列王記 第一 20章13~14節
"13 ちょうどそのころ、一人の預言者がイスラエルの王アハブに近づいて言った。「主はこう言われる。『あなたは、この大いなる軍勢を見たか。見よ、わたしは今日、これをあなたの手に引き渡す。こうしてあなたは、わたしこそ主であることを知る。』」
14 アハブが「それは、だれによってでしょうか」と尋ねると、その預言者は言った。「主はこう言われる。『諸州の首長に属する若い者たちによって。』」アハブが「だれが戦いを仕掛けるのでしょうか」と尋ねると、「あなたです」と答えた。"
列王記 第一 20章21節
"21 イスラエルの王も出陣し、馬と戦車を討ち、アラム人を討って大損害を与えた。"
主は憐み深いお方です。あれほどまでにバアルに仕える預言者たちを持ち、主への信仰を軽んじたのに、主は、アハブを憐み、みことばを与えたのです。
それはなぜか。
「主はこう言われる。『あなたは、この大いなる軍勢を見たか。見よ、わたしは今日、これをあなたの手に引き渡す。こうしてあなたは、わたしこそ主であることを知る。』」
それは、アハブがこのみことばを与え、イスラエルを勝利に導く神こそ主であることをアハブが知るためでした。「知るため」とは体験を伴うことを意味しています。また、それは深い関係を意味しています。
創世記でアダムが妻を愛して一体となったことをこのように記しています。
"人は、その妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、「私は、主によって一人の男子を得た」と言った。"
創世記 4章1節
つまり主がアハブに「わたしが主であることを知る」と仰せられているのは、言い換えると「わたしのことを愛する」という意味なのです。主を知ることは主を愛することなのです。
そのことを、これまで主の目の前に悪を行なってきたアハブに対して、すぐに滅ぼさず、主に立ち返るように、預言者を通して働きかけたのでした。
主は今もそうです。憐み深く私たちを愛し、悔い改めて立ち返ることを待っておられるお方です。私のために、あなたのために、今も主を愛するものとなることを期待して、恵みを持って今日も臨んでおられます。
その主の憐みを、このみことばを通して知りました。あなたのきょうの一日が、きょうもあなたを愛し憐み、待っていてくださる主に立ち返るものでありますように。心からお祈りいたします。
"わたしを遣わされた方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしが一人も失うことなく、終わりの日によみがえらせることです。
わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。」"
ヨハネの福音書 6章39~40節