のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

◎2020年5月22日(金)きょうのみことば

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列王記 第一 14章7~11節

"行って、ヤロブアムに言いなさい。イスラエルの神、主はこう言われる。『わたしは民の中からあなたを高く上げ、わたしの民イスラエルを治める君主とし、
ダビデの家から王国を引き裂いて、あなたに与えた。しかしあなたは、わたしのしもべダビデのようではなかった。ダビデはわたしの命令を守り、心を尽くしてわたしに従い、ただ、わたしの目にかなうことだけを行った。
ところがあなたは、これまでのだれよりも悪いことをした。行って自分のためにほかの神々や鋳物の像を造り、わたしの怒りを引き起こし、わたしをあなたのうしろに捨て去った。
だから、見よ、わたしはヤロブアムの家にわざわいをもたらす。イスラエルの中の、ヤロブアムに属する小童から奴隷や自由な者に至るまで絶ち滅ぼし、人が糞を残らず焼き去るように、ヤロブアムの家の跡を除き去る。
ヤロブアムに属する者は、町で死ぬなら犬がこれを食らい、野で死ぬなら空の鳥がこれを食らう。』主が、こう言われたのです。"

  主はヤロブアムを立てて北イスラエル王国の王としましたが、ヤロブアムはユダ王国に対抗して、北イスラエルの人々が巡礼のためにユダ王国の地にある神殿に行くことのないよう、北イスラエルの北限にあるダンと、ユダ王国との境にあるベテルに金の子牛の像を置き、祭壇を築き、主の前に罪を犯しました。

 

列王記 第一 12章26~30節

"ヤロブアムは心に思った。「今のままなら、この王国はダビデの家に帰るだろう。
この民が、エルサレムにある主の宮でいけにえを献げるために上ることになっているなら、この民の心は彼らの主君、ユダの王レハブアムに再び帰り、彼らは私を殺して、ユダの王レハブアムのもとに帰るだろう。」
そこで王は相談して金の子牛を二つ造り、彼らに言った。「もうエルサレムに上る必要はない。イスラエルよ。ここに、あなたをエジプトから連れ上った、あなたの神々がおられる。」
それから彼は一つをベテルに据え、もう一つをダンに置いた。
このことは罪となった。民はこの一つを礼拝するためダンまで行った。"

 この罪をヤロブアムは悔い改めることなく、イスラエルの民に偶像礼拝の罪を犯させる結果となってしまいました。それで主は、老預言者アヒヤを通してヤロブアムにさばきのメッセージを語ったのでした。

 特に今日、覚えたいのは、ヤロブアムの主に対する罪について、主がこう言われていることです。

 

列王記 第一 14章9節

"ところがあなたは、これまでのだれよりも悪いことをした。行って自分のためにほかの神々や鋳物の像を造り、わたしの怒りを引き起こし、わたしをあなたのうしろに捨て去った。"
 

 主はヤロブアムによって「うしろに捨て去られた」と言われたのです。主が選んでヤロブアムを王としたのに、彼はその恵みに対して仇で返すように、金の子牛を造り、それを目に見えるかたちにした主であると、人々が主に逆らっていると思わせないようにしました。そのことを「わたしをうしろに捨て去った」と語り、彼が犯した罪によって主がそのようにされ傷ついたことを告白されたのです。

 主は唯一絶対の神ですから、被造物に依存したり、それによって存在を危うくされることはありません。しかし、そのような主があえて仰せられるのです。「わたしをうしろに捨て去った」と。それは、主ご自身の御心が傷ついたという証しであり、ヤロブアムによってダメージを受けたという告白だったのです。

 主は私たちの罪を悲しまれます。特に主を忘れ、主の御心に反する行為、その思いに心を傷められるのです。

 ヤロブアムに必要なことは何でしょうか。それは、罪を悔い改めることです。彼の間違いは、罪を犯した事実よりも、その罪を悔い改めることもなく放置したことでした。

 主が比較しているダビデだって罪を犯して、主の御心をかなしませたことがあります。でも、主はそのダビデのことを、ダビデはわたしの命令を守り、心を尽くしてわたしに従い、ただ、わたしの目にかなうことだけを行った。」と称賛し罪のことには触れていません。それは、ダビデが悔い改める人だったからです。主は私たちが弱く貧しく、罪深いことをよくご存知です。だから、罪から離れて生きるように願われ、律法を与えられたのです。

 だからこそ、その律法に照らして、罪は罪として反省し、悔い改めるならば赦されるのです。しかし、それを放置したままならば、その罪の責任を問われます。

 ヤロブアムは息子アビヤが病気になったときに、預言者アヒヤのところへ妻を遣わし何を願ったでしょうか。それは、これまでの罪を悔い改めて、息子アビヤの癒しを願うのではなく、アビヤの病気がどうなるのか聞いてくるというだけでした。しかも、神の預言者を軽くみて、身分を隠してそのことを願ったのです。つまり生きて働かれる真の神である主を占い代わりに利用しようとしたのです。

 それが主をうしろに捨て去ることだったのです。ヤロブアムのすることは、ことごとく主を捨て去り、主への信仰も占い程度のものとして蔑む行為でした。

 きょうのみことばから、私たちも適用できます。それは、主なる神を自分に都合の良いように利用していることはないだろうかということです。

 罪を犯しても自分に都合の良いように解釈して、それを罪とせず、占いがわりに聖書を読み、みことばを軽んじていることはないだろうか。もし、そうしているならば、主は私たちにも言われます。

「あなたはわたしをうしろに捨て去った」と。きょうあらためて、主が私たちにしてくださった大きな恵みを覚えましょう。私たちが主を選んだのではない。主が私たちを選び任命したことを。

 ただただ、主の憐みと恵みが私を、そしてあなたを覆っているのです。その、主の愛を軽んじてはなりません。主はいのちを捨ててまであなたを取り戻してくださったのですから。

 主はあなたを愛しています。占い程度に軽んじられるのではなく、あなたと親しく交わることを願っておられます。今日も主の愛と恵みに感謝して、主の喜びを我が喜びとして歩むものでありたいです。

 

"私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。"
ヨハネの手紙 第一 4章10節

 

"私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。"
ヨハネの手紙 第一 4章19節