日本メノナイト 白石キリスト教会

おもに聖書からのメッセージをお届けします。

◎2020年5月31日 ペンテコステ礼拝

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動画礼拝:https://youtu.be/rIQ2ydX7gCw

説教題 「ただで受けたのだから」
聖書箇所 マタイの福音書9章35~10章1節


 4月12日のイースターから、会堂に集まる礼拝を自粛してきました。会堂が与えられたばかりなのに、毎週、からっぽになった礼拝室の中で、私と妻は二人で礼拝をすることになりました。でも今日から、正式に皆さんと会堂に集まって一緒に礼拝をささげています。私は、この様子は、バビロン捕囚のときのイスラエル人のようだなと思います。
主に贖われた者たちは帰って来る。あのペルシャのクロス王によって解放されて、ユダヤ人たちが約束の地に帰って来たように、今日、私たちは、この主が建ててくださった会堂に集まることができました。バビロン捕囚から帰ったユダヤ人たちは、これから神殿建設でしたが、私たちは既に会堂が与えられている。すぐに礼拝を行なうことができる。それがペンテコステの日「聖霊降臨日」であることに感謝したいと思います。
それは、ペンテコステは別名、教会の誕生日とも言われ、弟子集団が改めて、キリスト教会となった日だからです。これまでの弟子集団とこのペンテコステ後の弟子集団と何が違うのか。それは神ご自身である聖霊がこの群れの中に降り、同時に信じる弟子である私たち一人ひとりに住まわれるというダイナミックな聖霊バプテスマが行われたということです。それは、ここで行われる一切の業が人間の業ではなく、神の助けの中で、神にのみ栄光が帰される共同体にされたということです。
白石教会も改めて、今日から、もう一度聖霊に満たされて、聖霊の助けの中で宣教の業を進めていきたいと願わされます。今回、コロナウィルス感染の影響で、会堂で礼拝がお休みという前代未聞の経験をした私たちですが、ここを通されたことで感謝だなと思わされたこともいくつかありました。その一つに、インターネットによる礼拝のライブ配信があります。すべての先端技術も神様のためにまず用いるべきですから、それが大いに用いられているのです。
それは、この札幌から遠く離れた地におられる方々も、白石教会の礼拝に参加できるようになったということです。今日も離れていますが、全国の白石教会に繋がっている兄弟姉妹たちがともに礼拝をささげておられます。その新しい御国でのような礼拝の恵みに感謝しつつ、今日もみことばに聴いていきましょう。

 

1.選ばれた弟子たちとその群れ
 先週からマタイの福音書10章に入りました。前回は、イエス様がご自分の宣教の業を弟子たち委ねられるところを見てきました。そのためには、まず「祈れ」と主は言われて、神さまとの交わりの中で「あなたはどうですか」という招きを聴き立たされていく。そういうお話でした。今日は、その続きで、まずどういう人たちが弟子に選ばれたのかというところから始まります。2節から4節までを読みましょう。
「さて、十二使徒の名は次のとおりである。まず、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、ピリポとバルトロマイ、トマスと取税人マタイ、アルパヨの子ヤコブとタダイ、熱心党員シモンとイエスを裏切ったイスカリオテ・ユダである。」
 ここで12使徒全員を細かく見ている時間はありませんが、大事なことだけをご一緒に確認したいと思います。まず、この12人が使徒という特別な役目として、教会の軸になっていく人たちになります。
 その筆頭がペテロです。ここではペテロと呼ばれるシモンと紹介されています。書いてある通りで、本名はシモンでしたが、イエス様から新しい名前をもらってペテロとなったということです。このことは、他のマルコ、ルカでも言われています。マルコでは「シモンにはペテロという名をつけ」とあり、ルカでは「ペテロという名をいただいたシモン」となっていました。それは、どの福音書記者も、ここを強調しているということです。福音書を書いたもう一人のヨハネという人は、ペテロがイエス様から名前をいただく場面をきちんと伝えています。
 その箇所のイエス様のことばをお読みします。
「あなたはヨハネの子シモンです。あなたをケパ(訳すとペテロ)と呼ぶことにします。」ヨハネ1:42
 ケパというのは当時のユダヤ人たちが日常会話で使っていたアラム語で、それを公用語ギリシャ語に訳すとペテロという名前なのです。その意味は「岩」です。
 実は、このことこそ、この12人の弟子たちすべてを表していると言っても過言ではありません。それは、今、イエス様に選ばれたばかりの初心者であるシモンという漁師が、何があっても動じない岩のような信仰者という意味の名で呼ばれる。そうお呼びになるイエス様のお心は、他の弟子たちに対しても同じだと言えるからです。
 シモンだけではなく、弟子すべて、そして私たちも、今、どのような小さな信仰だったとしても、どんなに貧しい信仰だったとしても、岩と呼んでくださる主の励ましをここに覚えるのです。決して名前負けしていることを馬鹿にしているのではありません。今、私たちがどのような弱く貧しい者であったとしても、それはこれからイエス・キリストによって、言い換えると聖霊によって岩のような信仰になることを先取りして、このように言われているのです。
 そういう彼等を主イエスはあえて選んでくださった。ここで聖書が言っていることは、先週もお話したとおり、どれほど自分をからっぽにしているかです。つまり、自分の経験や能力を武器に立つ弟子ではなく、丸腰であることに価値を置き、何も持っていないからこそ、主の権威を入れることのできるへりくだりです。

 

2.ただで与える心
 そういう彼らにイエス様は具体的な宣教する相手を指定します。5節、6節。
「 イエスは、この十二人を遣わし、そのとき彼らにこう命じられた。『異邦人の道に行ってはいけません。サマリヤ人の町にはいってはいけません。イスラエルの家の滅びた羊のところに行きなさい。』」
 初心者の弟子集団12使徒たちの最初のミッションは、イスラエル人たちへの宣教でした。ここを読んで、外国人を差別していると思ってはなりません。これは、イスラエル人たちが神様から委ねられている役割のゆえに、先に選ばれているのです。イスラエル人の役割は真の神様をこの世界に証しして、すべての民が神を知るようになることです。ですから、そのためにイスラエル人がまず神に立ち返り、遣わされた救い主であるイエス様を受け容れなければなりません。
 そこに行って、何を伝えるのかというと。7節、8節。
「行って、『天の御国が近づいた。』と宣べ伝えなさい。病人を直し、死人を生き返らせ、ツァラアトに冒された者をきよめ、悪霊を追い出しなさい。あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」
 この7節を見るとおやっと思います。確かまず癒す権威が与えられたのだから、癒すこと、寄り添うことが先ではないのか。この開口一番に「天の御国が近づいた」と宣べ伝えなさいとはどういうことか。
 先週、福音宣教は宣教の業の中心だと言いました。でも、いきなり救いのことを伝えようとしても、関係性がないとなかなか聞いてもいらえないという話をしました。それは事実だと思うのです。でも、その次のステップで救いを語りたいという下心があると、本当の意味でその人の心を開くことはできません。むしろ、全部言わないまでも、中心的なことを伝えることは必要でしょう。
 それで、ここをよく見ると、「悔い改めなさい」という言葉は入っていません。ただ「天の御国が近づいた」と癒しの前にそう一言添えるだけです。つまり、一番大事な救いのためであるという目的を隠したままで寄り添うのではなく、神様の救いの目的をきちんと告げることが大切であることを教えているのではないでしょうか。
 それで、ここまでからっぽになった彼らに癒しの権威が与えられて、その相手が示されました。さて次は何でしょうか。その働きの原動力のようなものは何でしょう。そのことを教えるため、イエス様はこのように言っています。8節後半。
「あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい」
 私たちがイエス様のために働くとはどんなときでしょう。それはまず礼拝をささげることが第一の働きです。そして、そのために奉仕すること。献金すること。家に帰って教会で聞いたみ言葉の通りに生きようとすること。それがイエス様のために働くことです。そのために与えられている時間、力、技術、お金、能力、いのち、愛、ことば。それがすべて神様からただで受けているというのです。それ以上に、罪が赦され救われることが何よりのタダで受けた大きな出来事です。選ばれるにふさわしくない者が選ばれた。そのことを何というでしょう。
それは「恵み」といいます。そのただで受けた恵みに立ち続けること。そして、その恵みから出てくるものは何でしょう。それは神への感謝です。その感謝が私たちの原動力なのです。それが、ただで受けたのだから、ただで与えるということです。その感謝の中にいるとき、私たちは生まれ変わります。自分の持っているすべてのものが神様からのギフトであり、一方的な賜物として感謝して生きる人に造り変えられます。自分にとって生まれつきの能力と思っていた、あの才能もこの特技も、神様からの賜物として感謝できるのです。
 でも、もし、信仰生活の原動力がこの恵みへの感謝ではなく、私たちのがんばり、気力、やる気、義務感だけだったらどうなるでしょうか。それは、その礼拝も奉仕も、どんなに立派な行為も自分の手柄になります。それは10節後半のイエス様のことばを自分のことばにしてしまうということです。
「働く者が食べ物を与えられるのは当然だからです。」
 イエス様は、弟子たちが旅先で生活に必要なものを心配しなくても大丈夫だよ。神のために働く者にはきちんと食べ物が与えられるのだからと励ましてくださっているのですが、これを私たちが自分の口で言ってはなりません。この言葉はイエス様の私たちへの励ましであり約束だからです。牧師などフルタイムで教会の働きをする者は、このイエス様のことばで励まされて、どんな厳しい境遇にあっても、主が必要を必ず満たしてくださる。そのように確信し、一歩踏み出して、一般の仕事をやめて、献身します。しかし、自分が教会で働いているのだから、あなたがたは私を支える義務がある。とか、これこれの奉仕をしたのだから、私は報酬を受けるのは当然だと言ったなら、それはここのイエス様のことばを誤解しているだけでなく、神の恵みを冒瀆することになります。
 つまり、神が恵みとして、ただでくださった賜物に感謝して、この働きをしているはずなのに、それを報酬にしてしまっているからです。それは神のための働きと言っていながら、自分の業、自分の手柄、自分の栄光にしているということです。ですから、牧師は特に、いただいている給与は謝儀という神からの恵みの賜物であって報酬ではないとわきまえておく必要があります。また、給与を支出する教会も、牧師を雇っていると思ってはなりません。なぜなら、それは互いに神への感謝が原動力だからです。それを評価した途端に、神様の恵みを人間の手柄へと引き下ろすことになるのです。パウロは、そこを勘違いしているコリント教会からの献金を一切拒否していました。パウロはそれを受ける権利はあるが「これらの権利を一つも用いませんでした」と言うほど大切なことです。パウロは、お金のために奉仕しているんだと思われるくらいなら死んだほうがましですとも言っています。私も神学校で教えられました。「貧しくて、もし本当に食べるものがなかったら聖なる餓死を選びなさい」と。その通りだと思います。特に、お金に関しては、イエス様はこの箇所できちんと警戒するように教えておられます。9節。
「胴巻に金貨や銀貨や銅貨を入れてはいけません。」
ここでイエス様は弟子たちに大事なことを釘刺しています。胴巻き(財布)に金貨や銀貨や銅貨を入れてはいけません。これはどういう意味でしょうか。私は最初にここを読んだときに、お金を持って行かなくても、必要は与えられるから大丈夫ってことかなと思っていたのですが、ここの原語を直訳するとこうなります。「儲けようとしてはいけない。金、銀、銅をあなたがたの帯びの中に」
帯びの中にという言葉があるので、儲けるという言葉をわかりやすく「入れてはいけません」と訳していると思うのですが、この「入れるな」というのは「儲けようとするな、得ようとするな、獲得するな」という言葉が使われているのです。しかも、10節で「働く者が当然与えられるもの」はお金ではなく、食べ物です。つまり生きるための必要最低限のものがお金ではなく食べ物であることをあえて強調して、恵みを手柄にするな、金銭に執着するな、私腹を肥やしてはならないとイエス様は警告しているのです。
 
結論
 このように牧師などのフルタイムの働き人のことを中心にお話をしてきましたが、これはすべて、そのまま、すべてのクリスチャンにも適用できます。それは、同じように、ただで与えられた恵みへの応答としての礼拝、奉仕、献金なのに、人の手柄のようにしてしまう弱さを、私たちは持っているということです。イエス様は山上の教えでこう教えています。
「あなたが施しをするときは、右の手がしていることを左の手に知られないようにしなさい」マタイ6:3
またこうもおっしゃいました。
「あなたがたもそのとおりです。自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです』と言いなさい」ルカ17:10
 奉仕への感謝はあっても良いでしょう。でもそれが称賛となってはなりません。それはその瞬間、主の恵みを人の手柄にしてしまうからです。そのことを互いにわきまえ、一人ひとりが主から受けている恵みを恵みとして感謝するならば、それで十分ではないでしょうか。
 今日はペンテコステです。この弟子たちが岩のような信仰をいただいて、殉教を恐れないものとして整えられたのは、実は聖霊を受けてからでした。このあと、弟子たちはみんな弟子の中で誰が一番偉いかで頭がいっぱいになって、イエス様を裏切って逃げました。せっかく祈って、からっぽになっても彼らの中に詰まってしまったものは高慢でした。癒しも悪霊の追い出しもイエス様の権威によってさせていただいていただけなのに、自分の手柄にしていったのでした。しかし、主の十字架と復活を通して悔い改め、そこでもう一度からっぽにされて聖霊が与えられました。イエス様はそのことを経験させたかったのだと思います。私たちは聖霊の助けがなければ、いっさい働けない。自分が無力であることを。だからこそ幸いを得ることができるということを思い知るのです。
 今、イエス様を信じるあなたにも聖霊が住んでくださっています。聖霊は、ただで受けた恵みに感謝して生きられるように、日々助けてくださっているはずです。でもただより高いものはないと言いますが、この場合、救いは私たちにとってはただ受けた恵みですが神様はただではありません。神の御子イエス様の血が流され、いのちが捨てられました。私たちの罪の代価として神のいのちが支払(はら)われたのです。だから、パウロはこう言います。
「あなたがたは代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。」Ⅰコリント6:20
 これからも、この場所で自分の栄光ではなく、神の栄光のために聖霊に満たされつつ、ともに礼拝をささげて、福音を宣べ伝えてまいりましょう。

 

祈り