日本メノナイト 白石キリスト教会

おもに聖書からのメッセージをお届けします。

◎2020年5月27日(水)きょうのみことば

 

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列王記 第一 16章21~34節

"当時、イスラエルの民は二派に分裂していた。民の半分はギナテの子ティブニに従って彼を王にしようとし、もう半分はオムリに従った。
オムリに従った民は、ギナテの子ティブニに従った民より強かったので、ティブニが死ぬとオムリが王となった。
ユダの王アサの第三十一年に、オムリはイスラエルの王となり、十二年間、王であった。六年間はティルツァで王であった。…… オムリは主の目に悪であることを行い、彼以前のだれよりも悪いことをした。
……… オムリの子アハブは、彼以前のだれよりも主の目に悪であることを行った。
彼にとっては、ネバテの子ヤロブアムの罪のうちを歩むことは軽いことであった。それどころか彼は、シドン人の王エテバアルの娘イゼベルを妻とし、行ってバアルに仕え、それを拝んだ。
さらに彼は、サマリアに建てたバアルの神殿に、バアルのために祭壇を築いた。
アハブはアシェラ像も造った。こうしてアハブは、彼以前の、イスラエルのすべての王たちにもまして、ますますイスラエルの神、主の怒りを引き起こすようなことを行った。
彼の時代に、ベテル人ヒエルがエリコを再建した。彼は、その礎を据えたとき長子アビラムを失い、門を建てたとき末の子セグブを失った。ヌンの子ヨシュアを通して語られた主のことばのとおりであった。"

 主の目の前に悪を行うオムリ王のあとを継いだアハブもまた主の目の前に悪を行う者となりました。

 特にアハブは、シドン人という異教の王であるエテバアルの娘イゼベルと結婚したことは、北イスラエル王国のみならず、イスラエル全体に悪を及ぼすことになりました。

 主がイスラエル人たちをエジプトの地から連れ上るときから、カナンの宗教を警戒して、その地の民を聖絶することを命ずるほどに、その地の宗教は堕落していたことがわかります。

 

"あなたの神、主が相続地として与えようとしておられる次の民の町々では、息のある者を一人も生かしておいてはならない。
すなわち、ヒッタイト人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人は、あなたの神、主が命じられたとおり必ず聖絶しなければならない。
それは、彼らが、その神々に行っていたすべての忌み嫌うべきことをするようにあなたがたに教え、あなたがたが、あなたがたの神、主の前に罪ある者とならないようにするためである。"
申命記 20章16~18節

 

 しかし、アハブは父オムリ同様、主の目の前に悪を行い、しかもイスラエルに主が忌み嫌う宗教を持ち込んだのです。そもそも、ヤロブアムによってユダ族と分裂し北イスラエル王国が建国されてから、正しい主への礼拝は行われてはいませんでした。それでは、何がこれまでと違っていたのでしょうか。これまでの主の目の前での悪と、アハブの悪とは何が異なっているのでしょう。

 それが、このバアル信仰にある不道徳の極みだったと推察できます。バアル信仰とは、天候神の男神であるバアルと大地神の女神であるアシュタロテ等が交わることで、大地が実り、五穀豊穣に繋がると考えられていたため、旱魃などで農作物が採れなくなると、バアル神の欲情をそそらせて雨を降らせるための淫行が礼拝として公然と行われるのです。それが、神殿男娼、娼婦の役目でした。そのようなことが宗教行為として慣習化していくことで、おのずと一般的な社会活動、文化にも影響を及ぼします。つまり、主の求めるきよさとは程遠い生き方が当たり前になってしまうのです。

 その忌み嫌うべき宗教が、神の民イスラエルの中に入って来た。それがアハブとイゼベルが結婚したことに含まれる主の目の前における悪であり、それはこれまでも悪と言われたオムリすら行ってこなかった行為だったのです。

 でも、そのようなことをどうしてアハブは行ってしまったのか。それは、やはり、これまでの父オムリ以前からの主の律法を軽んじ、主への礼拝を正しく行わず、主のみことばに耳を傾けなかった結果だと言えるでしょう。どんなことも、そのようになる原因があり、知らないうちに、その悪いものに巻かれてしまうものです。アハブも父オムリから受け継いだ主を軽んじる生き方の延長線上で、結果的にこれまで以上の罪を犯すことになったのでしょう。

 これは、私たちに対する教訓でもあります。私たちも、罪を罪として、その都度、悔い改めていかなければ、その罪の雪だるまが知らないうちに、扱いきれないほどに大きくなり、しまいにはその雪だるまの下敷きになってしまうのです。神を愛し、神の喜ばれる生き方を望むならば、日々、主のみことばに耳を傾け、それを実行できるように祈っていかなければなりません。その中で、大切なことは何でしょうか。それは、あなたのためにいつも恵みを与え続けておられる主なる神を愛することです。私たちは、宗教をやっているのではありません。私たちの神であるお方、主を愛するからこそ、そのように生きたいと願わされるのです。

 そのために神は、御子をこの世に遣わし、私たちが主の目の前に犯した悪を負わせて十字架に磔にしてくださいました。ここに神の愛が完全に示されたと聖書は言っています。だからこそ、その愛を受け取って、私たちもその主を益々愛するものとされていこうではありませんか。主の目の前に悪を行うものから、主への愛を実践するものへと変えられてまいりましょう。

 

ヨハネの手紙第一3章1~3節

1 私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。事実、私たちは神の子どもです。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。
2 愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。
3 キリストにこの望みを置いている者はみな、キリストが清い方であるように、自分を清くします。