のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

◎2020年6月8日(月)きょうのみことば

ルカの福音書 6章5節

"そして彼らに言われた。「人の子は安息日の主です。」"

ルカの福音書 6章9節

"イエスは彼らに言われた。「あなたがたに尋ねますが、安息日に律法にかなっているのは、善を行うことですか、それとも悪を行うことですか。いのちを救うことですか、それとも滅ぼすことですか。」"

  昔も今もユダヤの律法において、安息日とは土曜日のことです。その日には仕事をしてはならないと定められており、神への礼拝を捧げることにしているからです。現在でもイスラエルに行くと、ホテルでは安息日のエレベーターは各階止まりに設定されているそうです。それは、乗った人が指で行き先階ボタンを押さないためだとのこと。それは指で押す動作が仕事をすることになるという理由からです。

 でも、その根本的な理由は、神を礼拝し、神の前にぬかづくときこそ、私たち人間にとって、いいえ、神に造られたもの全てにとって安息となるからです。それは、まさに新しい神の国における礼拝の姿であり、天の御国の前味なのです。

 

 では、キリスト教ではその律法を受け継いでいるのでしょうか。

 このことは、歴史的にみて多くの誤解を生み、間違って捉えられていたと思われます。というのもキリスト教会は、安息日律法をそのまま踏襲せず、主イエスがよみがえられた週の初めの日を記念して、日曜日に集まるようになったからです。しかも、本来、その日には仕事をしてはならないと人間の営みを禁止したのではなく、むしろ、イエスによってもたらされた救いによる神との和解がもたらした真の平安の中に置かれたことを味わい、安息日というよりも、すでに真の安息という永遠のいのちに預かっていることを喜び祝う。それが新しい主の日の過ごし方なのだ。そのようにして日曜日を過ごすのです。

 そのため、もともとはパン裂き(聖餐式)が礼拝の中心であり、それは同時に会食でもありました。クリスチャンが日曜日に共に集まり、聖書を朗読し、教えを聞き、祈りをして、その中でキリストが言われたように、キリストの十字架の死を記念してパンとぶどう酒を共に分かつのです。

 ですから、ユダヤ人たちが厳格に行なっていた安息日律法を超えたところに、キリスト教会の主の日があるということをわきまえておく必要があります。神はキリストにおいて、その救いを成就されました。それは、旧約聖書にある律法と預言の成就であり、新しい恵みの時代を意味しているのです。

 ですから、新しい礼拝日である日曜日だけが安息日なのではなく、毎日が主がともにおられる安息日なのです。しかも、それは仕事をしてはならないという窮屈なものではなく、私を救ってくださった主を愛するからこそ、このお方のおっしゃるみことばに生きたい、生かされたい。

 ですから、この主の日は、救われた者にとってかけがえのない、そのよみがえられた主を、同じ救いをいただいた仲間たちと合わせて集まります。この世の煩いから解放されて、ただ主の前にひれ伏し、新しい契約にあることをパンとぶどう酒とみことばを通して覚えます。

 

 以上のように、すでに安息の人生に入れられているのですから、毎日の仕事をも感謝して行い、神様が天地創造されたときに6日働いて一日休むという原則を示さらたことを感謝し、この世と煩いから解放されて、主の前にホッとしようではありませんか。

 ですから、礼拝後に公園を散歩する。海を眺める。心身の保養をして神の中に生かされている恵みを満喫するのです。ただ生憎、仕事や所用で礼拝を休まねばならないこともあるかも知れません。そのときも、仕事があるから礼拝できないことを肯定するのではなく、また、クリスチャンなのに礼拝を優先しないで仕事をしている自分を責めることなく、既に安息に入れられている事実に感謝して、主を愛する者としての自分として、主のためにできることをささげてまいりましょう。

 主のためにささげるあなたの犠牲を主は喜ばれます。それは主を愛していることの表現だからです。愛することは必ず行動となります。ですから、神の国と神の義を第一にしていくことを念頭に主を求めて過ごす。その中に、必ず主を愛する歩みが始まり、その愛に対する主の祝福を必ず得られるでしょう。

 今日も一日、既に安息を与えてくださっている主を愛し、主への最善を尽くして歩ませていただきましょう。