のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

2020年6月16日(火)きょうのみことば

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ルカの福音書 7章36~50節

"さて、あるパリサイ人が一緒に食事をしたいとイエスを招いたので、イエスはそのパリサイ人の家に入って食卓に着かれた。
すると見よ。その町に一人の罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油の入った石膏の壺を持って来た。
そしてうしろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらイエスの足を涙でぬらし始め、髪の毛でぬぐい、その足に口づけして香油を塗った。
エスを招いたパリサイ人はこれを見て、「この人がもし預言者だったら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っているはずだ。この女は罪深いのだから」と心の中で思っていた。
するとイエスは彼に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがあります」と言われた。シモンは、「先生、お話しください」と言った。
「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリ、もう一人は五十デナリ。
彼らは返すことができなかったので、金貸しは二人とも借金を帳消しにしてやった。それでは、二人のうちのどちらが、金貸しをより多く愛するようになるでしょうか。」
シモンが「より多くを帳消しにしてもらったほうだと思います」と答えると、イエスは「あなたの判断は正しい」と言われた。
それから彼女の方を向き、シモンに言われた。「この人を見ましたか。わたしがあなたの家に入って来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、彼女は涙でわたしの足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐってくれました。
あなたは口づけしてくれなかったが、彼女は、わたしが入って来たときから、わたしの足に口づけしてやめませんでした。
あなたはわたしの頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、彼女は、わたしの足に香油を塗ってくれました。
ですから、わたしはあなたに言います。この人は多くの罪を赦されています。彼女は多く愛したのですから。赦されることの少ない者は、愛することも少ないのです。」
そして彼女に、「あなたの罪は赦されています」と言われた。
すると、ともに食卓に着いていた人たちは、自分たちの間で言い始めた。「罪を赦すことさえするこの人は、いったいだれなのか。」
エスは彼女に言われた。「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。」"

 主イエスは、きょうの場面でも「あなたの信仰があなたを救ったのです。」と仰いました。それは、この罪深い女性の信仰をご覧になって言われたことばです。主イエスは、その罪深い女性の心が素直に行動に表れている、その行為が人目を憚らずに、ただ主への思い、その思いをかたちに表したことを喜ばれたのです。

 主イエスは金貸しと借金を許された者のたとえを語られます。それは、多くの借金を抱えて首が回らなくなっている状態の人が生かされる心境、最も救われた状態が、私たち人間と神様との間に横たわる罪の問題がイエスによって解決されることと非常によく似ているからです。

 この話を聴いたパリサイ人シモンも、とても良い答えを主イエスによって導かれています。主イエスのどちらが金貸しを愛するようになるかという問いに、シモンはこう答えています。

「より多くを帳消しにしてもらったほうだと思います」

 この答えこそ、この罪深い女性の信仰そのものだったのです。主イエスは、彼の答えを聞いて、このように称賛されます。

「あなたの判断は正しい」

 つまり、自分がどれほどの罪という借金を神に対してもっているかという自覚があるか。その罪が神との平和を壊し、どれほどの不幸を招いているかという現実に気がついているか。それを知り、その現実を悲しむ。しかし、それらを「帳消し」にされたと知るとき、いったいどんなことが起こるのか。それが、彼女の主イエスに対する行動であったのです。

 彼女は、自分がどれほどの罪を神に対して持っていたか。それゆえ、ずっと解決出来ずに不幸な道を歩んで来た。しかし、主イエスにお会いして、主イエスによって罪が赦されたと知ったとき、彼女は自分の思いを留めておくことが出来ませんでした。それで、高価な香油を主イエスに注ぎ、涙をもって主を礼拝したのです。

 その行為は、もしかしたら人の目には、立派な姿、かっこいい礼拝ではなかったかも知れません。しかし、礼拝の本質を伝える、まさに主の前に、正しく美しい礼拝だったのです。

 この彼女の姿は、私たちの目標でもあります。それは、私たちの信仰生活が形式化しやすいからです。礼拝がかたちだけになってしまう弱さを私たちは持っているからです。そのとき、何が足りないのか。そのことを主は喩えを持って、そして、この女性の信仰を通して教えておられるのです。

 彼女は神から、すべての罪を「帳消し」にされた。そこに、あの借金していたものが金貸しに抱いたその想いが重ねられた。その思いとは、多く許された者が多く愛するということです。

 信仰には、この愛が伴わなければ形式的になるということです。信仰とは信じていることを実際に表すことです。その原動力は「帳消し」にされたことへの感謝から生まれてくる愛なのです。この主への愛があなたの信仰を潤します。あなたの信仰生活を生き返らせます。あなたの礼拝を主に喜ばれるものへとつくりかえます。

 きょうもう一度、私たちがどれほどの罪深いものであったのかを思い起こしましょう。しかし、どうして主がご自身の身をもって罪を赦してくださったのか。その愛を味わいましょう。それは、全ての罪が帳消しにされたという、途方もなく大きな恵みだからです。その主の愛が私に注がれている。そのとき、あなたの中に起こる聖霊の働きに身も心も委ねましょう。そこから、溢れてくる思いと行動こそ、主への献身、まとこの礼拝だからです。

 

"しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。"
ヨハネ福音書 4章23節