のりさん牧師のブログ

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◎ 2020年5月10日 白石教会礼拝 

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動画配信→https://youtu.be/tKkTPc_Dn6I

 

説教題 「割り込みされる会堂司」
聖書箇所 マタイの福音書9章18~26節

 


 今日から、あらためてマタイの福音書から説教を始めます。マタイの福音書は4つある福音書の中で、新約聖書中、一番最初に置かれています。その役割としては、旧約聖書新約聖書を繋ぐ書であると言えます。まさに1章1節の「イエス・キリスト系図」という書き出し。言い換えると「イエス・キリストの歴史である」という1節は、今もなお続く、新約の時代をも含む重要な宣言ともなっています。
 また、そのテーマはユダヤ人を対象に「メシア、王としてのイエス」について書かれていると言われています。ですから、その内容やエピソードの配置においても、他の共観福音書であるマルコやルカとは異なっている点が多いです。特に、これまで見てきた特徴としては、それぞれのエピソードをかなり簡略しているという点です。たとえば、あの中風の人が癒される話は、おそらく、知っている人ならば、あれは4人の男が友達のために屋根を破ってつり下ろしたと記憶しているはずですが、マタイの福音書では何人で来たのか、どうやって連れて来たかは書いていません。
 つまり、登場人物の詳しい情報よりも、イエスというお方が何をなさったのかが端的に記されているのです。それがイエスというお方の王としての権威であり、メシアであるイエスの姿だからと言えると思います。
 今日のお話もまた、他の福音書に比べると情報量もさることながら、置かれている場所もあえて入れ替えられています。それは、これから12使徒という弟子たちを選ぶにあたり、彼らに与える権威とはどのようなものか。それを与えるメシアであるイエスご自身の力は、またそのご性質はどうであったのか。そのことをまとめて語りたいからだと推察できます。19節の「弟子たちもついて行った」という情報はマタイだけが記しているのは、そういう理由があるからだと言えます。それは、この聖書をマタイに書かせた聖霊ご自身の導きの中でそうなさったと言うことができます。
 このマタイを通して描かれたこの箇所から、王である主のみことばにともに聞いていきたいと思います。
 
1.あなたの信仰があなたを直す
 今日のお話には二つの事件が出てきます。一つは会堂管理者(会堂司)と死んだ娘の蘇生にいたるエピソード。もう一つは長血を患った女性が癒されるというお話です。この会堂管理者(司)という人は、当時のユダヤ教の長老の一人であり、集会をする会堂の管理だけでなく礼拝が正しく行われるように監督する重要な役割と権限を持つ立場にありました。
一方、長血を患った女性とは、おそらく婦人科の病気であったと思われますが、当時の社会では汚れているとされていました。今日の場面でも、人目につかないように、こそこそしているのがわかりますが、会堂管理者から見れば、社会的にかなり低い、蔑まれたところに置かれた人でした。そのように傍から見れば雲泥の差があった二人でしたが、イエス様が見ているのはそういうところではありませんでした。
 それでこの二人がイエス様にどのように接触したのか、まず見ていきたいのです。18節、19節をお読みします。
「イエスがこれらのことを話しておられると、見よ、ひとりの会堂管理者が来て、ひれ伏して言った。『私の娘がいま死にました。でも、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。そうすれば娘は生き返ります。』イエスが立って彼について行かれると、弟子たちもついて行った。」
 会堂管理者には娘がいたのですが、その娘が死んだというのです。マルコの福音書を見ると12歳だったことがわかります。どういう病気かはわかりません。わかることは、まだ若いというか、幼いにも関わらず、いのちを落としたということです。そして、その死を目の当たりにしたこの父親をはじめ家族の悲しみがそこにあったということです。
 そこで彼はイエス様の評判を聞いていたのでしょう。このお方ならばなんとかしてくれる。いや生き返らせてくださると信じていたのです。それで周囲の人たちが見ている前で、ひれ伏したのです。おそらく、そこにはこの会堂管理者をよく知っている他の長老とかユダヤ教指導者もいたでしょう。しかし、彼はそのような社会的メンツではなく、ただイエスを信じ、イエスの権威にひれ伏して依り頼んだのでした。しかも、この「ひれ伏した」には、ひれ伏し続けていたとか、繰り返しひれ伏していたというふうに、継続、反復の意味があります。そこに彼の主イエスに対する信仰が溢れているのです。周囲を気にしないで、何度も何度も地べたに跪いてひれ伏す姿は土下座と同じに自分という存在を空しくして、相手を尊ぶ態度です。そこにあるのは、無力な自分を認め、その弱さの中に立っていてくださる主により頼む絶対的な信頼、希望の表れです。
 一方、長血を患った女性はどうでしょうか。20節、21節を読みましょう。
「すると、見よ。十二年の間長血をわずらっている女が、イエスのうしろに来て、その着物のふさにさわった。『お着物にさわることでもできれば、きっと直る。』と心のうちで考えていたからである。」
 彼女は彼女で、身を潜めながら群衆に紛れていたと他の福音書に書かれています。マタイはそのことは記さずとも「イエスのうしろに来て」という言葉で、この女性の生き方そのものを描写しているようです。彼女は12年間もこの病気を患い、これまで信頼していた医者に騙され、全財産を失い、散々な目にあってきた人でした。そこで、彼女はイエス様のことを知り、身を隠して後ろからイエス様に触ることで癒されると信じたのです。この21節をもっと素朴に訳すならば、こうなるでしょう。
「彼女は自分自身の中で言った。」「もし私が彼の衣に触るだけでも癒される」
 21節の「心のうちで考えていた」という言葉の直接的な意味は、「彼女は自分自身の中で言った」というふうに、心の中でただ思っていたとか、考えていたというよりも、自分という人格に自分で言い聞かせるようにしていたということです。しかも、ここもあの会堂管理者と同じように言い続けていたとか、繰り返して言ったというふうに、継続、反復の意味が表わされているのです。
彼女は何度も何度もイエス様こそ私を癒すお方、いやそれ以上に救うお方として信じて、自分自身に言い聞かせていたのです。それが「きっと救われる」という言葉に表されています。これを記録したマタイはこの二人の信仰者の主イエスに対する信仰をきちんと同じように、ひれ伏し続ける、言い続ける、繰り返す表現で強調しているのです。
 だからこの女性もイエス様こそ、私を救うお方であると繰り返し言っていた。それも自分自身に。それは彼女が孤独であったということも読み取れると思います。誰にも相手にされず、騙され財産を失い、身も心もボロボロの中で、誰にでもない自分自身に繰り返し言い聞かせながら。勇気を出して着物に触るのです。
 その彼女に、主は振り向いて言われました。22節。
「『娘よ。しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを直したのです。』すると、女はその時から全く直った。」
 主は、「あなたの信仰があなたを直した(救った)」と言ってくださいました。それは、彼女のどういう信仰をご覧になって仰ったのでしょうか。それは、彼女自身の無力さ、弱さ、貧しさ、そして罪深さを知り、それを認めへりくだった姿ではないでしょうか。
 主イエスの権威を信じるということは、同時に自分自身の無力さを認めることです。主イエスのきよさを認めるとは、同時に私自身の罪汚れを知るということです。
 それが、あなたの信仰があなたを救ったということです。自分自身に救われるべきものがないと認めるからこそ、救ってくださる方にすべて委ねられるのです。それが山上の教えから続く主イエスの祝福です。

2.割り込まれても
 そして、あらためて、もう一度、会堂管理者(会堂司)のことも覚えたいと思います。というのも、会堂管理者にしたら、この場面はどう見ても割り込まれている状況だからです。
 結果的に、彼の娘は主イエスによって生き返りました。その出来事は驚くべきことですが、今日の箇所でマタイが伝えていることは、ただ主イエスというお方にある権威と、それを信じ認め、心を貧しくして神の国の国民とされた二人の信仰者です。そして、その中でも会堂管理者は途中、後回し状態にされて、家に帰ったときには、もう葬儀が始まっていたという実に悲しい場面です。しかも、他の福音書の情報を見ると、この会堂管理者がイエス様のところに来た時には、娘は生きていました。
 みなさんは割り込まれる、横入りってどんな気持ちがするでしょうか。最近、スーパーで買いものをしてレジに並ぶと、床に社会的距離を取るための表示がされているのを見かけます。私も先日、買い物をしてレジで並ぼうとすると、長蛇の列で丁度、レジの前の通路よりも売り場の谷間に差し掛かったところでした。だから、別な角度から見たら、私の姿は見えず、私の列が、きっと空(す)いているように見えたと思うのですが、ある人が、すっと私の前に横入りして並んだのです。
 私はすかさず、「あっ並んでいるんですけど」と言ったんですが聞こえなかったのか、こっちを見たはずなのに、つらーっとそのまま私の前に並んだままで、結局はそのままお会計したのです。
 私は久しぶりに腹が立ちましたが、あとで思い返すと、自分の後ろに横入りされてもきっとさほど嫌ではないけど、前に入られると腹が立つなと、自己分析しながら笑ってしまいました。そういうことはよくあります。車の運転でも強引な横入りは嫌ですよね。また、入れてあげたのに、挨拶もなければ、ハザードランプでの合図もないと腹立てたり、結局、自分は器が小さいなと今は思います。でも、目の前であったそのときはイラつくものです。
 しかし、この会堂管理者は、初めから「死んだ娘を生き返らせてくださる」というイエス様への篤い信頼を持っていました。それは強い思いとか、念力のようなものではなく、長血を患った女性と同じように、無力な自分を受け容れ、社会的地位もメンツ投げ捨て、全能の主、真の王であるイエス様の前に繰り返しひれ伏して求め続けるへりくだりです。
そして、もう一つ。それが女性の割り込みに腹を立てず受け容れていたことです。むしろその様子、彼女のことば、癒し、主のことば、その御業をしっかり見ていたのではないでしょうか。それは自分のタイミング、自分の計画、自分の方法ではなく、主のタイミングを信じ、主のご計画の中で、主の方法で行われることを受け容れていたからではないでしょうか。
それは、まさに自分の心の王座に、また人生の王座に座っていた自分自身を引きずり下ろして、そこに主イエスを真の王としてお迎えしたからではないでしょうか。私の予定、私の計画、私の人生ではない。主の予定、主の計画、主の歴史に私たちは招かれていると知るとき、あなたの生き方は180度変わります。
歴史とは英語でhistoryと言います。それはHis story(彼の物語=神の物語)という意味だとよく言われます。そうです。私たちは神の歴史の中に生かされているのです。でも私たちは、自分の人生、自分の時間、自分の歴史というふうに、自分がその主人公だと思って生活いているものです。しかし、「私の人生、私の時間、私の歴史」という自分が主語の人生ならば必ず破綻します。行き詰ります。もし、この会堂管理者がこの女性の横入りにブチ切れていたら、このエピソードは聖書には記されなかったでしょう。しかし、彼のへりくだった姿は、マタイ、マルコ、ルカという福音書にしっかりと記録され、神のことばとなって世界中の人たちを励ましているのです。
あなたも自分という人間が大きな神という存在の中に愛され、生かされ、支えられている、神の歴史の中に私が招かれていると知るとき、神のいのちに生きる喜びを得るのです。それが、マタイの福音書1章1節が今も私たちの歩みを覆っているという意味です。イエス・キリストの歴史の中に私たちは招かれているのです。
 
祈り