のりさん牧師のブログ

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◎2020年5月7日(木)きょうのみことば

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【列王記 第一 6章14~38節】

"こうして、ソロモンは神殿を建て、これを完成させた。
彼は神殿の内側の壁を杉の板でおおい、神殿の床から天井の壁に至るまで、内側を板でおおった。なお神殿の床は、もみの板でおおった。
それから、彼は神殿の奥の部分二十キュビトを、床から天井の壁に至るまで杉の板でおおった。このようにして、彼は神殿に内殿、すなわち至聖所を設けた。
神殿の手前側の本殿は四十キュビトであった。
神殿内部の杉の板には、瓢簞模様と花模様が浮き彫りにされていて、すべては杉の板で、石は見えなかった。
内殿は神殿内部の奥に、主の契約の箱を置くために設けた。
内殿の内部は、長さ二十キュビト、幅二十キュビト、高さ二十キュビトで、純金でこれをおおった。さらに杉材の祭壇も純金でおおった。
ソロモンは神殿の内側を純金でおおい、内殿の前に金の鎖を渡し、これに金をかぶせた。
神殿全体を隅々まで金でおおい、内殿に関わる祭壇も全体を金でおおった。
内殿の中にオリーブ材で二つのケルビムを作った。その高さは十キュビトであった。
ケルビムの一方の翼は五キュビト、もう一方の翼も五キュビト。翼の端から翼の端までは十キュビトであった。
もう片方のケルビムも十キュビトあり、両方のケルビムは全く同じ寸法、同じ形であった。
片方のケルビムの高さは十キュビト、もう片方のケルビムも同じであった。
ケルビムは神殿内部に置かれた。ケルビムは翼を広げていて、片方のケルビムの翼は一方の壁に届き、もう片方のケルビムの翼はもう一方の壁に届き、また両者の翼は神殿の真ん中に届いて、翼と翼が触れ合っていた。
ソロモンはこのケルビムに金をかぶせた。
神殿の四方のすべての壁には、奥の間も外の間も、ケルビムとなつめ椰子の木と花模様の浮き彫りを彫った。
神殿の床は、奥の間も外の間も金でおおった。
ソロモンは内殿の入り口を、オリーブ材の扉と五角形の戸口の柱で作った。
その二つのオリーブ材の扉に、ケルビムとなつめ椰子の木と花模様の浮き彫りを彫り、金でおおった。ケルビムとなつめ椰子の木の上に金を張り付けたのである。
同じように、本殿の入り口にも四角形のオリーブ材で戸口の柱を作った。
また、もみの木で二つの扉を作った。片方の扉の二枚の戸は折り畳み戸、もう片方の扉の二枚の戸も折り畳み戸であった。
ケルビムとなつめ椰子の木と花模様を彫り付け、その彫り物の上に、ぴったりと金を張り付けた。
それからソロモンは、切り石三段と杉の角材一段の仕切りで内庭を造った。
第四年のジブの月に、主の宮の礎を据え、
第十一年のブルの月、すなわち第八の月に、神殿のすべての部分が設計どおりに完成した。七年かけて建てたのである。"

 

1.(序)ダビデから受け継いだ神殿建設
 ソロモン王が行ったエルサレムの神殿建設は、父ダビデの念願でした。しかしダビデ自身は、多くの人の血を流したことを理由に、神殿の建設を禁じられていました。それでも神殿建設計画自体は主に喜ばれ、そこからダビデ契約と言われる恵みの時代を思わせるような祝福を得たのです。

 そのダビデ自身は、決して主の命令を破ることはありませんでしたが、神殿建設にかんする、ほぼ全ての備えを行っていたのです。ですから、結果的にソロモンが建設したものの、建設寸前までダビデが関わっていたことを主は許されたのでした。(歴代誌第一22章〜29章)

 

2.神殿の存在意義

 それにしても、果たして神殿建設は本当に必要だったのでしょうか。

 かつて出エジプトのおり、イスラエル民族は移動式の神殿である幕屋を作るように主から命じられました。それは、神である主とイスラエル民族の会見とためであり、常に彼らとともにいる主の臨在の証であったからでした。

 そもそも、イスラエル民族の存在意義は、かつて主がアブラハムと交わした契約にありました。主がアブラハムによって多くの国の民が祝福を受けるという途方もなく広大で偉大な祝福の広がりをその子孫であるイスラエル民族は受け継いでいたのです。ですから、彼らは常に主とともにあることを証しする意味でも、目に見えるかたちでの信仰のしるしを必要としていた。それが幕屋であり神殿の存在意義なのてす。

 それは、同時にこの世にありながら、将来的に建てられる神の国での礼拝を具現化するものでもありました。それで、内部に金を施し、聖なる神のご性質を表現したのでした。

 しかし、現在はそのような神殿は、ユダヤ教にすら存在しません。当然、ユダヤ教徒であるイスラエル人ならば現在でも欲するものではあると思いますが、今はユダヤ教徒の会堂であるシナゴーグでの礼拝が一般化しており、おそらくそのかたちでの礼拝がふさわしいのでしょう。

 それはキリスト教会も、そのスタイルを受け継いでおり、各地にある教会堂における礼拝が一般的になっています。

 

3.新しい時代における神殿

 では、もう神殿はいらないのでしょうか。なくても良いのでしょうか。そのとおり、物理的な意味での建造物としての神殿はもはや必要なくなったのです。それは、イエス・キリストの十字架と復活によってはじまった新しい礼拝の故であるからです。

 それは、イエスが十字架にかかられ、死なれたときに、神殿の中の聖所と至聖所を隔てるケルビムが織り出された幕が上から下まで真っ二つに裂かれたことで表されました。

 そして、その後、聖霊が遣わされてからは、その聖霊が住む一人ひとりのクリスチャンのからだが神の神殿になったとパウロは言います。

 更に、黙示録に至っては、このように記されているのです。

 

"私は、この都の中に神殿を見なかった。全能の神である主と子羊が、都の神殿だからである。
都は、これを照らす太陽も月も必要としない。神の栄光が都を照らし、子羊が都の明かりだからである。
諸国の民は都の光によって歩み、地の王たちは自分たちの栄光を都に携えて来る。
都の門は一日中、決して閉じられない。そこには夜がないからである。
こうして人々は、諸国の民の栄光と誉れを都に携えて来ることになる。
しかし、すべての汚れたもの、また忌まわしいことや偽りを行う者は、決して都に入れない。入ることができるのは、子羊のいのちの書に記されている者たちだけである。"
ヨハネの黙示録 21章22~27節


4.結び

 ソロモンは、こののちに来る天のエルサレムにおける礼拝の雛形として、また彼らが新しい時代を指差す、この世での礼拝者として世に主への礼拝を証するために、神殿を完成させたのです。

 私たちにとって、それは私たち自身のからだである聖霊の宮であり、その私たちが集まる教会であるとも言えます。そして、それが将来を指差す礼拝の前味となるからです。

 今、新型コロナウィルスで混乱している時代にあっても、私たちは、この礼拝をやめるわけにはいきません。天のエルサレムと繋がっている、この世の神殿としての役割があるからです。まだまだ感染対策は必要でしょう。楽観視することはできません。しかし、だからといって神殿の役割を放棄することはできないのです。十分に最善を尽くして対処した上で、その役目を全うするべきではないでしょうか。

 ぜひ、今日もその使命を覚えつつ、あなた自身という神殿を通して主の栄光を現していこうではありませんか。

 

"あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。
あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。"
コリント人への手紙 第一 6章19~20節