからだで生まれてからは、大工ヨセフの子として、弟子たちと旅をしながら福音を伝えていました。ときに嵐の舟で眠っていたこともあるくらい疲れながら、でもそれもともにいるという姿でした。そして復活後はいきなりシャロームと言いながら弟子たちの中心に来たり、魚を食べたりしました。それも、ともにいるということでした。でも、それだけではありません。オリーブ山から天に帰ったあとも、聖霊を送ることで、その聖霊なる神様が私たちの内に住んでくださることで、そのこともイエス様がともにおられるということであるのです。
 その究極的な姿でともにおられるときこそ、この11使徒すら経験できなかった経験を今私たちはさせられているのです。弟子たちは、このあと、この聖霊を待つ意味でも、宮に集まり神様を礼拝していました。それはとても大事なことです。しかし、このあと聖霊を受けてからは、そこから出て、礼拝する場所がエルサレムだけでなく、各地の会堂になり、また各クリスチャンの家になっていきました。なぜならば、イエス様は肉体で居続けたならばできなかったことが、今聖霊が送られたことで、どこででも主を礼拝することができるようにされたからです。かつてイエス様は仰いました。
「イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。・・・しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」
 
3.礼拝者として整えられる(結び)
 このようにして、弟子たちはどんどんイエス様と身近になり、礼拝するものへと変えられていったのです。52節、53節の言葉は、この聖霊を待つときの様子だけにとどまらずに、このあとの新約時代に置かれた私たちの礼拝の姿でもあります。
「 彼らは、非常な喜びを抱いてエルサレムに帰り、いつも宮にいて神をほめたたえていた。」
 彼らの心には、このときは聖霊が降ってはいませんが、私たちへの良き模範となっています。非常な喜び、この上もない嬉しさの状態。何が嬉しいのか。それは目には見えずともともにおられるイエス様がおられるからです。それは、まずみことばを思い出させてくださっています。そして、その聖書のことばそのものが私たちの心を燃やしてくれて、信仰の目を開かせてくださいます。そして、その聖書を悟るために心が開かれて、聖書読むたびに生きて働かれている主イエスに会うのです。これが現在の私たちの主イエスとの交わりの姿です。
 でも、これで終わりではありません。このあとイエス様は再び来られて、信じる私たちを天に引き上げられると聖書に書いてあります。その日がいつかはわかりません。でも、主が願われているのは何でしょうか。それは、このときの弟子の姿です。
「 彼らは、非常な喜びを抱いてエルサレムに帰り、いつも宮にいて神をほめたたえていた。」
 私たちも、できれば早く、与えられたばかりの新しい礼拝室、会堂で神を賛美したいです。早く愛するみなさんと、非常な喜びを抱いて、この会堂で礼拝したいです。皆さんはいかがですか。
 今は、コロナウィルスがなかなか終息しないので、人が多く集まって密室にならないために別々な場所で礼拝をささげています。しかし、私たちの喜びはなくなりません。それはイエス様がいつも一緒だからです。どこにいても、離れて礼拝していても、弟子たちがそうだったように、非常な喜びは変わりません。特に今は聖霊なる神様が、私たちの内側から助けてくださっています。
だからこそ、近いうちに一緒に会堂で礼拝できることに希望を持ちつつ、それだけでなく、インターネットを使用した礼拝も礼拝です。どのようなかたちであれ、今置かれている所で、もう一度来られる主を待ちわびながら、神をほめたたえて過ごしていこうではありませんか。

祈り