のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

◎2020年5月17日 礼拝説教

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説教題 「イエスは彼らの目にさわって」

聖書箇所 マタイの福音書9章27~34節

 

 イエス様の時代、どういう病気が最も多かったのかわかるでしょうか。

 それは目の見えない病気の人です。新約聖書の中で50回も出てくる言葉です。ちなみに今日の箇所の後半に出てくる口のきけない人は14回、それから重い皮膚病であるツァラアトは9回です。これは、イエス様が目の見えない人ばかりに関わったというよりも、当時、そのような人多かったということです。

 今日の箇所が新約聖書で一番最初の「目が見えない人」の登場です。そして、ここが山上の教え後に山から降りてきて、12弟子を任命する前のクライマックスでもあります。それは先週も言いましたが、マタイの福音書では、メシア、王さまであるイエス様が表わされており、その権威のもとに、その祝福のご支配の中に人々が招かれている。そういう招かれた人々の中から弟子が選ばれるのです。その前段階として、今日、招かれているのは目の見えない人たちです。前半は、この盲人たちと言われている人たちとかかわるイエス様を見ていきたいと思います。後半は、悪霊につかれて口のきけない人の癒しのお話ですが、基本的にはそのような奇蹟を目の当たりにした周囲の人たちのことです。つまり、前半は目は見えないけれどもイエス様を信じた人のこと。後半は、見えているのに、目の前で主の業を見ていながら信じない人たちのことです。

 

1. ダビデの子よ

 27節を読みます。

エスがそこを出て、道を通って行かれると、ふたりの盲人が大声で、『ダビデの子よ。私たちをあわれんでください。』と叫びながらついて来た。」

 どうして、当時は目の見えない人が多かったのかと言いますと、気候的に夏は非常に暑く、土埃がひどく、しかも不衛生ですので、それこそ自己免疫力が落ちると簡単に結膜炎になるし、適切な治療方法がないので、悪化して失明してしまうということがよくあったそうです。

 この二人の盲人もそのような環境の中で、目が見えなくなったのかも知れません。でも、彼らはイエス様のことを聞きつけて身許にやってきました。しかも、イエス様が歩いているのを、目が見えないけれども、長年目が見えないことで研ぎ澄まされた感覚でついて行ったのでしょう。ここで、この人たちはイエス様のことを何と呼ぶのか。…それは「ダビデの子よ」です。

 これまで、イエス様のことをこのように言う人は出て来ていません。あえて言うならば、この福音書の著者マタイが1章1節の系図の中で、「ダビデの子孫(つまり子)」と呼んでいます。実は、この繫がりが、今日のこの箇所が12使徒任命前におけるクライマックスである理由です。それは、マタイが1章から差し示して来たことが、この二人の盲人の口を通して証しされているからです。

 いうなれば、あの系図から、ここまでのすべての記事を通して、イエスこそダビデの子であるということを証明しているということです。そのために、この二人の盲人が用いられているのです。「ダビデの子」というのが何でそんなに重要なのかというと、それは、イコールメシアという意味だからです。救い主・王さま・メシア。それが「ダビデの子」という言葉が持っている意味なのです。

 でも、ここでイエス様はなぜか振り向かず、家に入ってからお答えになります。

28節。

家にはいられると、その盲人たちはみもとにやって来た。イエスが「わたしにそんなことができると信じるのか。」と言われると、彼らは「そうです。主よ。」と言った。」

 おそらく、それはメシアという意味がこの当時は、確かに救い主という意味なのですが、あのダビデのようにばったばった敵を武力で倒す政治的な王さまとして認識している人がほとんどだったので、外で、答えると誤解を周囲に与える恐れがあったからでしょう。

 イエス様は、「わたしにそんなことができると信じるのか」と彼らの願いを確認されます。彼らの願いとは「あわれんでください」でした。そんなに具体的なお願いではありませんでしたが、イエス様は彼らの思いをご存じでした。でも、あえて彼らの口から、その願いをお聴きになるために、このような質問で返されるのです。

 これは、私たちに対しても同じです。主は私たちの祈りを喜ばれます。私たちの思いをご存じなのに、あえて私たちが自分の口から言う言葉をお聴きになりたいのです。それはどうしてか。それは、私たちとお交わりになることを望んでおられるからです。どうして、私たちと交わりたいのか。それは私のこと、あなたのことを主は愛しておられるからです。

 私たちが自分の子どもと話がしたいように、愛するあの人と一緒にいたいと思う様に、神様はあなたのことを愛し、お話がしたい、また話を聞きたいと待っていてくださるお方なのです。

 イエス様も具体的なことはおっしゃらず、「わたしにそんなことができると信じるのか」と彼らの心を知っているよ。でも言ってごらんと優しく語りかけます。そのあとの彼らの答えがまた素晴らしいです。彼らは「そうです。主よ」とあなたはこんな私のことをよくご存じです。その憐みをかけてくださるだけで良いと答えたのです。この短いが熱い思いがこもった言葉こそが、彼らの主への信頼だったのです。そこで29節。

「そこで、イエスは彼らの目にさわって、『あなたがたの信仰のとおりになれ。』と言われた。」

 その憐みとは、彼らの目を開くことでした。そこで初めてこの二人の人たちは、イエス様を肉眼で見ることになったのです。今まで、イエス様についての情報を人から聞くだけでした。また、イエス様ご自身のお話も、耳で聞くだけでした。ここでようやく主の御顔をその目ではっきりと見て、嬉しくてしょうがなかったのでしょう。イエス様から、「決してだれにも言わないように」と言われながら、31節を見ると「言いふらした」と書いてあります。

 どうして、言い広められたら困るのか。それは、やはり、最初に戻りますが、このうわさが広まりすぎると、勘違いした人たちから政治的な王さまだと担ぎあげられて、単なるクーデターに利用されかねないからでしょう。多くの人はこの当時イスラエルを支配していたローマ帝国に対して敵意を持っていましたから、そういった誤解を受けることを避けたからだと言えると思います。

 そして、もう一つは、イエス様のことをよく思わない宗教指導者たちの嫉みを買うには、まだ時期が早かったからだと言えるでしょう。だから、このあと32節以降では、パリサイ人たちが出て来て、イエス様の奇蹟を悪霊の仕業だと言って、まったく受け入れていない様子が描かれています。

 

2. しかし…

 今日のポイントとなる箇所は33節、34節です。というのも、ここに肉眼でイエス様というお方と、その教えと、その業を見ていながら、信じない人がいるという現実が示されているからです。

「悪霊が追い出されると、その人はものを言った。群衆は驚いて、『こんなことは、イスラエルでいまだかつて見たことがない。』と言った。しかし、パリサイ人たちは、『彼は悪霊どものかしらを使って、悪霊どもを追い出しているのだ。』と言った。」

 周囲の人たちは、イエス様が悪霊を追い出されるのを見て驚きました。信じたとは書いていませんが、彼らなりの驚きの反応があったということは、何らかの心の変化があったということです。しかし、パリサイ人たちは、イエス様の力を侮辱します。イエス様の力とはすなわち、聖霊の働きですから、彼らの言葉は聖霊を汚す言葉です。

 いくら目が見えていても、いくらイエス様がメシアである証拠として、癒しを行っても、信じる人と信じない人がいるのです。

 今日のメッセージの前半は、二人の人は盲目にも関わらず、聴いた情報だけでイエス様を信じ、しかも憐みをかけてくださるメシアとして受け入れていたということでした。そして、後半は、五体満足で目もきちんと見えていながら、その目でイエス様のお顔を見続け、その教えを聞き続け、その業を目の当たりにしていながら、信じない。信じないだけでなく、イエス様に敵対する人がいるという内容です。

 私も、かつて神様のことは何となく信じていながら、でもはっきり見えたらすぐに信じるのになあと思っていたことがあります。でも、「信じる」って、目に見えないものだからこそ信じるのであって、目に見える証拠を見たから信じるというのは、本当の意味での「信じる」ではありません。

 聖書には、「信仰は望んでいる事柄を保障し、目に見えないものを確信させるものである」と書いてあります。ですから、見て信じる信仰は本当の信仰ではないのです。もし、それを「信仰」というのであれば、どんなときもを求めるクリスチャンになるでしょう。でも、それは間違いなのです。大切なことは、聴いたこと、その聞いたみことばで信じることです。もし、仮に見えるかたちで目の前にイエス様がたとえ現れても、耳で聞いて信じない人は、実は肉眼で見たとしても信じないのです。それは、神様と取引をしようとするのと同じです。

 聖書にもときどき、そういう人が出てきます。モーセもギデオンもそうでした。でもそれは、初めのうちだけです。神様というお方との関係性ができてくると、そのような目に見えるしるしよりも、もっと大切な純粋な信頼、その憐みを知るだけで満たされるようになります。つまり、愛で結ばれた関係が構築されてくると、その愛だけで十分なのです。

 今日、登場した二人の盲人は、その憐みを求めている信仰者でした。一方、すべてを見ていたパリサイ人たちは、イエス様と悪霊の区別がつかず、かなり上から目線で、イエス様をさばいていました。しかも、パリサイ人たちは、聖書の先生でもあります。聖書をよく読んでいて、聖書に詳しいはずの人たちが、イエス様に反抗しているのです。これが、34節の「しかし」の意味です。

 

結び

 私たちはどうでしょうか。何をいつも主に求めているでしょうか。でも良いのです。神様に話したいことはどんどんお話して、すっきりするべきです。

 祈っているうちに、与えられている恵みの数々に気づかされ、ただ憐れんでいただいているという事実だけで、不思議と心が満たされていきます。実は大事なことは、周囲の環境的な変化や、まわりの人たちが変わることではなく、自分自身の内側に問題がある。そこに気づかされていきます。しかし、そこを主が触れてくださるだけで、ふっと軽くなることを味わされるのです。

ダビデの子よ。私たちをあわれんでください」と叫ぶ二人の盲人に対して、イエス様の答えは、なんだったでしょうか。

 それは、29節。「イエスは彼らの目にさわって」とあります。これが、彼らが求めていたことでした。「憐れんでください」という願いの答え。それが、主が彼らの傷ついたところに触れてくださるということです。結果的に目が見えるようになりました。それは、主の憐みの結果であって目的ではありません。もし、彼らの目がこのままだったとしても、主の憐みは彼らを生かしたでしょう。ある意味、この目の癒しは彼らの魂の状態を象徴していると言えます。主の憐みの中で、私たちの魂の生まれ変わることが何よりも大切だからです。

 スコットランド人の讃美歌の作者であり、牧師でもあるジョージ・マセソンという人がいました。このあと歌う讃美歌529を作詞した人です。彼は伝道者として歩み始めていた二十歳前の若い時に、婚約をしました。そのときから視力は落ちていたらしいのですが、二十歳になったときに、完全に視力を失うという悲しい経験をします。しかも、それが原因で、その婚約者からも婚約を解消されてしまいます。そこで彼は、傷つき、絶望し、伝道者としての働きをすべてやめようと考えました。しかし、その葛藤の中で彼は、こう祈ります。

「私の主よ。私は自分のバラの花については数多く感謝をささげてきましたが、からだの棘に対しては、ただの一度も感謝をしたことがありません。私が負う十字架の栄光について教えてください。私の棘の価値について悟らせてください。私が苦痛の道を通して、あなたに近づいていくことを教えてください。私の涙が虹をつくるということを見せてください。」

 それは、簡単にささげることのできない祈りでした。しかし人生で一番つらい時にすべてのものを失った彼は、イエスさまが憐みをもって、その棘に日々触れてくださっている慰めを経験したのです。主の十字架は私の棘の痛みを主ご自身が負われている憐みのしるしであったのだということです。そこを通されてあらためて牧師として立たされていきました。そこから、あらためて主の憐みを人々に伝えずにはいられなくなった。この盲人たちのようにです。

 

 今日、皆さんにとって心を曇らせている問題とは何ですか。だれかとの人間関係ですか。仕事のことですか。家庭内の問題ですか。将来への不安でしょうか。それとも身体の病気やケガのことでしょうか。コロナウィルスのことでしょうか。

 でも、あなたの心の奥にある曇った心の目、感謝できない棘があるならば、今日、すべてを主にお話して主に触れていただき、その中で、主の憐みをいただきましょう。

ダビデの子よ私をあわれんでください」と打ち明けて、益々、十字架の上でその棘に触れてくださっている主の憐れみを覚え、さらに信仰の目が開かれて歩みたいと思います。

 

祈り