のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

◎2020年6月4日(木)きょうのみことば

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列王記 第一 21章1~16節

"これらのことがあった後のことである。イズレエル人ナボテはイズレエルにぶどう畑を持っていた。それはサマリアの王アハブの宮殿のそばにあった。
アハブはナボテに次のように頼んだ。「おまえのぶどう畑を私に譲ってもらいたい。あれは私の宮殿のすぐ隣にあるので、私の野菜畑にしたいのだが。その代わりに、あれよりもっと良いぶどう畑を与えよう。もしおまえが良いと思うなら、それ相当の代価を銀で支払おう。」
ナボテはアハブに言った。「私の先祖のゆずりの地をあなたに譲るなど、主にかけてあり得ないことです。」
アハブは不機嫌になり、激しく怒って自分の宮殿に入った。イズレエル人ナボテが彼に「私の先祖のゆずりの地はあなたに譲れません」と言ったからである。アハブは寝台に横になり、顔を背けて食事もしようとしなかった。
彼の妻イゼベルは彼のもとに来て言った。「どうしてそんなに不機嫌で、食事もなさらないのですか。」
そこで、アハブは彼女に言った。「私がイズレエル人ナボテに『金を払うから、おまえのぶどう畑を譲ってほしい。あるいは、おまえが望むなら、代わりのぶどう畑をやってもよい』と言ったのに、彼は『私のぶどう畑はあなたに譲れません』と答えたからだ。」
妻イゼベルは彼に言った。「今、あなたはイスラエルの王権を得ています。さあ、起きて食事をし、元気を出してください。この私がイズレエル人ナボテのぶどう畑を、あなたのために手に入れてあげましょう。」
彼女はアハブの名で手紙を書き、彼の印で封印し、ナボテの町に住む長老たちとおもだった人々にその手紙を送った。
彼女は手紙にこう書いた。「断食を布告し、ナボテを民の前に引き出して座らせ、
彼の前に二人のよこしまな者を座らせて、彼らに『おまえは神と王を呪った』と証言させなさい。そして、彼を外に引き出し、石打ちにして殺しなさい。」
そこで、その町の人々、その町に住んでいる長老たちとおもだった人々は、イゼベルが彼らに言ってよこしたとおり、彼女が手紙に書き送ったとおりに行った。
彼らは断食を布告し、ナボテを民の前に引き出して座らせた。
そこに、二人のよこしまな者が入って来て、彼の前に座った。よこしまな者たちは民の前で、「ナボテは神と王を呪った」と証言した。そこで人々は彼を町の外に引き出し、石打ちにして殺した。
こうして、彼らはイゼベルに「ナボテは石打ちにされて死にました」と言ってよこした。
イゼベルはナボテが石打ちにされて殺されたことを聞くとすぐ、アハブに言った。「起きて、イズレエル人ナボテが代金と引き替えで譲ることを拒んだ、あのぶどう畑を取り上げなさい。もうナボテは生きていません。死んだのです。」
アハブはナボテが死んだと聞いてすぐ、立って、イズレエル人ナボテのぶどう畑を取り上げようと下って行った。"

  イスラエルにナボテという信仰者がぶどう畑を持っていました。その畑は先祖代々受け継がれてきたもので、ナボテにとっては、単にぶどうがよく実るだけではない、他の人に譲れない価値と責任がありました。

 そのナボテのぶどう畑を見たイスラエルの王であるアハブは、喉から手が出るほど欲しくなりました。それは、そのぶどうが欲しいのではなく、そこを野菜畑にするためだったことが、言われています。

 しかし、その王の思いはナボテの強い意志と信仰によって消え去りました。

 ナボテはアハブ王にこう言います。

「私の先祖のゆずりの地をあなたに譲るなど、主にかけてあり得ないことです。」

 これで、アハブはヘソを曲げてしまい、宮殿の自分のベッドの上でふてくされていました。

 ここまでが、イスラエルの王としての常識の範囲です。いくら王とは言え、国民のものを力づくで奪うことまではできません。アハブはイスラエルにバアル礼拝を取り入れたという宗教政策は間違っていましたが、彼の統治者としての働きそのもの全てが悪かったわけではありません。

 しかし、ここに新しい統治スタイルが持ち込まれます。それはイスラエルにバアル礼拝を取り込むことになった中心人物である妻イゼベルの常識でした。

 彼女はアハブのふて寝を見てその理由を聞きます。それが、自分の国民のものが手に入れられないことを聞いて、いとも簡単にその打開策を持ちかけるのです。それが、きょうのみことばの後半部分です。

 イゼベルは、王の言うことを聞かない奴は殺せば良いという常識の持ち主だったのです。それは、当時の一般的な他国の王であれば、当たり前の方策だったかも知れませんが、イスラエルは神から律法をいただき、主のきよさを国民に教え、また王自らも国民を力づくで支配するのではなく、羊飼いのように愛を持って牧することが務めです。それがイスラエルの常識だからです。

 ところがアハブはイゼベルのやり方に口を挟むことなく、彼女の思うままにさせ、結果、信仰深い、正しい常識を持った国民に濡れ衣を着せて殺したのです。ありもしない罪をよこしまな者たちに証言をさせて死刑にしたのです。

 正しい者が、罪を罪とも思わず横暴に振る舞う者の犠牲になったのです。しかも、国民を守る立場にある王が、正しく生きようとしている国民こそ宝であると思わないで殺す。

 しかし、このようなことは、現代でもかたちを変えてよく起こります。悪政のために真面目に働いている人が馬鹿を見るような話は、今も尽きません。いくら働いても生活が楽にならない社会構造、経済によって、金持ちはますます金持ちになり、政府もお友達が多い政財界を優遇します。

 そのツケを文句も言わずに頑張っている国民が払っている現実は、このアハブがナボテにした悪事と何ら変わりません。

 しかし、このナボテの話しはこれでは終わりません。聖書にある、このような理不尽な出来事の中に、神様は真の解決を表しているのです。

 それは、ナボテの濡れ衣を着せられて殺される姿にキリストの十字架を見るからです。キリストも何の罪も犯しておらず、むしろ神の国の福音、教えを語り、病や悪霊につかれた人を癒し、この世の圧政によって虐げられている人に寄り添うお方でした。

 しかし、キリストはユダヤ人指導者たちから妬まれ、ありもしない罪をでっちあげられ、それこそ、よこしまな者に証言されるなど、不利な状況の中で、結果、十字架にかけられ殺されます。

 でも、それはそれだけで終わりませんでした。その理不尽な死こそが、私たちと神を繋ぐという大切な贖いの業だったのです。その逆転的な発想は人間には起こらないことです。パウロは、それが神の知恵だと言います。

 そのとおり。神はひとり子キリストに全人類の罪を負わせて死なせることで、信じる私たちを神の子どもとしてくださる道を開いてくださったのです。

 それは、信じる者がこの世でどんな圧政の中にあっても、どんな理不尽な思いをし、苦しめられても、すでに神の国の国民とされ、祝福が約束され、喜びと希望を持って生きるようにされたということです。

 ナボテの死は、一見酷い、理不尽な出来事に見えますが、その700年後に、キリストが、その理不尽をナボテの不幸とともに十字架に磔にされたことにより、神にあって祝福の中に取り込まれたのです。また、そのキリストの犠牲を現す予型だったのかも知れません。

 あなたも、今キリストを信じるならば、あなたの不幸に思える人生、思い出すと元気を失うような過去すら、それで終わらない人生を得ることができるのです。神にあるならば不可能はありません。

 きょうも全ての出来事を、ご自分の祝福の中に取り込まれて恵みと変えてくださる主が、あなたとともにおられます。その主に信頼し、希望を持って委ねてまいりましょう。

 

"しかし、あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。"コリント人への手紙 第一 1章30節