日本メノナイト 白石キリスト教会

おもに聖書からのメッセージをお届けします。

◎2020年5月13日(水)列王記 第一 8章65~66節

f:id:kinokunizaka66:20200513055844j:image

「礼拝から得る祝福」

【列王記 第一 8章65~66節】

"ソロモンはこのとき、ともにいた全イスラエル、すなわち、レボ・ハマテからエジプト川に至るまでの大会衆と一緒に、七日と七日の十四日間、私たちの神、主の前で祭りを行った。
八日目に王は民を帰らせた。民は王に祝福のことばを述べ、主がそのしもべダビデと、その民イスラエルに下さったすべての恵みを喜び、心満たされて、彼らの天幕に帰って行った。"

 イスラエルの民は、ソロモン王に導かれて神の前に神殿奉献の礼拝をささげました。ソロモンは全会衆を代表して、奉献の祈りを行い、主がダビデに対して約束された契約に基づいて、そのことばのとおりに履行されることを願いました。

 同時に民に対しても、そのためには、主の掟に従い、誠実に御前を歩むことを誓わせたのです。そして、交わりのいけにえをささげ、礼拝は最高潮に達し、喜びのうちにそれぞれの天幕へと帰ったのです。

 この彼らの礼拝を終えて帰る時の様子は、あのベツレヘムでお生まれになった主イエスを礼拝しに来た羊飼いたちの様子に重なります。

 

"羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。"
ルカの福音書 2章20節


 礼拝とは神への感謝と喜びに満たされるものです。使徒ペテロも、その心の状態をこのように表しています。

"あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。
あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。"
ペテロの手紙 第一 1章8~9節


 神に救われ、神の民となった者には、このような喜びが伴うものなのです。しかし、私たちの日常は果たして、神を喜び、感謝をもって、喜び踊るように生活しているでしょうか。特に、主日礼拝をささげ、その帰り道は本当に、今日みことばで見たイスラエルの民たちのように、「主がそのしもべダビデと、その民イスラエルに下さったすべての恵みを喜び、心満たされて」いるでしょうか。

 イスラエルの民の喜び、満たされた心は何によってもたらされているでしょう。それは、個々の民、自分だけに与えられた恵みではなく、その民すべてに下さった恵みです。私に与えられた恵みだけでなく、あの人にもこの人にも、主が与えておられる恵みなのです。

 私たちは、主の恵みを考えるときに、つい自分に益となったことだけを思いがちではないでしょうか。でも、それだけでは不十分なのです。もちろん、自分に与えられた恵みに気がつき感謝することは良いことです。でも、主が求め、また与えようとしている喜びとは、自分だけでなく、他の人の祝福もともに喜び、隣人の喜びを自らの喜びとする人なのです。主は、そのような礼拝者を求めておられるのです。

 なぜならば、主を礼拝するとは、個人ではなく集団、群れが一つとなってささげるときに、神の栄光が豊かに与えられるからなのです。

 私たちの礼拝は現在、新型コロナウィルスの対策のため、礼拝を自粛しており、今までのように、喜んで集まって密集することを避けなければならない状況にあります。本来ならば、多くの人たちが集まって一つとなるところに喜びがあり、心満たされて家路についていたものですが、現在では、集まることを避けるという、ある意味、礼拝することが妨げられていると受け取ることができます。

 でも、このウィルス騒動を通して、これまで当たり前にしてきた、みんなで集まることが、どれほど恵みであったのかがわかります。こんなにも、集まらないことが寂しく、喜びを半減させるものかと。

 だからこそ、ともに願いましょう。ともに祈りましょう。あらためて、皆さんと一緒に集まって、喜びを一つにして賛美し、感謝し、礼拝をおささげすることを。その日が一日も早く戻ることを。それが主の再臨をも意味していることも覚えましょう。

 皆さんが本当の意味で集められ、心を一つにして礼拝をささげるのは、完成された御国においての礼拝であるからです。

 今日も、皆さんの上に主の大いなる恵みが注がれますように。主の御名によってお祈りいたします。

 

"あなたがたも今は悲しんでいます。しかし、わたしは再びあなたがたに会います。そして、あなたがたの心は喜びに満たされます。その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。"
ヨハネ福音書 16章22節